死想(2)

【本編】
 死的哲学
 
「死んだらどうなるのか」
 の問いに、本質的な答はでない。
 来世や生まれ変わりなどについて、むかしからいろいろな説があるけれども、それらが真実かどうか、だれにも解る確たる証拠が提示されていないからだ。
 死んだことがない人間が云々するのだから、あたりまえである。
 しかし、
「何ゆえに人間だけが死を怖れるのか」
 という問いについては、いくらでも考えることができる。
 これも哲学である。
「人間だけが」
 と書いたが、はたしてどうなのか。
 人間以外の動物や植物になったことがないから、単に解らないだけのことではないか。
          *
 日本では、いつの時代からか、
「馬鹿」
 という言葉が使われ、いまも使われているけれども、どうして馬や鹿は馬鹿なのであろうか。
 人間が勝手にそうおもいこんでいるだけではないのか。
「犬死に」
 なんて言葉がある。
 無駄に無益に死ぬことであるが、犬はほんとうに無駄に無益に死ぬのであろうか。
 人間が勝手にそうおもいこんでいるだけではないのか。
          *
 馬や鹿が馬鹿な、というか、人間よりもおおきく劣る理由のおおきなひとつは、
「知力」
 だという。
 人間は知力が高い(有る)から優れていて、馬や鹿は知力が低い(無い)から馬鹿なのだという。
 しかし、知力というものは、それほど立派なものなのであろうか。
 たとえば、その知力というものは、戦争を起こさない知力なのであろうか。
 たとえば、他人や自然や動物を傷つけない知力なのであろうか。
 もしかして、金や地位や名誉を獲得するためだけの、知力ではないのか。
 もしかして、自分と自分の家族だけが幸福にひたるためだけの知力ではないのか。
          *
 たとえば犬や猫に死に対する怖れがないのは、犬猫には過去も未来もなく、
「いま・ここ」
 しかないからだという人がおおくいるけれども、本当にそうなのかは犬猫になってみないと解らないものである。
 たとえば牛や豚は屠殺される前に涙を流す。
 あれはやはり死に対する怖れなのではないかとおもわれる。
 それは、
「動物的本能」
 というもので、本質的には死に対する怖れとはいわないとする考えもすくなくないが、それでは人間だけが死を怖れるその怖れとは、動物的本能とは異なるものなのであろうか。
 そうして動物的本能による死に対する怖れは、本質的なものではないのか。
          *
 人間はだれでも、だれでもがいいすぎなら人間はたいてい、人間であるオノレと動物であるオマエとを区別したがる。
 差別とまでいえないのは、人間は動物ではないんだという誤解が顕著なためであって、これを意識的区別もしくは無意識的差別と呼びたい。
「万物の霊長」
 という言い方は、生きとし生けるもののなかの、勇者であり優者であるという認識なのだが、また同時に、人間はおなじ、生きとし生けるもの(動物、もしかすると魚類も植物)たちの仲間であるとの認識ともなる。
 すなわち、犬や猫や馬や鹿や豚や猿や鯨たちは、人間と同質の感情を有するのであって、すくなくとも死に関する想念では、同次元の生命体であると考えなければならない。
          *
 われわれ人間には、
「(一般的には)動物的直感」
 とか、
「(学問的には)適応性無意識」
 とかいうものがある。
 解りやすいとおもわれるので、競馬を例にだす。
 血統、得意距離、重馬場の巧拙、オーナーや厩舎の力の入れ具合、過去の成績、特に着順、走破タイム、直線タイム、当日の馬体重、調教の具合、騎手の力量と馬との相性、馬番、人気、何人かの競馬評論家の◎(本命)○(対抗)▲(単穴)△(著穴)の確認、ついでに競馬ファンの芸能人の予想確認まで。
 かたや、前日から出馬表を睨んで、右の項目について十時間ほどかけ研究判断した結果買った馬券、こなた、当日の発走前に出馬表を、単純に馬名とか馬番とかを一瞥して、十秒で何となく(というより動物的直感を頼りに)決めた馬券で、当たる確率は、後者のほうがはるかにおおい。
 とにかく、どう考えてもくるはずのない馬がきたりする。
 JRAのG1レースは、かたくおさまるケースが多いが、そうでないレース、または地方競馬などは、とんでもない馬がきたりして、印はゼロでも、
「何となく」
 気になる馬を買っておくと、これが大穴できたりすることがけっこうおおい。
 競馬に関して云々するとキリがないが、こうした、動物的直感もしくは適応性無意識の力を、知力や学力や努力よりも上位に置く専門家や識者もいるくらいである。
 ここからどういうことが発想されるかというと、専門書に書かれてある理論(理屈)よりも、そういうものを読もうともしない一般人(普通人)の動物的直感や適応性無意識のほうが、的を射ているということがあるということである。
 たとえば死について、いちばん簡単な例では、専門家諸氏が理論武装して、
「死はちっとも怖くない」
 と力説しても、学識も見識もない普通の人が、
「死はやっぱり怖い」
 というなら、死は怖い確率のほうが、はるかに高いということになるのである。
 つまり、馬や鹿が死を怖れるのは、動物的直感であって、人間よりも知力が劣るからでは、けっして無いのである。
          *
 ある国では牛を食ってはいけないとか、ある宗教では豚を食ってはいけないとか、ある地方では猿を食ってはいけないとか、ある団体では鯨を捕ってはいけないとか。
 そういう禁戒は宗教上の儀式でも、いわんや机上の空論でも、一部の人間たちの思いこみでもなく、かなり本質を衝いたものであるともいえる。
 たとえば切腹の場において、死ぬのを怖れる人間の介錯に手元が狂うのは正常な感覚であり、たとえば屠殺の場において、死ぬのを怖れる牛や豚を平然と殴り殺せるのは異常な感覚であるということになる。
 ひいては、じつは牛や豚を平然と喰らう者たちは、人間を平然と喰らう者と同質なのである。
 まさに、
「弱肉強食」
 とはよくいったものである。
          *
 ハンバーグやハンバーガーは、
「牛肉100%」
 が最大の売りらしい。
 だが、アメリカナイズされたものばかり食べていると、いずれ罰が当たる。
 すでに罰が当たって、早死にしている者たちがおおいはずだ。
 これはわたくしの意見ではないが、わたくしの意見としてもらってもかまわない。
 人間がほんとうに賢いならば、
「牛肉0%」
 を最大の売りにする時代がきていい。
 同じ動物仲間を殺して食って、平然としているのは屠殺場を目撃したことが無いからである。
 焼肉屋で、
「タンじゃ、ミノじゃ、ハツじゃ、コブクロじゃ」
(日常語にホンヤクすると)
「舌じゃ、胃じゃ、心臓じゃ、子宮じゃ」
 と、はしゃいでいる肉食女子たちのために、ぜひ、
「屠殺場見学会」
 を企画してほしい。
          *
「弱肉強食」
 は自然の摂理だという。
 男性の精子は五億個はなたれて、一匹のみが勝利者であるのだから、本質的に人間も弱肉強食なのであろう。
 いやそれは弱肉強食なんてものではなく、偶然なのだという考えもできるが、それを弱肉強食と捉えるところに、人間の傲慢と無知がありはしまいか。
          *
 現在でも、象の牙や犀の角を採るために、密猟をしている者たちがいる。
 生きるため、というよりも金のためには何でもする者たちで、世の中は溢れている。
 これははたして弱肉強食なのであろうか。
 正確には、
「弱肉強欲」
 であって、菜食主義者を賛美する気はないが、欲望の果て、禁欲ならぬ金欲と肉食とは無縁ではないことを認識したならば、どうしてはしゃいで肉食ができるというのか。
          *
『広辞苑』
 にもでている、
〈牛頭馬頭(ごずめず)〉
 は、仏教では地獄の獄卒であるが、西洋の画にも見られる。
 人身で牛の頭や馬の頭をもつ化け物である牛頭馬頭を、卑しい者、鬼の仲間と見る者は、今後はやめにした方がいい。
 天国はもちろんのこと地獄なぞ無いのであり、無い処に在る者が有るわけは無いのであるから。
          *       
 わたくしたちはだれでも(だれでもがいいすぎならだれかしら)生まれる前の記憶をもっていたり、いま起こっていることが、むかし経験したこととして感じることがある。
 この不思議に対する答として提示されるのが、
「生まれ変わり」
 の説である。
 ただしこれを想定することはできても、証明することはできない。
 とはいえ頭から否定することもできない。
          *
 たとえ生まれ変わることがなくても、
「幽霊」
 になることはできると信じる人たちがいる。
「そんなもの迷信にすぎない」
 と反論しても、幽霊を見たと断言する人たちに対して、それは柳だとかそれは影だとかいっても、納得してもらえないだろう。
 幽霊でなくとも、
「霊的な」
 と呼んでもいい体験をした人たちがいる。
 死んだ親に会ったとか、神仏の姿が明瞭に見えたとか。
 それらを、
「幻覚」
 だと笑ったり、
「薬物(ヒロポン、コカイン、マリファナなどの違法薬物のみならず、精神安定剤、睡眠剤、鎮痛剤など)」
 のせいではないかと疑ったりするのはたやすいが、スピリチュアル信奉者でなくとも、絶対にそんなことはないと断言する人たちの気持は変えられない。
 このことも難問だけれども、たとえ幻覚だとしても、ひとつだけいえることは、幻覚を見た人たちの心理状態が普通ではなく、どうして普通ではないのかと考えることは、大切なことなのである。
          *
 そういう状況を直視するのが苦手なわたくしでも、人の死に目に立ち合ったことが数回ある。
 数回としかいえないのは、あまり想いだしたくない経験だからかもしれない。
 そのうち、正確な意味で人の死に目に立ち合ったのは、父のときだけである。
 それまで元気だった父は、とつぜん下血をして入院し、敗血症となって三日目に、九十二歳で死んだのだが、まったくたまたま父の死を凝視した。
 ICUのベッドの上で、父は静かな呼吸をしていたが、つと呼吸が止まった。その瞬間、父の身体から(それは首筋のあたりだったと記憶している)透明な煙としか形容のできないものが、微かに立ちのぼった。
 立ちのぼるというよりも、脱けでたというほうが事実に近いかもしれない。
 そうして残された身体は動かなくなり、それは父ではなく人間でもなく、まるで蝋人形であった。
 こういう経験をした人は、おそらく霊魂の存在を信じることになるであろう。
 あの透明な煙を霊魂と呼ぶ蛮勇はないが、もしそう呼んでもいいものなら、わたくしが感得した霊魂なるものは、けっして禍々しいものでも怪しいものでも奇異なものでもなく、あるいは厳かなものでも神々しいものでもなく、ずいぶんとひっそりした、あくまでもしめやかなものであった。
          *
 逆に母の遺体を見たときは、蝋人形ではけっしてなく、いまにも眼を覚ましそうであった。
 母は入水自殺をして三日目に発見されたのだが、身体のなかに霊魂が宿っているとしかおもわれなかった。
 だからそのときは涙のひと粒もでることなく、号泣したのは葬式のときであった。
          *
 或る詩人が、死んでも白布をとって、死に顔を眺めたりされるのはたまらん、噛みついてやりたくなるといっている。
 詩人は顔にコンプレックスがあった人であるが、そういうものがないわたくしも同感である。
 なぜなら、抜け殻を眺めてお別れされても、意味がない。
 母の遺体を見たときは、それは抜け殻とはおもわれなかったが、やはり抜け殻なのである。
 霊魂が宿っているとしかおもわれなかったのは、わたくしの錯覚、というか、願望であったのである。
          *
 母が自殺したので、それまで自殺予備軍だったわたくしは、自殺をしないことに断固として決めた。
 だからといって、死にたい死にたいとおもっている若い人を、とやかくいうつもりはない。
 早く死んでも遅く死んでも、一億光年の宇宙のなかでは、まったく違いはない。
 けれども、この世のくだらなさ無意味さゆえに自殺するのならともかくも、他人に威されたり虐められたりして自殺するのは、あまりにも勿体ない。
 威す奴や虐める奴が悪いのに決まっているし、君たちが自殺したら、その悪い奴らがのさばるだけなのである。。
 せっかく生まれたのだから、結婚して家庭を持ち子供を育てるのは、本能的なよろこびであり生き甲斐である。
          *
 父の遺骨は母の遺骨があるお墓に納められたけれども、そこに父も母もいないと断言できるのは、父の死の瞬間を目撃したからである。
 お墓の前で泣いてもそこに父母はいない。
『千の風になって』
 という歌があるけれども、あの歌詞はあんがい的を射ていて、確かにあのおおきな空を吹きわたっている。
 わたくしと同じ目撃をした人はきっと、わたくしと同じおもいをするであろう。
「どんなに苦しんでいる病人にも、死の瞬間には平和がくる」
 のを目撃した哲学者がいるけれども、そうして同じ目撃をした人も少なくはないだろうけれども、わたくしには平和も地獄も見えなかった。
 見えたのは、うまくはいえないけれども、
「自然」
 であった。
         *
 母が死んでも、母がわたくしのなかに生きているかぎり、母は生きているんだと、ずっとおもってきた。
 けれどもわたくしが、母の死んだ歳をはるかに越えてしまうと、わたくしが死んだらわたくしのなかの母ももはや死んでしまうのだ、という実感が湧いて、そうなると、母とわたくしとふたり同時に死んでしまうのだと、やりきれないおもいになる。
 もしも子供なり孫が、わたくしを記憶してくれるなら、もうすこしは生きられるだろうが、その子供も孫もいずれ死んでしまう。
 けっきょく、母がわたくしのなかに生きているかぎり、母は生きているんだと、ずっとおもってきた、そのおもいは儚いおもいだったと自覚する。
         * 
 科学者や医学者に聞かなくとも、わたくしの体験上も一言でいって生は柔軟で、死は硬直である。
 屍体は腐敗して柔軟に変化しても、死という硬直性は変わることがない。
 なぜそうなのかというと、科学者や医学者の実証的見解は充分認めた上で、宇宙というものが柔軟ではなく硬直だからだと考える。
 硬直の宇宙に還元される死が、柔軟であるわけはないからである。
「いや宇宙は硬直なんかじゃない。あれほど柔軟なものはない」
 という宇宙研究家がいたとしたなら、それは柔軟という言葉の解釈の次元にすぎないというほかはない。
         *
 父が死ぬ十年前から、父が死ぬ夢を何度も見たものである。
 しかも父は切腹する。
 その時代錯誤的な様子を、じつに細かく、まったく現実以上に生々しく感受した。
 ところがそれを見ているわたくしは、止めるでもなく介錯するでもなく、ひたすら涙を流すのである。
 深層心理学の巨人いうところの、
「エディプス・コンプレックス」
 とはおもわれないし、
「死の欲動(Todestrieb)」
 ともおもわれない。
 眼が醒めたとき、わたくしの枕は涙で凄い濡れよう‚ナある。
 ひとりの人間から、これほどの水分がでることを、はじめて知った。
 もし切腹する父の姿が、将来のわたくし自身なら、わたくしは死の恐怖に涙したのであろうか。
 この夢は専門家の夢判断やわたくしの知識の範疇に無いもので、わたくしは途方に暮れたものだが、わたくしの夢のなかの父の死と、じっさいの父の死との差異をおもうと、予告的な夢でも無い。
 まったく度重なる父の死の夢は、死というものが謎と無関係では無いとおもわせられるのである。
          *
 人間を死の恐怖から救うのは、宗教や哲学だけではなく、労働もそのひとつである。
 人は課せられた労働でも進んでやる労働でも、労働をしている間は死の恐怖から逃れられる。
 しかもエンヤコラ、烈しい肉体労働。
 あんがい奴隷や死刑囚なども、例外ではないかもしれない。
 ここで考えられるのは、
「肉体と精神」
 とが、けっして分断されたものではないということで、精神などは肉体の一部にす‚ャない、との説もでてくるほどである。
 どちらにしても、肉体と精神について考えることは、けっきょく肉体の死と精神の死について考えることになるはずである。
 それはおそらく、
「われわれは何のために生きているのか」
 との問いにつながるものなのかもしれない。
 それは時代時代によって、ちいさくはない差異があるのだが、その差異の具体的な歴史的真実も確証しなければ、本質的な問いに立ち戻れないにちがいない。
 いや、過去なんかどうでもいい、現代のわれわれが何のために生きているのか、そのことを教えてほしいと願う人もおおいはずである。
 しかも(自分で究めるのが本筋かもしれないが)現代人にはそんな暇はないから、だれか教えてほしいというわけである。
          *
「死ぬことが怖くなくなる方法」
 なんて本もあるが、個人的体験によれば、
「自殺者」
 は、死よりも生が怖い。
 だから、死ぬことが怖くなくなるには、自殺者になることしかないと思われる。
 あの世を知ると死が怖くなくなるという人もいるが、そんなことはないか、そういうひともいるというほかはない。
          *
 人間は生きている間は、
「個」
 であるが、死んでからは、
「全」
 になる。
 全とはつまり、個を超えた巨大なもの、たとえば自然とか宇’壎ニかであって、その全の一部、いや一部どころか全に内包されて一部の個もなくなる。哲学ではそう語る学者がおおいが、神話では星とか風とかやはり一部になり、宗教では神仏のふところに抱かれる。
 いい方がちがうだけで、いっている主旨は同じなのかもしれないが、主旨が同じならば、どうしていい方がちがうのか。
 その疑問にも答えなければならないのが、哲学であり宗教であり、あるいは科学であろう。
 もしこうした解釈が真実であるならば、人はこの真実を平穏な気持で受け止めるであろうか。
 なぜなら全はいいとしても個に、
「差別」
 がおおすぎるからである。
 これは人が人に対する差別ではなく、
「運命」
「神仏」
「天界」
「宇宙」
 などと呼ばれるものが、人に対する差別である。
          *
「生きていてよかった」
 とおもうことが生の証であり、そうおもうことがひとつでもあれば、個としての人間は満足していいのであり、それがひとつではなく百ある人間との間に差別はなく、ひとつであろうが百であろうが、その感動に優劣や高低はないとする考えもある。
 尤もこの説は、人間は現世において年がら年中幸福である必要はな‚「ということにもなり、社会改革を否定することにもなりかねない。
          *
 自己愛が強い強すぎると、自己が死んだら、生命はなくなる、世界もなくなると、考えるひとが多い。
 けれども他者愛を強くもっているひとは、しかも生物すべてに愛情をそそげるひとは、自己が死んでも、生物の生命は永遠で、したがってこの世界に、死なんてものはないんだと考えることができる。
 別の視点からみれば、死の恐怖からのがれるためには、どれだけ他者や他の生物を愛せるか、ということになる。
 だが、食欲も性欲も睡眠欲も、他のかずかずの欲も、まずは自己の欲であり、自己の快楽であり、その快楽を喪うことに対するつらさが先に立つ。
 だから、話はそう簡単なことではない。
 だから、生命を超越する思想家や宗教家は、欲望を敵視する。
 だから、それは非人間的なのではないかという論も成り立つ。
 それでも、世界を堕落させているいちばんの元凶が、自己愛とか自社愛とか自国愛ということを考えると、もし人間が人類が、人間としての人類としての生物としての永遠の生命を願うなら、自己愛をどれだけ抑えられるかにかかっているともいえよう。
          *
「臨死体験」
 をした人たちがあり、また、
「死後体験」
 をした人たちもあり、それを嘘だと一蹴できる者はいない。
 なぜなら体験をした人たちに対して、苦笑してやりすごすことはできても、体験をしない者が反論する資格もなければ、反論しようにも持論がないからである。
 資格がないと、いかにも無茶なことをいったのは、無茶どころかあくまでも常識の範囲内であって、たとえば漁師が、
「この海の色この潮の流れをみると近くに魚の大群がいるはずだ」
 とか、たとえば猟師が、
「この足跡この風の気配をみると近くに獣の群れがいるはずだ」
 とか、そう断じることに反対はできまいからである。
「お化けを見た」
 という人たちに対しても同様である。 
          *
「お化け」
 と一口にいっても、なにせ千変万化、魑魅魍魎(ちみもうりょう)、百鬼夜行、である。
 妖怪も変化もお化け、幽霊も亡霊も死霊も悪霊もお化け、〈神〉が付いているが、鬼神も魔神もお化け、〈女〉や〈人〉や〈物〉が付いているが、魔女も鬼女も魔人も怪人も魔物も怪物もお化け。
 もしかすると、奇人も変人も狂人も超人も巨人も、お化けの一種かもしれない。
『お化けの季節』
 という拙作で、主人公に、
「お化けがいなけりゃこの世は闇じゃ」
 とよくいわせているが、これはお化けの存在を信じているからのセリフではなく、お化けでもいないと、人間は傲慢になってしかたがないという憂慮からでたものなのである。
 それに、お化けが、死に対する怖れを、助長させているのではなく、じつは中和させているのではないかとのおもいからである。
          *
 お化けを信じない人でも、この自分こそ幽霊じゃないかと感じた人は、あんがいいるかもしれない。
 わたくし自身もその一人で、自分の不確実さ不安定さ不可思議さを感じて、幽霊と変りがないじゃないかとおもわれた時期がある。
 それほどに、この現実に生きていることが頼りないわけだが、肉体を使った仕事をしている人には、こういうことはないのかもしれないが。
          *
 いままで妖怪小説はもちろん、死後小説や臨死小説も書いてきたわたくしでも、さすがに死後体験はない。
 けれども二度の臨死体験がある。
 一度は子供のころで、お花畑の真ん中を川が流れていて、向こう岸に祖母がいる。
 手招きしているふうにもおもわれたし、声をあげているようにもおもわれたが、その声が明瞭に聴こえだしたときには、生の世界に戻っている。
 これは一般によくいわれる臨死体験とほとんど同じであるが、そのころにそのことを知っていたわけではない。
 つまり臨死体験の予備知識があったわけではないのだ。
 もう一度は大人になってからで、天井くらいの位置から下を視ている。
 視ている先にはどうやら死んでいる自分がいる。いわゆる、
「体外離脱」
 である。
 そういう時間がつづき、いつのまにかあるいは何の前ぶれもなく、視ている自分が下降して死体に吸収される。
 そうして生の世界に生還したのである。
          *
 臨死体験状況を細分化すると、七つあるという学者がいて、十二あるという学者もいる。
 どちらが正しいかは別にして、大は小をかねるかもしれないから、ここでは数がおおいほうをとる。
一、体外離脱体験。
二、知覚が鋭敏になる。
三、天に昇る感覚、安らぎと無痛感、心地よさ。
四、暗いトンネルを通る感覚。
五、死者(親戚や友人)に会う。
六、時間や空間の変化を感じる。
七、奇妙な音を聴く。
八、神秘的あるいは強烈な光に遭遇する。
九、精神的な存在、この世のものではない世界との遭遇。
十、人生回顧(ライフ・レビュー)が起きる。
十一、境界や限界に到達する。
十二、自発的あるいは非自発的に、肉体回帰する。
 わたくしのばあいは、一から六まではあったが、七から十二は無かった。
 奇妙な音、神秘的で強烈な光が、どんな音か光かは解らないが、無音の世界であり穏やかな光であった。
 精神的な存在、この世のものではない世界がどういうものか、これも解らないが、神仏を信じていないから遭遇しないのかもしれない。
 人生の回顧に関しては、日々回顧しているからいまさらということなのかもしれない。
 境界や限界に到達するという感覚は味わいたいが、残念ながらそういう感覚はなかった。
 記憶にはないが、もしかすると生還したときに、肉体回帰という認識はあったのかもしれない。
 これらのうち、一と二と三は、(臨死体験者の)七割以上の人が体験している。
 他はそれ以下だから、わたくしが体験しなかったのもしかたないであろう。
 なお、臨死体験者の言葉として、
「天国」
「愛」
「平和」
「慈悲」
 とかがよくでてくるのであるが、これは体験者のひとりとして、
「あとづけ」
 あるいは、
「あとだしジャンケン」
 とおもわれてならない。
 おそらくそういう言葉を発する人たちは、常日頃からそういう言葉に慣れている。
 つまりキリスト教徒とか仏教徒とか、もしくはスピリチュアルな世界に親しく触れている人たちではあるまいか。
 そういうタイプの臨死体験者のおおくは、
「あの世」
「あの世に近いところ」
「この世でないところ」
 を、美化する傾向にあるのは顕著な例である。
 しかも、この世と比較して美化しているものだから、もう一度行ってみたいとか、永久に其処にいてもいいとか、まるでディズニーランドに焦がれる子供である。
「あちらの世界はとにかく明るくてきれいで、こちらの世界のいちばん輝かしい色でさえくすんで見える」
「ほんとうに素晴らしい色で、言葉では説明できないが忘れることもできない」
「その神々しい色彩は、世俗の人びとなど棲むところではないとおもわれ、すべてが洗われ浄められる景色だった」
 つまりその美しさを〈色〉で表わしている。
 けれでも意地悪な見方をするなら、それは最初の時期(臨死体験中)だけで、その美しく素晴らしい色のなかから、いずれこの世のものとはおもわれない、醜い悪相の怪物が登場するかもしれないのである。
 そこまでの想像力は無いらしいが、
「美しいものには棘がある」
 という金言も信じたく無い‚轤オい。
「はきだめに鶴」
 の金言を大切にしているわたくしなぞは、かえって醜い色のほうが安心を感じたにちがいない。
 じっさいの体験では、色は美しくも醜くもなく、ただこの世の色とは微妙に異なっている感じはあった。
 どうちがうのか上手くはいえないが、寒色はまったくなくて、暖色ばかりだったし、その暖色も原色っぽいあざとさはなかった。
 文字どおり暖かい色だったと記憶している。
 それが嗜好的にどうかは別問題なのであるが。
          *
 臨死体験者のおおくは、
「いまでは死をさほど怖くない」
 と告白しているが、それは美しいあの世を垣間見たからなのか、一度死んだ命だからという一種の悟りなのか。
 おそらくその両方であろうが、もしも前者の気持がすべてならば、ずいぶんとオポチュニストではないかとおもわれる。
 一度あることは二度あり二度あることは三度あるなんて、ペシミストにはとうていおもえないことだからである。
 そんな美味しいことが、いままでこの世であったというのか。
 この世では無いことが、あの世ではあることだとどうして確信できるのか。
          *
 二十年以上にわたって、
「肉体をこの世に残したまま、霊となってあの世を実体験してきた」
 という神学者がいる。
 これはもはや臨死体験どころの話ではない。
 神学者と聞くと、なるほどと私ならずとも眉唾的な反応を示すが、同時に科学者でもある篤学と知ると、話は変わってくる。
 しかも、天界と地獄の具体的な体験談を、膨大な著作となしているのだから、恐れ入る。
 私は一読して、ここに記された話は、天界とか地獄とかというよりも、現世の実態ではないかと思われた。
 つまり、霊となって、あの世ではなくこの世を経廻って、その実態を克明に記した。
 そう考えると、あの世とやらは、この世とやらとイコールになりそうである。
 尤も、この著作は、一読ではたして理解できるかという問題は残り、さらにこの著者がのめりこんだ、
「心霊研究」
 というものの総体をまた研究する必要がある。
 それを信ずるか信じないかは棚にあげてでも。
          *
 オポチュニストは、
「死とは終わりではなく始まりである」
 と考える。
 死とは、新しい世界で誕生することにほかならない。
 この世界に誕生したわれわれは、次はあの世界で誕生する。
 だから、いまはあの世界での誕生など考える必要はない。
 結婚をし、子供を生み、子供を育て、年輪を重ねて死ぬ。
 それは幸福な終わりであり、同時に幸福な始まりである。
 ペシミストは、そんな人生はくだらない、くだらないことをこの世のみならず、あの世でもやるのは、
「ごめんだ、もうかんべんしてくれ」
 とさけぶにちがいない。
 子供に背かれ、老夫婦ふたり足腰立たず老老介護をしつづけるも、普通の暮らしはできない、経済的にも限界だ、心中するしかない。
 たとえそういう人生を送らないまでも、そういう人生を送る人たちのことを、どうして想像できないのかと嘆く。
          *
「尊厳死」
 あるいは、
「安楽死」
 という言葉を、新聞や雑誌でよく見かける。
 死は予告も前ぶれも無くやってくるものであるから、自分の死を予告も前ぶれも有りで選択できることは、死の運命に対する抵抗でもあるかもしれない。
 けれどもそこに強烈な自我、あまり美しくはない自我を認めるのはわたくしだけであろうか。
 そのとき彼は、
「どれだけ生きたか」
 では無く、
「どのように生きたか」
 の意味を考える。
 自分はこのように生きたから、このように死ぬのであるというわけである。
 こういう自我意識に救いが無いのは、人間の逝くべき場所は、どれほど自分を貫こうが、無私、去私、捨私の世界だからである。
          *
 尊厳死や安楽死がそうであるなら、自殺はなおさらである。
 脳硬塞で倒れた自分を、
「形骸に過ぎず」
 ときめつけて自殺した文学者がいるけれども、それが正論となると、脳硬塞で倒れた人たちはみんな形骸に過ぎないことになり、このあまり美しくはない強烈な自我に、わたくしは同情できない。
 共感した人もおおくいるが、浅薄な共感はみっともない。
          *
 他人事ではあっても、やはり胸がいたむのは、難病や事故や災害などによって亡くなる、幼い子供たちのことである。
 けれども、その子供たちは、煩悩おおき大人たちよりも、はるかに死に対して達観しているばあいがある。
 これは外国の話であるが、重い白血病の末期症状にくるしむ七歳の少年(ここではA君とする)が、ママに酸素のスイッチを切ってくださいと頼んだ。
 A君といつも語り合っていたママが、酸素のスイッチを切ると、A君は満面に笑みをたたえて、ママにお別れをいった。
 A君は(そんな言葉は知らなかったであろうが)形骸に過ぎずふうなことは、まったくいわなかった。
 病気に対する、うらみつらみもいわなかった。
 近いうちに自分が死ぬということも、よく解っていた。
「痛みが烈しすぎるから、死んで楽になりたい、ママもこれ以上ぼくを見ているのは、耐えられないはずだし、ぼくもそんなママを見ているのはもう耐えられないんだ」
 といったのである。
「ぼくは七歳だけれど、いっぱい生きたし、いっぱい可愛がられたし、ちっとも文句はないんだよ」
 ボランティアが、君のことをみんなはとても同情してくれているよというと、A君は、
「みんなはまちがっているよ、なぜって死んでもぼくはまたもどってくるんだから」
 と応えたそうである。
「ぼくにはいまの生の前に、いくつもの生があったとおもうし、これからもあるとおもうよ」
 わたくしは「達観」といったが、「諦観」かもしれないし、自分なりの「おもいこみ」かもしれない。
 だが、A君がそういうなら、A君はきっともどってくるはずだ、とわれわれがおもいこんでもいいのである。
 本当の真実なんてものはないのだから。 
          *
 先述したとおり、わたくしの母は自殺した人間である。
 わたくしも若いころは、自他ともにゆるす自殺者予備軍であった。
 わたくしはもう半世紀ほど、自殺について考えに考えてきた。
 よって、あえていうのだけれど、自殺は、
「自分という人間を殺す」
 のだから、人殺しの一典型なのである。
 そこまでは自分なりの答をだしたが、自殺者心理については、人それぞれのところがあり、また理由がひとつでないことのほうが多く、なかなか答をだせずに今日にいたっている。
 ただ自殺しようと決心をした人間は、ほとんど死を怖れてはいない。
 死よりも、生を怖れているばあいがほとんどである。
 それでが悟った人間かというと、むろんそうではない。
「漠然とした不安」
 と、自殺した人気作家が書き遺しているが、この「漠然」がキーワードであって、ふつうの理性やふつうの感性が、明晰と明確と明瞭を喪ない、漠然としかいえない靄に覆われた心理状態なのだと、いまではおもわれる。
 自殺者は、死を怖れないという一点のみでも、じゅうぶん精神病の資格がある。 
 ちなみに、哲学者のなかでいちばん偉大な哲学者の死や、茶人のなかでいちばん偉大な茶人の死は、自殺という形をとってはいるが、実相は時の権力者による他殺なのである。
          *
 世界の大文豪ともなれば、おもいこみも半端ではない。
「私は魂である」
 と断言する。
「死は最大の解放者であり、人生の頂点に立った者が、さらに昇る最高の段階だ」
 それなら、人生の落伍者はどうなるのかと文句をいいたくはなるが、小説家にかぎらず、音楽家も画家も、すべからく芸術家は、作品という魂を遺す。
 だから芸術家は、
「肉体という脆いマントを脱ぎ捨てるだけだ」
 魂を遺したい人間は、才能の如何にかかわらず芸術家になるべきであろう。
 だが、芸術は永遠ではない。
 毀誉褒貶の話はともかくとしても、たとえば巨大災害や世界大戦で、少数の人間は生き残ったとしても、すべての芸術作品が壊滅したとしたらどうであろう。
 最悪の状況すらも夢想してこそ、真の芸術家というべきではないか。
 真の芸術家がいたとしての話だけれども。
          *
 ひとむかし前の哲学者の主な使命は、
「真善美」
 の追及と追及した末の解答であった。
 それは、
「どう生きるか」
 というテーマに直結していた。
 かつて、
「哲学することは死を学ぶことである」
 と断言した哲学者がいたが、それもやはりより良く生きるための学びである。
 ひとむかし前の宗教家の主な願望は、死を克服する、
「人間救済」
 のための悟りの獲得であった。
 そのために、天国をつくったり地獄をつくったりした。
 ひとむかし前の文学者の主な使命は、人間の精神の領域に関する追及であった。
「人生いかに生きるべきか」
 とは、
「上手な死に方までの物語」
 でもあった。
 ひとむかし前の科学者の主な使命は、
「人間存在」
 の謎の研究と高度な成果であった。
「DNAの発見」
 は、たいへんおおきなことであった。
 けれどもこれからの哲学者や宗教家や科学者の使命は、それだけでは足りない。
 たとえば、
「死んだあと自分はどうすればいいの」
「死んだらこんどいつ生まれ変わるの」
「いつまでも死なないためには何をしたらいいの」
 などの、くだらないとおもえる問いでもくだらないとおもわずに、その問いに対するあくまでも具体的な答を見つけださなければならない。
 具体的な答を。
          *
「一度きりの人生だから」
 清く正しく美しく、負けず嘆かず悔いのないよう生きよう。
 そんなことをいう者は、みんな偽善者である。
 そうしたかったにしても、そううまくはいかないのが人生であって、もしそううまくいった者がいるなら、その者は人間ではない何者かであろう。
 もしかするととびきりの成功者であって、他人に諭すというよりも、自分を誉めているに過ぎない。
 こういう言葉を耳にしたり目にすることがすくなくはないが、そういうときは、
「人生は一度きりではない」
 と揚げ足をとりたくなるものである。
 そうでもしなければ、わたくしと同じダメ人間には、プレッシャーになるばかりである。
          *
 天国とか地獄とか、初めて名づけた人の観念と、現在われわれが考える観念とは、かなりちがうのではないかとおもわれる。
 同様に、その名づけられた場所への、
「道(タオ)」
 も、道ではない。
 それはおそらく言葉ではいいあらわせないくらい(それこそ何億光年でもまだすくない)長大で(無限大といってもいいくらい)宏大な光と闇のはずである。
 つまり天国と地獄は、いわゆる、
「宇宙的神秘」
 であって、初めての人はそこまで考えていたのではないだろうか。
 たとえば、
「ブラックホール」
 の撮影に成功したけれども、それは単なる写真であって、その正体は未だわれわれの想像を絶したものなのである。
          *
 おおむかしの名僧が天寿を全うするとき、弟子たちが遺言を望んだ。
 すると、名僧は、弟子たちが唖然とすることをいった。
「死にとうない」
 といったのである。
 弟子たちは、何かのまちがいとおもい、ふたたび頼むと、
「それでも死にとうない」
 といったとのこと。
 さすがは名僧。
 死んで極楽にいくなんて、まやかしだと解っていたのである。
 死んだらつまらないだけだと解っていたのである。
          *
 宇宙の神秘と同時に考えてしまうのが、
「人間(もしくは人体)の不思議」
 であって、その緻密さは、神でもいなければこうはいくまいとおもう反面、神がいたならばもっと上手く造ってもらいたかったとおもうこともある。
 わたくしの敬愛する作家は、
「人間は他の哺乳類と変わることがない」
 という。
 要するに、
「入れて出す、吸って吐くだけの存在」
 であり、附随要素はたまたまであると。
 その考えは味気ない気もするけれども、人間の本質とか人間の運命とかをいい当てている気もする。
 それでは、
「DNA即運命」
 かというと、そういうわけでもないのであって、DNAは先天的ではあるが、後天的でもあるのである。
 環境や食物や活動やあれやこれやでDNAは変質する。
 ということは、運命も変質するのであって、宇宙が変質しつづけていることを考えれば、当り前のことなのである。
 でっかい宇宙とちっぽけな人間とはつながっているのであって、そうでなければ人間が地球以外の場所で生きられるわけがない。
 そのせいかどうか、ある時期から、健康食•iや健康体操を推奨する、商業主義に騙されたかのごとく沸騰した、
「健康ブーム」
 は、ブームに終わらずに、おそらく未来永劫つづくであろう。
 いや、おおむかしから健康志向だったのであり、それは英雄の、
「不老不死願望」
 にかぎらない。
 まったく、だれの句だったかは忘れたが、
【浜までは海女(あま)も蓑着る時雨かな】
 であって、
「ああするなこうするな」
 の老婆心は、この健康重視の考えからでている。
          *
 宇宙の神秘とか人間の不思議にはきりがないけれども、素人なりにまずおもうのは、
「どうやって宇宙は誕生したのか」
「どうやって人間は誕生したのか」
 ということになろう。
 前者は、
「宇宙論」
 が、後者は、
「進化論」
 が、ある程度一般にも納得できる答をだしているが、その先またその先となると、もはや、
「突然変異」
 とでもいうしかないくらい、濃い霧も濃い霞もかかっている。
 だが突然変異という言葉は、救いを孕んでいて、それは、
「輪廻転生」
「よみがえり」
「生まれ変わり」
 なども、突然変異というものによって、まったくの不可能でもないと考えられる、ということなのである。
          *
「死は人間にとって無関係である」
 と主張する先人たちがいる。
 はじめは、おおむかしのギリシャの哲人がいいはじめ、その思想は、これほど科学が発達した現代にも及んでいる。
 なぜならわれわれが存在するかぎり死は存在せず、死が存在するときはもはやわれわれは存在しないのだから。
 この説は、死を怖がる人びとにとっては、ある種の救いになるかもしれない。
 あるいはもしかすると、この現世が辛く苦しく悲しく不快である人たちにとっては、そういうものと無関係の死の世界にいきたくて、自殺をするかもしれない。
 となると、現世の状況が厳しければ厳しいほど、この説は人間を自殺に誘いこむことにもなりかねない。
 したがって死の恐怖の克服を意識的に(おそらく無意識的なほうがおおいだろうが)望む人は、哲学を学ぶよりも、日々労働し(あるいは運動し)つづけるにちがいない。
 肉体の活動が精神の活動を妨げるとはいわないけれども、麻痺させることはできるからである。
 だから死の恐怖の克服という大袈裟なことでなくとも、精神的苦悩は肉体的充実で一時的にでも解消されるはずである。
 もしかすると宗教の世界で、烈しく厳しい修行はもちろん、踊ったり祈りの言葉を捧げたりの行為は、そういうことと無関係ではなさそうである。
 禅はいかにも静謐で肉体的活動はなさそうではあるが、何日も壁に向かって坐禅をしたり、岩の上で坐禅をしたりと、ちっとも肉体的にも楽ではない。
 たとえ堂内で坐るときでも、うっかり居眠りでもすれば肉体的にカツをいれられるし、わたくしなんかは腰が普通じゃないので、坐るだけでもたいへんな苦痛である。
 死の恐怖どころか、〈いま・ここ〉の恐怖に冷汗も脂汗も流れるのである。
 そう考えると、人間を死の恐怖に導きやすいのは、
「閑暇」
 と、
「退屈」
 ということになる。
 閑暇と退屈を紛らわすためには、(違法薬物はさておいて)手っ取り早く酒とか煙草とかギャンブルとかゲームとか(これは囲碁将棋から電子ゲームまでを指す)セックスとかになるが、酒も煙草もやらず、ギャンブルもゲームもセックスも好きではない人たちは、肉体を使う(できれば酷使する)趣味を見つけなければならない。
 それも、そのことに夢中になり集中できるもの。
 わたくしはスポーツジムや公共体育館等の実態を身をもって知っているつもりだが、其処で定期的に仲間と一緒にエアロビクスやアクアビクスやバドミントンやバレーボールなどに汗を流している人たちを見ると、本人たちにはそれぞれの理由があるのだろうが、まるで死の恐怖の克服のためにやっているのか、とついおもってしまうのである。
          *
 おおむかし我が国の武士や農民はおおいに肉体を使ったものだが、なかにはのんびりと放浪したり、ひっそりと山にこもったり、山にこもらなくとも自らすすんで書籍の山に埋もれた、少数の人たちがいた。
 かれらは旅人とか雲水と呼ばれたり、隠者とか出家とŒトばれたり、学者とか賢者と呼ばれたりしたものだが、おしなべて幸福な生涯だったとはおもわれない。
 かれらが発見した世界の真理は、
「無常」
 という言葉に集約される。
 ゆく川の流れがもとの水でないように、この世につねなるものは無いのである。
 あるいは、
「無情」
 という言葉に集約されるかもしれない。
 天地自然、森羅万象には、本来情などというものは無く、とはいえ殺伐としたという意味も無く、喜怒哀楽もしくは、
「もののあはれ」
 は人間が生みだした、文学的な感情であり、ある意味その感情に支えながらも、ひたすら運命に逆らうことなく流れてゆく。
 けれども、そういう言葉の先には何も見えてこない。
 そんなわけはないそんなことではいけない、と叫んだオプチミストたちは、あの世の安心と平和と魅力を説いたけれども、あの世へいってみた人がいないかぎり、それでも信じることができるだろうか。 
          *
 西洋の古いラテン語の句に、
「メメント・モリ/Memento mori」
 がある。
「死を忘れるな」
 という意味である。
「死を想え」
 と訳す人もいる。
 この意味は、文字どおりであるが、深い意味では、『旧約聖書』の、
「われらにおのが日を数えることを教えて智恵の心を得さしたまえ」
 とあるのに由来されるらしい。
 つまり、人間がその生命が短いということ、死が一瞬にしてやってくることの現実を知れば、まさしく神に仕える賢さを身につけるはずである。
 けれども、本質的に単細胞の人びとならともかくも、いささかひねくれた人には、そんなことは周りを見わたせば解ることであって、だからといって神に仕える理由にはならない。
 だいたいそれが賢いことなのか、賢いことは全然別のところになるのではないか、とおもうにちがいない。
 厳かではあっても、言葉の綾というか、百歩ゆずれば教えの妙というか、こういうもので人間が動いた時代はとっくに終わっている。
 なぜなら現代人は、死を忘れるなといわれるよりも、死を怖れるなといわれたほうが、何万倍も興味が湧くからであり、それだけ死の恐怖に日々曝されているといっても過言ではない。
          *
 たしかに古来から戦争はつづいてきたが、現代から望見すると、誤解を怖れずにいうなら、優雅で呑気でみみっちい戦争であった。
 核爆弾で一国が壊滅してしまう現代の戦争は、それらとはまったく別次元のものである。
 また放射能の恐怖が文明の名のもとに、人びとに日々襲いかかっている。
 大規模テロや大規模事故は、おおむかしと比較にならないスケールであり、それらもまた科学の進歩文明の進歩と無縁ではない。
 さらに温暖化が招き寄せる災害は、天災ではなく人災となっている。
 だからといって、科学者たちは死の恐怖の克服にどれだけ尽力したであろうか。
 そういう意味では、最も責任が重いのは宗教である。
 もともと、どんな宗教でも、死後とか来世とかいう観念と切りはなすことはできない。
 おおむかしの素朴な人びとが、宗教に救われ宗教に騙された例は無限にあった。
 ところが現代においては、天の邪鬼や臍曲りの人びとがおおくて救われることがなく、たまたま騙されるのは、ほとんど認知症に近い高齢者にかぎられる。
「いまこそ宗教を」
 なんてさけぶ、いかがわしい輩もすくなくはないけれども、もはや宗教の時代は終わったというべきである。
 死は非在であるが、非在は虚無とはちがうという認識があれば、いかがわしさに騙されることもなかろう。
 日本では、
「宗教は大切ではない」
 と考える者が五割以上いる。
 けれども何かというと、神社やお寺や教会にいく者は九割以上いるはずである。
 思考と行動の不一致の最たるものである。
 もともと神様と人間は、もちつもたれつ、共存共栄の関係であるのだから、神様がむかしより冷たくなったということがないかぎ‚閨A人間がむかしより冷たくなることは、それは恩知らず、情知らず、世間知らずといわれてもしかたあるまい。
 神様にそうおもわれたり、世間にそういわれるのが厭だから、宗教は大切ではないと心底ではおもっていても、口にだしたり行動にだしたりはしないのである。
          *
「偶然」
 という言葉があり、
「必然」
 という言葉がある。
 文学の世界では、偶然性は忌避されるけれども、世界や人間が必然性ばかりによって支配されているはずもない以上、文学の定説は文学の先人の強引な論法にすぎない。
 強引にやらないと収拾がつかなくなるという発想は、独裁的政治家の発想に似ていて、文学も世界や人間と同様に自由であるべきである。
 しかしこの、
「自由」
 という言葉も曲者であって、世界はまだとうぶん先としても、目先に死が決定づけられている人間にとって、自由なぞあらかじめ無いのではないか。
 いや死が決定づけられているのは、あくまでも個人であって、人間すなわち人類には死なぞ無いとする考えもある。
 要するに、個としての人間は長くは生きられなくとも、全としての人間は、次々と古い生命が滅んでも、次々と新しい生命が生まれる。
 よって人間は永遠であるとする考えである。
 別の言葉でいうなら、
「自我意識」
 を超えた、
「宇宙意識」
 である。
 古来、
「悟り」
 というものは、
「言語ではいいあらわしえないもの」
 とされていた。
 けれども、そういう説明では納得しない人びともいる。
 現代ではこの自我意識を超えた宇宙意識を、
「悟りの本質」
 として解釈している宗教研究家もおおい。
 けれどもわれわれは個人として生き、個人として学び、個人として働き、個人として考えている。
 そうして遠からず個人として死ぬ。
 そんな人類不滅信仰に、単純に染まるわけにはいかない。
          *
 わたくしはかつて、
「すべての人間は文学をしなければならない」
 と唱えたものだが、ある哲学者は、
「すべての人間は哲学をしなければならない」
 と唱える。
 もちろんこれは究極の理屈であって、わたくしの本意は、
「すべての人間は書くことをしなければならない」
 であって、ある哲学者の本意は、
「すべての人間は考えることをしなければならない」
 ということであろう。
 自ら書き自ら考える人間ならば、だれにも洗脳されることなく、自らの真善美を獲得できるにちがいない。
 それは確かにそうなのだが、すべての人間が書き、すべての人間が考えたならば、世界中文学者と哲学者だらけになってしまって、バランスも統一もとれなくなるという杞憂以前に、世界中すべての人間が自殺予備軍となってしまうであろう。
 よほど理性や品性や悟性が高い人でないかぎり、書けば書くほど考えれば考えるほど、死にたいくらい憂鬱な(途中経過も含めて)結果が導きだされるからで、死なんかおもったこともない、いつも愉快な人たちは、おおよそ書いたり考えたりしない人たちである。
 となると、
「すべての人間は文学や哲学をしてはならない」
 というのが正解になり、となると、独裁政治家や狂信的教祖や売名芸能人のおもう壺となる。
          *
「弱肉強食」
 が世界の原理であるということを認めるには、余りに世界は複雑すぎる。
 例えば蛆虫よりも人間が強いに決まっているが、人間も死んで放置されれば、蛆虫の餌食となる。
 つまりは、強いなんて事実だってタカが知れているのだ。
          *
「不易」
 があり、
「流行」
 がある。
 たとえば静かに飛ぶ雁の群れは不易であり、轟音と炎を発して打ちあがる宇宙ロケットは流行である。
 だが今日、流行に夢中になっても、だれが不易に眼をとめるであろうか。
 この現象を堕落というのか。
 そうでなければ、
「いまを生きる/Live today」
 なんてまともなこともいえなくなる。
 人生の四大重要要素は、
「Life, Love, Light, Laughter 」
 の四Lらしい。
 命、愛、光、笑。
 こういう奇麗事で、世の中は満ち満ちている。
 いまを生きるはいいとして、それでは死後はどうすればいいのか。
 だれもその答をくれない。
 むかしの死後が不易で、いまの死後が流行だから、暗中模索、右顧左眄、明言できないというのか。
          *
「知足者富」
 足ルヲ知ルハ富ム。
「自足」
 することがどうして富なのかというと、貧しさを我慢すれば富者となるということではない。
 あくまでも私見であるが、足るを知ったなら、次にやるべきことがあろう、それがあなたにとって富なのだということである。
 次にやるべきことは自足した以上、
「他足」(利他)
 ということになる。
 他足に力を尽くせよと、心の裡、胸の奥、頭の隅で声が聴こえるはずだ。
 だが、他人は自分よりもワガママで、富はもらった、生き甲斐もいただいた、幸せにもなった、あとは死後の世界の面倒もよろしく、というわけである。
 生の時間の数億倍も死の時間が長いのだから、生の時間を自足させることにおおきな悦びはない。
 だから生の時間が自足しなくても、死後の時間が自足すれば大満足である。
 ただしこういう発想も、権力者や勢力者や洗脳者に利用されてきた。
「いまがどんなに苦しくとも(あるいは苦しければ苦しいほど)死後にはきっと報われる」
 という教えを信じきって、現状のみじめで救いのない奴隷的生活に甘んじてしまうのである。
          *
 子供のとき、青年のとき、中年になってから、そして老年と、それぞれに死に関する思いは変わってくると、一般にいわれるが、すくなくともわたくしのばあいは、そんなことはなかった。
 いくら学んでも、いくら人生経験を積んでも、簡単に変わるものではない。
 ただ、老年になると生れてくるのが、諦念。
 また、自己を惜しむということが、だんだんすくなくなるので、それだけはわるくはないと感じる。
          *
 医学の発達でいくら長寿国になったといっても、現在日本では毎年約百万人が死んでいる。
 世界では毎年約一億人が死んでいる。
 この数字を考えたら、死について考えないほうがおかしい。
 首をかしげて、ムチウチになってしまうくらい、おかしい。
「この世」
 から、
「あの世」
 へゆく。
 もしかすると、おおくの人間はこの世とあの世の狭間を、無限大の距離とか断裂とか考えていないのかもしれない。
 じっさい生者の思い出のなかに死者がいれば、死者は身近であるし、死者の霊がお墓にいたり、千の風となって吹きわたっていれば、やはり身近であるし、霊媒なんぞを信じている人はなおさらである。
 そうして身近であることが、身近であるとおもいこむことが、死ぬことが怖くなくなる唯一の方法なのかもしれない。
 いや想像力の豊かな人は、宏大な宇宙すらも身近に感じられるかもしれない。
 そうなると、死者が宇宙の塵となったとしても身近に感じるのであろう。
 たとえば死者たちが風となり塵となったにしても、自分もいずれ風となり塵となり死者たちの仲間になるのだとおもいこんでいれば、死はわるいものではないと信じられるかもしれない。
 天国で両親に会えるなんてお説教よりも、よほど説得力のある解釈であり、未来の宗教(そういうものがあるとして)には、
『風塵教』
 なんてものがあってもいいであろう。
 もしなければ、わたくしが風塵教の教祖になってもいいが、その教理を確立するまで生きていられる保証は、残念ながらゼロに近い。
          *
「死はなんでもないもの、自分はただ、となりの部屋にそっと移っただけ。自分が見えなくなったからといってどうして自分が忘れられてしまうことがあるものか。自分はしばしあなたを待っている。どこかとても近いところで、たとえばあの角を曲がったところで」
 千の風にならなくとも、こうしたふうに死を身近に感じられる人たちがいる。
 自分は死んでも大切なあなたをまっている。あなたが死んで自分のところにやってくるのを。
 これは、そうおもいたいだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。
 そうおもいたいことに、だれが文句をいえよう。
 いったいだれが。 
          *
 むかしからいわれているけれども、ほんとうに人間は、
「自然の支配者にして所有者」
 なのであろうか。
 このあまりにも単純な着想は、数おおい自然災害やA数おおい人災的自然災害によって、押し流されてしまった感がある。
 しかしそれでも、その単純な着想を信じ切っている連中の何とおおいことか。
 山を崩す企業家、海を埋める政治家はむろんのこと、地球温暖化に、まったく関心を示さないわれわれも同類である。
 われわれの日々の暮らしは、文字どおり、
「生活世界(die Lebenswelt)」
 であって、死と共に在る暮らしといってよい。
 その死が、静かな時の流れのなかの静かな死ではなく、
「なしくずしの死」
 ですらなく、突発突出突然の死に翻弄されることがかさなってきた。
 そうして次第に、人間の万有性を信じる者たちの蒼ざめた顔が見られるようになり、そうして次第に、人間はけっこうなことに、万物の霊長たる自信すら喪失しようとしている。
 本来人間は、自然の支配者にして所有者でも万物の霊長でもなく、まったく、屁ほども無力な存在であることに気づきはじめた人びともいる。
 もしいま、いま太陽が光線を発しなくなったら、地球の引力が失われたら、われわれは為すすべもなく、逃れられない。
 われわれの一体性は、だれも逃れられないということにあることを知る。
 そのときはじめて、おそまきながら、自己の死、他者の死、人間の死、人類の死、地球の死、太陽圏の死におもいがいたるのである。
          *
「自然」
 がもしも、目的をもっているとしたなら、その目的とは何であろう。
 自然に癒され自然に同化できる人びとにとっての、パラダイスか。
 あるいは、人間の驕り高ぶりを諌める、脅威としての存在か。
 あるいは、自然を征服しようとする一部の人間の、ライバルであるのか。
 それとも、自然は文字どおり、自然にふるまうのみであるのか。
 自然は、これだけ破壊されつづけていると、いつのまにか、
「死然」
 となりつつあるのであるが、そうとは気づかない者たちや、自然には強靱な復活力がある、と考えている人たちがおおすぎる。
          *
 世界中作家というものは、信用信頼のできないもので、なぜなら、書くということが生活の手段になっているからである。
 それでも、ほんの数人は信用信頼できる作家があって、そのひとりは、
「人間が生きるのは不自然であり、人間が死ぬのは自然である」
 と書いている。
 人間には常に死がつきまとっている。
 ガン、エイズ、コロナ、原因不明の奇病。
 戦争、災害、事故、突発的な大コケ。
 そうでなくとも肉体は発育し、成熟し、老化し、腐敗する。
 自然の摂理とは、生ではなく死のことをいう。
          *
 生滅論というのは、たとえば川の水であって、これはむろん、
「ゆく川んぼ流れは絶えずしてもとの水にあらず」
 である。
 だが、もとの水のところに新しい水が入るから、川は依然として川である。
 どうして新しい水が生まれたかというと、もとの古い水が消滅したからで、まさに、
「生々流転」
 とはよくいったものである。
 人間も自然の一部とするならば、どうして新しい命が生まれたかというと、古い命が歿したからである。
 よって、人間そのものは川と同様に存在する。
 この考えは多少の慰めになるかもしれないが、個人個人の人間はやはりおのれにこだわる。
 しかし現実的にも、おのれは大河の一滴であって、人類は大河そのものである。
 個人主義というけれども、その程度のものである。
          *
 死んでもお墓になんかいない、千の風になって吹きわたっている、というのは、科学的にも真実に近いと考える。
 千の川になって流れている、と歌っても近いことだ。
 それならお墓は何にためにあるのか。
 むろん、遺された人たちのためにあるのである。
 墓の前で祈ることによって、じぶんの心の中の故人に祈る。
          *
 死んだら千の風になるという発想というか、認識というか。
 これがけっこうまともであるということは、人間が、いやそれ以前に生命が、混沌とした宇宙自然のなかから誕生したわけであって、個々の思惑は別として、その生命が宇宙自然に還るのは必然であって、大袈裟に悲しむことではないということはなるほどであるが、ひとは個々の生命個々の個性的な生命を惜しんで悲しむ、といわれれば、これもなるほどである。
 われわれはいつまで経っても、この混沌に具体的な名称を与えることができないので、あれこれと神様を創り出すのかもしれない。
 創り出すどころか、この混沌に神様という名称を与えているのかもしれない。
          *
「(神宮のなかの神宮)伊勢神宮」
 は、相変わらずのにぎわいである。
 感謝の礼拝が基本なのに、誓願の礼拝になっている。
「おれは神なんか信じないぞ」
 と威張っている者でも、いざとなると神頼みとなる。
 受験とか就職とか結婚とか出産とか、人生の岐路にすがるのは、まず両親よりも神様である。
 もしも両親にすがったら、両親が神様にすがるにちがいない。
 その神様には、毎日朝夕、年間七百回、お食事を捧げている。
 神様が食事をするのかは疑問だが、かりに食事をしたとしても、人間と同じ食事をするのかどうかも疑問である。
 仙人は霞を食って生きているというから、神様だってそういうものを食うはずである。
 おおよそ神仏に捧げる食物は、野良犬や野良猫、狸や狐、烏や鳶の餌になってしまうだろうから、そういうことのために、捧げているのである。
 館のなかの囲いのなかにあるものは、ただ食物の無駄になるばかりである。
 お棺のなかに、故人の好きだった、果物や菓子などをいれるのも同様に、ただ食物の無駄になるばかりである。
 焼却炉で遺体と共に焼かれてしまうのを知っていて、そういうことをするのは、遺された者たちの、
「イメージ」
 および、
「イデア」
 であろう。
 しっかりと網膜に残る具現的なその映像、本人の写真やビデオも含めた、具体的な形見。
 それは本質的に故人の癒しになるわけもないが、遺された者たちの癒しにはなるのである。
 だが、死んでしまった者は何を食べたらいいのか。
 口も胃腸も焼かれてしまったのに、果物や菓子が食べられるわけもない。
 灰になった人間は灰になった食物を食べればいいのだなんて、想像する遺族がいたとしたなら、死者に対する冒涜ではないのか。
 だいたい死者が、あれを食いたいこれを食いたいなんていうことがないかぎり、余計なことは一切やらずに、死者の静謐感を守ってあげることこそが肝要なのではないのか。
          *
「パワースポット」
 なるものが相変わらず流行っているが、あれは金儲けの手段に過ぎない。
 それでも大勢の人が押しかけると、自分ひとりだけご利益にあずからないのも口惜しいから、何とか都合をつけていきたくなる。
 もしかすると、いったいかないで寿命が十年ちがうかもしれない、なんて考えこんだりする人もいるくらいである。
 だいたい、
「ご利益(りやく)」
 とは文字どおり利益(りえき)であって、それはこちらの利益になるよりも、あちらの利益になることがおおい。
 もしこちらの利益を望むなら、それはどんな利益なのか、それをはっきりさせてからいったほうがいい。
 どうせ利益という以上、ろくな利益ではなかろうが、ろくな利益でなくとも利益がほしいのが、(むろんわたくしも含めて)浅ましい人間の本性である。
          *
 偉大な始祖のいうとおり、
「悲劇は悲哀や恐怖や孤独や寂寥の感情を浄化する」
 ならば、人間の悲劇的な死は浄化されるであろう。
 けれども喜劇的な死が浄化されないとしたなら、死は平等ではあるまい。
 喜劇がいずれ悲劇と同じレベルに達したとき、ようやく究極の真理というものが存在するということが信じられるであろう。
 じっさい喜劇的なるものは、悲劇的なるもの以上に、容赦なくあらゆるものの無意味さを暴露する。
 その無意味さが浄化されずして、人間に救いなぞありようがない。
          *
 つまらぬ考えやすむににたり。
「神があるとさえおもっておればいい」
 と詩の神様がうたう。
 そうなのだ。
 神が在るとか無いとか、そんなことを考える必要はない。
 わたくしも若いころよくいわれて、癇癪をおこしたものたが、つまらぬ考えやすむににたり。
 考えたって、考えきれない頭しかもっていないのだもの。
 それなら、神が在るとさえおもっていればいいのであって、そうしていつも神に感謝していればいいのであって、それがふつうの人間の処世術である。
 けれども、感謝くらいならいいのだが、そういう人間ばかりならいいのだが、なんでもかんでも神に要求したり、なんでもかんでも神のせいにしたり、さらには悪魔の声とおぼしき神の声を聞いたり、そういうふつうではない人間がいるから問題なのである。
 人間はふつうの人間ばかりではない。
 そのことを認識した上で、神の存在の有無や成否を考えなければならないのである。
          *
 神が在るということは、ある意味、想像力である。
(できるわけがないけれども)もしも神が在るということを証明できたならば、神はもはや無となる。
 だから、考えるのみならず、証明しようなんて気は起こさないがいい。
 しかし、できるわけがないと理解していても、人間の知識欲には限界がない。
 そして知識または知識欲は、人間の首を絞めるのである。
          *
 或る極悪な殺人者が、死刑になる前に熱心な教誨師の言葉を信じ、死んだら天国に行けると思い込み、一刻も早い死刑を望んだという話がある。
 この死刑囚は、幸福者といってもよいであろう。
 ただ疑問に思うのは、教誨師は死刑囚の天国行きには熱心でも、この男に殺された者たちの天国行きには無関心であるということである。
 殺された者たちはすでに天国に行っているのだから、あえて祈らなくてもいいということなのか、殺された者たちにはもう死の恐怖はないのだから、現在死の恐怖におののいている死刑囚のほうが大事というわけなのか。
 あるいはじぶんの使命(仕事)は、教誨師ということであるから、死者は使命の埒外にいるものだから、死者にはいまさら何もいえないということなのだろうか。
 いずれにしても、神父や牧師も含めて、あるいは他の宗教も含めて、聖職者というものの正体は、これも人それぞれだろうが、不可解なところがある。
          *
 たとえば蟻一匹一匹を蟻とするのではなく、蟻の総体を蟻とするのがわたくしたちの発想である。
 それならば、人間一人一人を人間とするのではなく、人間の総体を人間とするならば、世界は変わってくるはずである。
 むろん、善きにつけ悪しきにつけ。
          * 
「三段論法」
 でいうなら、
「すべての人間はかならず死ぬ」
「日本人はすべて人間である」
「したがってすべての日本人はかならず死ぬ」
 日本人のところに、アメリカ人とかフランス人を入れても、まったく同じである。
 例外はない。
 もうちょっとすすめてみれば、
「人間はすべて死ぬものである」
「死はすべて悲惨なものである」
「すべての人間は悲惨なものである」
 悲惨のところに、孤独とか恐怖とかいれても同じである。
 例外はない。
【死ぬる時節には死ぬるがよくそうろう】
 なんて公言できるのは、卓越したお坊さんと、ほんの一握りの偉人にかぎられる。
「覚悟」
 なんてものも言葉にすぎず、覚悟していたと公言しても、覚悟していたとはおもわれぬ態度を露呈するものである。
          *
 生まれたことが謎であり、生きていることが謎であるのに、どうして死の謎を追い求めるのか。
「生も解らないのに死がどうして解るのか」
 と、居直り調で断じた高僧がいたが、その屁理屈が癪にはなっても、もっともなことだから憎らしい、とみとめるほかはない。
 自分で撰びようのない命を生きている。
 つまり、人間も地球も宇宙もすべて、自己の都合とは無関係に在る。
 自己の都合で物事を考えても、それが真理であるはずもない。
 そのことを意識するのは息苦しいであろうが、
「その息苦しさから逃れられない」
 と認識することで開けてくるものがあるはずである。
          *
 人間は、ある種の人間は、
「永遠の命」
 を欲する。
 むかしの英雄たちは、そのために不老長寿の薬を開発させたり、吸血鬼さながらの鬼になったりもした。
 けれども、絶え間なく生滅を繰り返す宇宙が永遠ではないのに、あるいは宇宙が刻々と変化しているのに、どうして人間だけが永遠であり不変でありつづけられようか。
 もしかすると、永遠不変であることの恐怖を知らないから、それを欲してしまうのであって、もしもそのことを認識できていたなら、
「欲する人間」
 から、
「与える人間」
 になれたかも知れない。
 仏教では、いやすでに一般でも、人生の苦を、
「生老病死」
 という言葉で表わす。
 老、病、死が苦なのは解るが、どうして生が苦なのか。
「煩悩」
 ということもあるが、
「四苦八苦」
 つまり生は必ず老、病、死につながるからである。
「五欲」
 はとうぜんのこととして、永遠不変の命を欲する人間は、宗教で悟りをえたい、哲学で真理をえたいと欲するが、いくらえてもえてもえつくしても、結果論的にはえる前と何も変わってはいない。
 なぜなら、欲する人間のえられるものとは、自己を納得させ満足させる理屈に過ぎないからである。
「仏教の哲理」
 だって、
「禅問答」
 だって、なかなか滋味はあるけれども、つまりは理屈である。
 しかしながら、その理屈をあくまでも出発点として、理屈ではない世界観へと飛躍、到達する人もいる。
 だがそういう人は撰ばれた者であり、英雄という名の愚か者や、同等に愚かな世間一般人には、無理な相談である。
 ここが肝腎で、撰ばれた者だけが救われる宗教や哲学ならば、ちっともありがたくはない。
「宗教は阿片だ」
 といった、世界的な哲学者がいるが、哲学だって阿片である。
 阿片を吸った者どもだけが救われる、なんてことがあっていいわけはない。
          *
「神仏」
 というが、その実、神と仏では、ちがう。
 もちろん似ているところも多いが、本質的にちがう。
 神は人間に厳格だが、仏は人間に寛容である。
 人間にとって厳格がいいか寛容がいいか、それは解らない。
 厳格は、しつけ、おしおき、などに繋がるし、寛容は、ほったらかし、みてみぬふり、などに繋がるからである。
 もしかすると一番似ているところは、神も仏も、
「不完全」
 であるところではないか。
          *
 魂、とは何か。
 精神とか、心と同じとする者もあるが、精神とか心は死んだらなくなり、魂は死んでもなくならない。
 それはどこに在るか。
 精神に在るのではなく、肉体に在る。
 肉体は煩悩の源だとして毛嫌いし、肉体を抹殺する、つまり自殺することを推奨する宗教もあるが、肉体に命令するのが精神ならば、煩悩は精神に宿る。
「いのち」が肉体に在るのなら、いのちの尊厳は肉体の尊厳でなければならぬ。
          *
 古今東西、世界各国の神話や伝説を望見するに、ずいぶんと血腥い儀式が横行していたことに愕然とすることがある。
 たとえば神への供え物としての(動物はもとより)人間の生贄。
 死んだ王の墓に生き埋めにした召し使いたち。
 日本では死んだ殿様にたいする殉死。
 これも生贄の血の臭いがすることに変わりはない。
 しかもそれが厳粛な祭儀として行使されることの残酷さ。
 生贄は両手両足を一本ずつ切られたり、自ら腹を切って首を刎ねられたり。
 なかには(とはいえ大部分ではあるが)生贄になることの尊さや誇りを奨励してもいる。
 しかもこうしたことが古代ならいざしらず、現代でもむろん陰ではどこかで行なわれつづけてきた。
 こうした人間たちの死を、神は喜んで迎えるというのか。
 こうした人間たちの血を、神は喜んで啜るというのか。
「自爆テロ」
 という厄介な行為も、この神話的生贄につながっているところがあって、その死は神に賞讃され、その人間の魂は神に召され、神の懐へと誘われる。
 こうした莫迦莫迦しい思想は、むろん人間の考えた思想であって、神が考えた思想ではない。
 だがそう洗脳されなければ、この莫迦莫迦しい行為は英雄的行為とはならず、犬死によりも哀れなものとなるであろう。
 つまり、あの世の存在、いや、あの世が在るという思想は、諸刃の剣であって、ときとして人を救い、ときとして人を殺す。
 そのことをイスラム圏の教祖や信者のみならず、世界の教祖や信者がおもいを馳せねばならない。
 ところが宗教というものは、自分たちだけに都合がよくできているものであって、あっちの蜜は毒だが、こっちの蜜は薬だぞと唱えるのが宗教の本質でもある。
 十字軍の例をもちだすまでもなく、
「人間の歴史は宗教戦争の歴史だ」
 と述べる学者もいるくらい、醜悪で残酷なのが宗教の本質であって、
「隣人を愛せ」
 云々と唱えるキリスト教もけっして例外ではない。
 キリスト教徒は世界の人口の三分の一を占める。
(わたくしはいい過ぎているかもしれないが)これではいつまで経っても戦争がなくならないわけである。
 クリスチャンをあえて、
「戦争の大共犯者」
 とよぶなら、スピリチュアリストやオカルティストは、
「戦争の小共犯者」
 である。
          *
 いつまでも宗教に依存するから、人間社会には戦争が絶えないんだ、というひとがいる。
 私も同じ考えだし、それは真実なのだろうが、大なり小なり宗教に依存しないですむ人間が、世界にどれだけいるだろうか。
 計算したことはないが、おそらく一%くらいなものであろう。
 それならば、宗教が徹底的に反戦を唱える必要がある。
 どんな理由があれ、戦争に加担したものは、救われないとやればよい。
 宗教にそれができないのは、他の宗教に対する競争心や敵愾心があるからである。
          *
「僕は恥を忘れて告白しなければならぬが、無気味な死の恐怖のために夜半ベッドの上に起き上がったことも一度や二度ではなかったのだ」
 これは、現在も世界に名が轟いている、(正直すぎるのが唯一の欠点である)大詩人の述懐である。
 また、いずれいつかは死ぬのは解ってはいても、
【きのうけふとはおもはざりしを】
 という平安時代の歌人の嘆きは、死病に罹った者の共通の絶望であろう。
 そのときはじめて人は、生まれたときから、いや生まれる前から、どこにも逃れられない存在であったことの実感をうるであろう。
 だが、どうじに、人間という哀れな存在へのしみじみとした情感も生むであろう。
「人類の一体性」
 とは、だれもどこにも逃れられぬことを意味するのである。
 まさに、
【散る桜残る桜も散る桜】
 である。
 死があるゆえの、
「人類みな兄弟」
 であり、そのときはじめてこの言葉が、浮遊し生きるのである。
          *
「私は生き直すことができないが、私たちは生き直すことができる」
 という言葉を、古老などから聞くことがあるが、これは、「個」は生き直せなくとも、人間という「集」は生き直すことができるということで、「個」は露のイノチでも、「集」は永遠のイノチということを、むかしの人だって知っていたのである。
          *
 生きたまま(むろん死んだと思われ)埋められた、人間の恐怖を描いた小説があった。
 その恐怖は、完全な「闇」からくる恐怖である。
 つまり、「死」=「闇」の確固たる観念がある。
 けれども、本当に「死」=「闇」なのであろうか。
 それは生ある人間の発想に過ぎなくて、死んだ人間にとっては、闇なんぞあるわけがない。
          *
 人間にとって、死の恐怖は強すぎるにちがいないが、それでもそれこそがほんとうは、人間の、
「究極の力」
 なのではないか。
 なぜなら、強烈な死の恐怖、すなわち究極の力が、戦争、テロ、殺人に対する怒りを生むからなのである。
 それは自分の死にかぎらない。
【君死にたまふことなかれ】
 とは、すべからく弱者の願いであって、その願いは究極の力でもある。
 この「君」は、拡大解釈すると、弟のみならず、家族であり、ひいてはすべての人びとである。
 くだらぬ戦争や、押しつけられた義務や、洗脳された蛮勇なんかで、死んではいけないということである。
 戦争、テロ、殺人に対する、とうぜんの怒りである。
          *
 生命には三六億年の歴史の重みがあり、個人をとりまくおおくの人びとに共有されるものであるという側面がある。
 死は生命の歴史とともに民族の歴史、家系の歴史、家族の歴史、個人の歴史すべてを包含するものである。 
 いっぽう、普通の人びとの意識する死は、生物学的な死とはかなり異質なものであり、あくまでも普通の人びとの意識のなかの死であり、心理的な死である。
 死は個人の問題であり、親しいものに悲しみをあたえる。
 それは三六億年の歴史とは無関係な感情である。
 それはそうなのだが、人間が死を個人的にとらえてばかりいると、死を私物化して、死を意のままに支配する輩も横行し、その結果、
「坊主丸儲け」
 を代表とする、商業主義の毒牙に噛まれるのみである。
          *
「生々流転」
 は、むろん、誕生のことだけをいっているわけではない。
 人は生まれ、人は死ぬ。
 死ぬから、その代わりに生まれる。
 生まれるから、その代わりに死ぬ。
 そんな感覚が湧くこともあろう。
 逆に、生まれなければ、死ぬこともないし、死ななければ、生まれることもないとおもわれもする。
 大人たちは、あるいは老人たちは、新しい生命の誕生を祝うが、それはどうじに、己の死を意味しているということに気づかない。
 そのとおり、新しい生命の誕生を祝うことは、すなわち、古い生命の消滅を祝うことなのである。
 自然もまったく同じであり、
【月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして】
 との歌心は解るけれども、我が身だって月や春と同じで、もとのままではないのである。
          *
 大昔の偉人の言葉といわれる、
【未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん】
 ということは、大昔から現代まで続いている。
 けれども、知らんと居直るよりも、その前にやらねばならぬことがある。
 それはいうまでもなく、
「死を知ろうとする」
 姿勢であり努力であり研究である。
          *
(あの世にはどうか知らないが)この世には、(他にもいくつか呼び方があるけれども)
「霊能者」
 と呼ばれる人たちがいる。
(信じるか信じないかは別問題として)霊能者は、アカの他人の過去をいい当てたり未来を予知したりする。
 就中、他人の亡き家族を呼び出したりもする。
 胡散臭い霊能者が大半であるが、なかには奇蹟的に感じてしまうくらいの霊能者もいる。
 それはともかく、胡散臭い霊能者のいうことでも、すっかり信じてしまう人たちが少なからずいるという事実は、畢竟、霊なるものを信じている人たちが少なからずいるということに等しい。
 だからといって、そのまま実際に霊なるものが在るという事実には繋がらないのが、何となくもどかしい感じもする。
 *
「偉人は怪・力・乱・神を語らず」
 と、むかしからいわれるが、古今東西、やはり興味深い話は、怪・力・乱・神である。
 まったくどれだけの神が、世界にはいるのであろうか。
 まさに乱れるほどであり、またその神の怪しいほどの力を信ずる者も、どれだけいるのであるか。
 まったく数え切れないほどであり、この実態をどう解明したらよいのか、なかなか明快な答をくれる博士もいない。
          *
 人が生まれ、人が死ぬ。
 そのことについて、どれだけ多くの哲学者や科学者や芸術家などが、どれだけ多くを云々してきたであろう。
 そういうややこしい話はさておいて、わたくしはそのことについては極く身近なイメージとして、
「ドミノ倒し」
 を想うことがある。
 時間をかけてひとつひとつ並べてきたパイも、行く所まで行くと、一気に倒れ(倒し)、もちろんパイの数もあるけれども、それを並べてきた時間と、それが倒れる時間の何と大きく差があることか。
 まちがえて早く倒してしまうこともあるが、自分でも驚くほどパイを沢山並べられることもある。
 ただひとつ違うのは、ドミノが早く倒れても、また一からやりなおせることであって、人間は一度死んでしまったらやりなおせない。
          *
 自他に関わらず人を殺してはいけないのは、あれこれ理屈はさておいても、殺された人はやりなおせないからである。
 しかもドミノと同じで、殺された人の生はひとつひとつ繋がってきたものであるのに、その死はその時間の何万分の一であるからである。
 それは人に限らない。
 生きとし生けるものすべて、殺してはいけない。
          *
 むかしの外国の小説を読んでいたら、
「スモッグも自然、死ぬのも自然、それならスモッグを吸って死んでもいい」
 なんてことが書いてあったが、工場が乱立していた当時、スモッグは自然ではなく人災だなんてことが、解らなかったのかもしれない。
 現代のスモッグはより自然ではない。
 自然災害と人災をまちがえてはいけない。
          *
「世捨て人」
 とは、一般には、
「世を捨てた人」
 であるが、見方を変えれば、
「世が捨てた人」
 である。
 世が捨てた人、世捨て人は、自殺するにはまだ、世に、というか生に未練がある人であって、こういう人は今後ますます増えるであろう。
 なじみのある語彙でいうなら、(出家はさておいて)重い自閉症や重い発達障害なども、世捨て人であるからである。
 こういう人びとは、自殺者予備軍である以上に、困ったことに殺人者予備軍である。
 たとえば、凄惨な、
「無差別殺人事件」
 が、ときとして、やや忘れたころにかならず起きる。
 殺人者予備軍が動きだすのである。
 こういう人びとに対して、「世を捨てた人」と見ないで、「世が捨てた人」と見ることによってしか、ほんとうの理解もたしかな対策もなされないであろう。
 それが、こういう人は今後ますます増えるという、わたくしの予測の根拠である。
 それは、社会的課題というよりは、哲学的課題である。
          *
 おおむかしの世捨て人は、素晴らしい歌をつくった。
 その影響もあるのだろう、現代のホンモノの私小説作家や、哲学エッセイを書くニセモノの学者は、世捨て人、いや世捨て歌人と同様に、
「孤独」
 をすこぶる好んでいる。
「この宏大な宇宙に孤独に生まれて、この宏大な宇宙で孤独に死ぬ」
 ことを公言してはばからない。
 そんなことは当たり前の話で、わざわざいうことでもない。
 それでもあえていいたいのは、被害妄想の気があるからなのだとおもわれる。
 そういう人たちに、わたくしがいいたいのは、人間みな孤独であり、孤独はおまえだけではない。
 おまえはただ孤独を、気取り装っているにすぎない。
 孤独を自虐的に、且つ自慢げに語るよりも、孤独の(いっときの)解消の工夫でも考えたほうが、世のため人のためではないか。
 現代の難問のひとつである、
「ひきこもり」
 は、そういう人たちよりも、孤独の解消の工夫をしているとおもわれる。
 自分の自分なりの世界をもつひきこもりは、けっして孤独ではない。
 人間すべてが孤独なのであるから、もともと、孤独なんて観念が現実に在るのは、おかしいのである。
          *
 自殺者予備軍によるこういう無差別殺人を、最近では、
「拡大自殺」
 とよぶ。
 かれらの口癖は、
「誰でもよかった」
 である。
 だれそれが憎いのではなく、おそらく社会とか世間とかに対する憎悪によって、ひとりでも多く(不特定多数)道連れをつくって、自殺するか死刑になる。
 むろんかれらの境遇は、傍から見ても哀れを催すものが多いが、社会とか世間とかのなかにはいって活動せず、きわめて遠くから社会とか世間とかを眺めていて、それで社会とか世間とかの本質が解るはずもない。
 要するにかれらは、社会とか世間とかの、
「幻影」
 に迷わされ翻弄され魘されているのである。
 だから、
「ひとりで勝手に死ねばいいじゃないか」
 という、とうぜんの文句は、じつは見当はずれなのである。
@かれらにとって必要なのは、社会とか世間とかのおもいやりなんぞではない。
 生きとし生けるものすべての、救いの無さを、徹底的に教えてあげることである。 
          *
 あまりにも理不尽な死に対して、家族は何をおもい何をいえばよいのか。
 しかも犯人に自殺されるとか、精神障害者としてもしくは証拠不十分として不起訴になるとか、それとも迷宮入りになるとかの結果に、ただ呆然とするほかはない。
 その嘆きをいったいだれが救うのか。
 神か、時か、師か、友か。
 いずれにしても、政治や法律が、おおきな力にはなるとはおもわれない。
 いや、もともと政治や法律に頼ろうとするのが、まちがいなのであって、やはりこのばあい頼りになるのは、自分の思想しかない。
 どんな事態が自分や家族におしよせても、生涯の嘆きから救ってくれるものは、自分の思想しかないのである。
 私的哲学しか。
          *
 理不尽な死といえば、外国で大事件や大事故があると、日本のジャーナリズムは、きまって、
「日本人の犠牲者はいないということです」
 と発言するけれども、ジャーナリズムとナショナリズムの背中合わせの一体化は、善い悪いの次元を超えて、みっともない。
          *
「自殺」
 の問題は、何千年、何万年経っても、解決されていない。
 それはなにゆえか。
 ひとつに、自殺未遂者から話を聞けても、自殺完遂者から話が聞けないことと、無関係ではあるまい。
「善悪」
 の観点から、自殺を論じるのは、むろんまちがいである。
「自由」
 の観点から、自殺を論じるのも、むろんまちがいである。
 なぜなら、自殺した人間は、
「善悪の彼岸」
 に行ってしまうのであり、自殺したって、自由は獲得できないからである。
 自由を獲得できないなら、どうして自殺の選択を、個人の自由なぞと云えるのか。
          *
 哲学的、というよりも文学的な言葉に、
「末期の眼」
 がある。
 死を感じると、周りが美しく見えるらしい。
 らしいではなく、わたくしも自殺予備軍の時代に、こういう体験がある。
 しかし、詳しい人にいわせると、結核菌の作用とのこと。
 結核菌にほんとうにそんな作用があるなら、自殺予備軍みんなに結核菌を注入すれば、死ぬ気にならなくなるかもしれない。
          *
 人生のなかでは、何かを失って嘆くことがすくなくはない。
 家族の死ということは、このばあいは脇においておくとしても、つまり死ということは、度外視しておくとしても、たとえば、恋人を失う、友人を失う、仕事を失う、夢を失う、生き甲斐を失う。
 けれども、生々流転の真理からいうと、じつは恋人を失うことは、新しい恋人をえることであり、友人を失うことは、新しい友人をえることであり、仕事を失うことは、新しい仕事をえることであり、夢を失うことは、新しい夢をえることであり、生き甲斐を失うことは、新しい生き甲斐をえることである。
「嘆きの渦中にいるのだから、それほど短絡的に楽観的になれるわけないじゃないか」
 といいたいのはもっともだが、そういう意味ではなく、結果としてだいたいは、そういうことになるということなのである。
 恋人や仕事を失って、自殺でもしないかぎりは。
          *
 大好きな坊さんの大好きな歌に、
【あわ雪の中に立ちたる三千大世界(みちあふち)又其の中にあわ雪ぞ降る】
 がある。
 わたくしの勝手な解釈では、われわれは宇宙のなかにいる、そしてわれわれの宇宙は、またほかの宇宙のなかにある。
 その宇宙はまたほかの宇宙にと、無限の宇宙を想わせるくらいの巨きさを感じる、奇跡的な歌である。
          *
 大昔、偉大な宗教家は、
【生き生き生き生き生の始めに暗く
 死に死に死に死に死の終りに冥し】
 と詠った。
 つまり、悟った人間でも、生も死も暗い、と云っている。
 この天才にして、こうなのだから、凡人はなにをかいわんや。
 だが、天才ともなると、この坊さんにかぎらず、人間の暗い生死を、多少なりとも明るい生死にするための方法を、あれこれ考えているのだ。
          *
「命長ければ恥多し」
 とは、偉人も凡人もよくいうことではあるが、
「命長ければ楽多し」
 という人もいる。
 この「楽」はラクではなく楽しみということである。
 だからこそ、多くの人は、いくら恥が多かろうが、長寿を願うのである。
          *
 最近いろんな本で、
「アポトーシス」
 という言葉をよく見かける。
 これをひとことで云うなら、
「生きるための死」
 ということであるらしい。らしいと云うのは、わたくしは専門家ではなく、詳細を知らないからである。
 人間の体をつくっている六十兆個の細胞のうち、毎日八千個の細胞が死に、その数だけ新しい細胞が生まれている。
 アポトーシスは、木の葉や花びらが散る様子をあらわす、ギリシャ語に由来しているらしい。
 病理学者の命名はなかなかに気がきいている。
 こどものころ田舎で育ったわたくしは、木の葉や花びらが枯れて地面に落ちて積もり、それが、新しい木の葉や花びらを芽生えさせる栄養になっていることを、実感としてかんじたものである。
 コンクリート社会のこどもたちは、このまま(人間もふくめた)自然の本質を実感できないまま育ってしまうのか。
 それとも、たった数日の林間学校で、直感的になにか掴めるこどももいるのであろうか。
          *
 人間の個体の細胞は常に死に、常に生まれている。
 常に死に常に生まれる、という事実が、そのまま人間の個体にもあてはまらないか。
 つまり、人間の(総体はもちろん)個体も、常に死に、常に生まれる。
 その「常」は、細胞の次元の数億倍かもしれないが。
          *
「宇宙の中のエネルギーの総量は一定である」
 と科学者が云っている。
 ということは、人が死ねば人が生まれる、人が生まれれば人が死ぬ、という「生々流転」の思想に適っているわけである。
 人が死ぬとその瞬間に体重が数グラム減るというのは、その減った分が多少なりとも宇宙のエネルギーに還元されるということである。
 この実態がありがたいことであるのは、人は死んでも幾らかは宇宙の役に立つということを教えてくれるからである。
 あるいは、
「人は宇宙から生まれて、死んで宇宙に還元される」
 という綺麗事らしき言葉も信じられるからである。
          *
 どうやら、死の恐怖から逃れるための近道はなさそうである。
 そしてそのためには、宗教を学ぶよりも宇宙を学ぶほうが確率が高そうである。
 だが、学ぶということを好む人ばかりではない。
 逆に、学ぶことが面倒くさいという人の方が多そうである。
 だから、手っ取り早く、もしくは安易に宗教にいく。
 学ぶためではなく、信じるために。
          *
「人は長く生きれば良いというものではないことは明白であり、多少、未練を残し、人に惜しまれて死ぬくらいが丁度良いのだろう」
 なんて云う人が、けっこういる。
 それはちがうでしょ。
 人に惜しまれなくったっていいし、人に迷惑がられてもいいが、人は長寿を目指さなければいけない。
 あれこれ理屈を並べられたって、人は長く生きれば良いのである。
 長く生きれば解らないことが解るわけではないが、長く生きて初めて解ることだって、たまにはあるのである。
 だいたい、生死に、
「丁度良い」
 なんてものがあるわけがない。
          *
 自殺者は別として(もしかすると別じゃないかもしれないが)、どうして死ぬのが厭なのか。
 ひと口でいうなら五欲を充たすことができなくなるからである。
 きれいな女を抱きたいし、うまいものを食いたいし、美しい世界にふれたい。
 そんな欲望を消すためには、隠遁するか鈍感になるか認知症になるか。
 けれども、そんなきれいな女がいるかい、そんなうまいものがあるかい、そんな美しい世界があるかいと問われずとも、自問自答すれば、最初はあるあると答えても、しだいにあるかなとなり、そのうちないない、すくなくともたいしたことはないかという結論になるから、あれこれ解ってくると、死ぬのが厭だということもなくなるものだ。
 だから、解ってくるまで長生きしたほうがいい。
          *
 マンションやアパート生活がおおくなった現代人には、無縁になりつつあるのであろうが、むかしわれわれの家には、きまって神棚や仏壇があったものである。
(ない家の人たちは、おそらくキリシタンになったからであろう)
 神仏混淆というのか神仏共存というのか、神棚も仏壇も両方あった家もあったりした。
「二礼二拍手二礼」
 とか、
「南無妙法蓮華経」
 とか、きまったルールに則って、日々の参拝を欠かさなかったけれども、かくべつ目立ったご利益があったわけでは無い。
 どこの国のどんな宗教でも同じだが、ご利益が無いときまって、あちら側は、
「それは祈念がすくないからだ、それは信心が足りないからだ」
 という。
 こちら側は、
「一生懸命にやっているつもりなのだが」
 と首をかしげつつも、あちら側のお説教に納得してしまう。
 それでも、つと、
「ほかの家の何倍も真面目に、手を合わせているはずだ」
 なんて口走ってしまうと、
「己が総てで、関係ない他人を気にするのは、まず一途さが足りないからだ」
 と、更にお説教されてしまう。
 こういえばああいうで、そういうマニュアルをもった、あちら側の理屈にかなうはずもない。
 それならと自分独自のルールで対応したりする人は、いわゆる、
「天邪鬼」
 として、村八分にされる。
 それでもルールを守ろうとする姿勢が無いと、意地っ張りめと唾棄され、さらには、
「邪心、邪教、異端、異教」
 として、磔になったり火刑になったりする。
 要するにあちら側は、
「保守」
 であり、保守のルールに従わないこちら側の一部は、
「革命」
 である。
 磔になった聖人といえば、だれよりもかれであり、火刑になった聖女といえば、だれよりもかのじょだが、このふたりに共通するのは、本質的には保守のルールに従わない革命家であったいうことである。
          *
 教祖の大切な仕事のひとつは、異教だ魔術だと誹られても、
「奇跡」
 を起こすことである。
 あるいは、奇跡を起こしたと、人びとに信じさせることである。
 マジック(現代ならばイリュージョン)だなと半分おもわれたって、半分信じてくれれば、人びとは半分信じるほうを選ぶのである。
 なぜなら、奇跡を信じたいからであり、奇跡を起こしてほしいからである。
「空中浮遊」
 なぞという阿呆らしいことだって信じたいし、現代でもそうなのだから、おおむかしはもっとそうなのである。
 個人的には、宗教家の奇跡は信じられなくとも、あの三重苦の、
「奇跡の人」
 の奇跡は信じられる。
 われわれ凡人にとって奇跡とは、人間の可能性の究極の姿でもある。
 もちろん、生死に関わる奇跡も現代にすらあって、
「復活」
 を目の当たりにすることが、一生に一度や二度はあるものである。
 落語じゃないが、わたくしも棺桶から蘇った人を知っている。
 かれの話を聞いて、眠りと仮死(あるいは心肺停止)とはちがうものだと解った。
          *
 死ぬことを人はよく、
「永遠の眠り」
 というけれども、厳密には眠りとは似て非なるものである。
 眠りは眠った実感があり、(ああよく寝た八時間は寝たようだ)とおもうが、仮死から生還したときは、仮死状態の時間は、ゼロに近いのである。
 わたくしは前に臨死体験を云々したが、あれは仮死ではなく、生死の境を彷徨っている状態(あるいは危篤状態)をいうのだと解った。
 となると、もしも生まれ変わりというものがあったとしたなら、それが一億光年後に生まれ変わったとしても、その厖大な時間は、ゼロ+ゼロ=ゼロ、ゼロ×ゼロ=ゼロということになる。
          *
「人間の死は永遠に向かう新しい誕生日」
 という人がいる。
 とても素敵な言葉ではあるが、そう思える人は稀少であろう。
 素敵な言葉、美しい言葉は、なかなか信じられるものではない。
          *
 死は、
「個の消滅」
 であって、
「人間の本質」
 はほかの個のなかに生きつづけるのだから、人類総体が消滅しないかぎり、善きにつけ悪しきにつけ、人間の本質は死なないのである。
 人それぞれであるから、個の生命がすべてと考える人Aそうではなく人間総体の生命を大切に考える人、すくなくとも家族親族の生命を重要に考える人、それによって生死の考え方がおおきくちがうのである。
 人間の本質などわたくしなんぞには解らないが、
「個の本質である欲望」
 つまり、
 性欲、
 食欲、
 睡眠欲、
 金銭欲、
 名誉欲、
 活動欲、
 向上欲、
 自己顕示欲、
 勝利欲、
 知識欲、
 勉学欲、
 老婆心欲、
 犠牲欲、
 自己愛欲、
 他愛欲、
 子弟守護欲、
 同胞堅持欲、
 父母敬愛欲、
 先祖畏敬欲、
 強敵抹殺欲、
 弱者憐憫欲、
 英雄願望欲、
 などなどは、けっして長くはない人生のなかだけのものである。  
          *
 欲望というものは、死んだらなくなる。
 だから、生前も欲望を持つな、というのは、無理な話で、精神も肉体も欲望で満杯になっているのである。
 自殺や他殺も、欲望の結果といっても過言ではない。
          *
 どこかのだれかが、
「殺されることは有難いことだ」
 と云っていた。
 殺した人が、殺された人のカルマ(業)も背負ってくれるからだと。
 なかなか含蓄のある言葉とおもわれるが、そう云う人は、殺されてみるといい。
          *
「生老病死」
 を苦とするのは、仏教の哲理ということだが、老病死が苦なのは解るとしても、どうして生も苦なのか。
 それは、
「四苦八苦」
 の生が、すべて老病死につながるからである。
          *
 グチとゴタクとクダと、ウラミツラミの連発で文学にしてしまった偉人がいるが、なんでも徹底的にやれば、文学にも哲学にもなる。
 要は中途半端な哀訴がいけないので、そういう輩でこの世はあふれかえっている。
 わたくしたちの若いころは、陰で泣く女や、奥歯を噛み締めて耐える男がもてはやされたものだが、そんなことでは人間の業や性は晴らされない。
          *
「愛別離苦」
 という言葉には、ちゃんと苦がはいっている。
 愛は別れのはじまりだから、苦というわけであろう。
 あの世でも一緒、なんてのは言葉の綾で、愛する人とだって死という別れがくる。
 永遠の愛なんてないので、いくらそんな約束をしても、約束を違える前に、死によって別れられると考えれば、気が楽になるというものである。
 けれども、愛しい人と生き別れになるのだって、辛くて淋しいのに、一生の別れとなると、そう単純にわりきれないものがある。
 わたくしは母と生き別れになる夢を見て、目が覚めると涙が枕を濡らしているなんてことがあったものだが、じっさい現実でそうなった人を想うとやりきれない。
 そういう夢を見るわたくしは、夢のなかでは二十代で、現実は三十代で死に別れたのであるが、母というものは幾つになっても母であり、どんな状態になっても、母には長寿であってほしい、一日でも長く生きてほしいとおもうのが、子としての素直な気持である。
「人は長く生きれば良いというものではない、人に惜しまれて死ぬくらいが丁度良い」
 などとおもったり云ったりする、自分勝手な人が少なからずいるが、生死に丁度良いなんてものはない。
          *
 人も歳を重ねるごとに、重ねれば重ねるほどに、家族、親族、友人、知人の死に遭遇することになる。
 くわえて、大好きだった芸術家や大ファンだった芸能人の訃報も、たびたび目にするようになる。
 こういうときの感情はいかがなものか。
(先立たれてしまった)
 なのか、
(自分も近いな)
 なのか。
 そういう感情のなかに、
(ひとつの時代が終わった)感がありはしないか。
 それでは、
「ひとつの時代」
 とは何か。
 それは、
「同じ時間と同じ空間を生きる同胞たちの時代」
 であろう。
 それならどうして、いま世界で争っている人びとに、そういう同胞意識が生まれないのか。
 いや、生まれているのである。
          *
「人間みな大河の一滴だ」
 という強い同胞意識があるなら、戦争も喧嘩も起こりそうにないのだが、それがうまくいかない。
 それはもともと人間というものは、半端で不完全なものだからという考えもあるし、同じ大河の一滴でも、他の一滴を押しのけてでも、気持よく流れたい、なんて輩が必ず出てくるという、弱肉強食の本能が本質なのだとの考えもある。
 そうなると、
「人間みな大河の一滴だ」
 なんてコトバも、
「人類みな兄弟」
 なんてコトバも、キレイごとに過ぎなくなってしまう。
 けれども、キレイごとをいいつづけないと、キタナイごとばかりになってしまう。
          *
 わたくしの家族や親族、または友人や知人を見ていて、死の恐怖から逃れる一番の方法は、宗教や哲学にすがることではなく、誤解を怖れずにいうなら、舌禍を怖れずにいうなら、何よりも、
「認知症」
 になることだとおもわれる。
 死ぬまで耄碌はしたくないという気持よりも、子供や配偶者に迷惑をかけるからという理由で、認知症になるのを厭がる年寄りが多いけれども、いままでずいぶんと迷惑をかけられているのだから、おあいこで構わないのである。
 尤も、若年性アルトハイマーとなると、これはまた別の話になるのだけれども。
          *
 ふだん、
「神も仏もあるもんか」
 が口癖の頑固者でも、おみくじや占いを気にしたりするのは妙なものである。
 おみくじで大凶がでたり、占いで悪運になっていたり、あるいは祈祷で悪運、易者に死相がでているなんていわれたりしたら、祓いたくなるのは人情か。
 医者に、
「このままでは死にますよ」
 といわれるのと同じくらい気になるのは、どうしてなのか。
 おそらく人は、科学や医学では解決できない、因縁みたいなものを心(あるいは頭)の底とか隅で信じているせいかもしれないし、信じていなくても(そういうものがありそうだ)くらいにはおもっているのであろう。
 そうでなければ神も仏も信じていない日本人の多くが、自らすすんでおみくじを引いたり、雑誌や新聞の占いの欄をわざわざのぞいたりするわけがない。
 もしかすると、神仏を信じる人と、神仏を信じない人の間には、黒くておおきな川なんか流れていないのかもしれない。
 簡単に跳び越せるくらいの小川が流れているだけなのかもしれない。
 そうして、
「死ぬのなんか平気だ」
 という人と、
「死ぬのはやはり怖い」
 という人の間にも、小川しか流れていないと想わせるのである。
          *
「明暗」
 という言葉がある。
 死を怖れる人の多くは、天国を信じられず、地獄だけは信じている。
 この世は明るいけれども、あの世は暗い。
 その暗さ、もしくは闇が、怖れの原因のひとつである。
 けれども、あの世が暗いなんて、だれがいったのか。
 わたくしが考えるところ、あの世には、天国だろうと地獄だろうと、明暗なんかないということである。
          *
 わたくしがいちばん影響を受けた哲学者に、
「神は死んだ」
 という有名な言葉がある。
 神は死んだか、神は死んだか、神は死んだか。
 言葉尻をとらえれば、あるいは臍曲りふうにいうなら、
「もともと死んでいる神が、いまさら死ぬわけがないじゃないか」
 となる。
 人間が死んでからその存在感が増すのと同様に、神は死んでいるから存在感が光っているものなのであろう。
 神が生きているとしたなら、人間にとって神は畏敬すべきものでも恐怖すべきものでもない。
 幽霊やお化けが、もし生きていたのならと考えれば、想像はつくはずである。
 ならば、死んでいる神に無碍に期待をするのも、無理な相談なのではないか。
          *
 神は死んだ、という言葉に触発されたのか、おそらく有能な数名の文芸評論家が、
「文学は死んだ」
 といいはじめて、二十年くらい経つ。
 これも言葉の綾であって、かれらにとって文学とは何をさすのかが、前提条件としてある。
 おそらくそれは近代文学とよばれるものであり、そこからつながる現代文学とよばれるものであろう。
 この言葉の前後を読み解くと、文学は死んだのではなく、文学は瀕死の状態であり、遠からず消滅するということである。
「だからどうした」
 とわたくしはいいたい。
 文学は本来、
「言霊」
 であるのだから、言霊に感応する人にとってのみ、生きているのが文学であろう。
 他にいいようもないから、わたくしはあえて言霊といったが、べつだん幽霊物語を指しているのではないし、
「文学の魂」
 なんておおげさなことをいうつもりもない。
 言霊をもうすこしインターナショナルな言い方にかえれば、
「詩感」
 であって、あたまでっかちの文学は消滅しても、人間が生きているかぎりは、またロボットでないかぎりは、かならず詩感がある。
 かのように文学はすくなくとも生きているのだから、その生きている証拠として、
「根っ子」
 があるはずである。
 その根っ子さえ守っていれば、いつかは木になり葉も芽もでて花も咲く。
 文学にかぎらず、あらゆる芸術はそういうものであり、そういう観点もなく、自分にとっては死んだのだという自省もなく、半ば悲しみ半ば喜び死んだ死んだと連呼されても、芸術の本質を知悉しない者のたわごととしか聴こえない。
           *
 神々が訪れる、という文章を読んでいたら、その文章のなかで、神々はなかなかにいたずら者であった。
 お店を荒らしたり、集会を邪魔したり、敬虔な信仰をもつ婦人を襲ったりもする。
 だが、神々が去ってしまうと、人間たちはわけもなくすぐに喧嘩をはじめる。
 この皮肉な文章が、どこか的を射ている気がするのは、わたくしだけえあろうか。
          *
 死の恐怖のなかに、天寿を全うする大往生ならしかたがないが、
「つまらない死に方をしたくはない」
 というものが、かならず内包しているものである。
 それだけ、いまの世の中、太陽がいっぱい、とはいかないけれども、危険だけはいっぱい。
 人間の命が軽くなったのか、人間の魂が軽くなったのか。
 あっちで殺人、こっちで事故、そっちで誤診、そうでなくとも災害や戦争で、死人の山。
 どうしたら、つまらない死に方をせずにすむか。
 それはなかなか難しい。
 たとえば、
「こんなことやると16%は死にマス」
 なんていわれても、
(自分は絶対84%のなかに入っているから問題ナイ心配ナイ)
 とおもいこむのが関の山なのであるから。
 逆転の発想で、上手な殺され方を考えれば、つまらない死に方をせずにすむかもしれない。
『友達も医者も他人。ならば他人を信用しなさい』
『性善説と性悪説、どちらが正しいか確証はない。ならば人間はみな性善であると考えなさい』
『人間は孤独なものだから、孤独の訓練とおもって、すべてひとりで行動しなさい』
『我は海の子だもの、できるだけ海のそばに住みなさい。我は山の子だもの、できるだけ山のそばに住みなさい』
『浮気は文化だから、浮気せずして男じやありません』
『男尊女卑は美しい思想だと考えなさい』
『戦争は楽しいので、いさんで戦地にいきなさい』
 こういう言葉を忠実に守っていれば、つまらない死に方をするので、上手な殺され方をしたいなら、この逆をいけばいいのである。
 つまり、友達や医者であろうと、他人を信用しない。
 人間はみな性悪である。
 ひとりではけっして行動しない。
 海や山のそばには住まないし、海や山にもいかない。
 浮気はけっしてしない。
 男尊女卑は醜い思想だと考える。
 いさんで戦地にいく。
 けれども、それがすべて素敵な生き方かとなると、そうでもない。
 けっきょく、上手な死に方なんかないのであって、あったにしてもそれは刺戟も昂奮も無く、面白くも無い人生を送ることになるわけであって、さてどちらを選ぶかは本人次第である。
          *
 わたくしの敬愛する作家の信条というか、口癖は、
「人間は屁のようにして生まれてきて、屁のように死んでいくものだ」
 というのがあるが、これぞ達観であろう。
 こう考えれば、生も死もたいしたものではない。
 ただそれではあまりにつまらない。
 けれどもよくじぶんの日常を思い返してみれば、九割以上はつまらないのである。
 それでも一割弱を求めたいのが人間でもある。
          *
「天命」
 という語がいつごろできたかは知らないが、
『史記』
 には頻繁にでてくる。
 天命と運命を同じ意とする辞書もあるが、やはり運と天ではちがう。
「これも天命じゃ」
 といって死んだ武将がおおい。
 それは、運不運なら諦めきれぬが、
「天が命じたことならしかたない」
 と諦められるからである。
 もちろん、天なるものを信じるとか信じないとかの次元では無く、天にかなうわけがないという先入観があるのである。
 あるいは、そう信じるしかない慣例。
 その先入観や慣例がどれほど、武将たちの死の恐怖をまぎらしてくれたであろうか。
「先入観や慣例にとらわれない」
 ことは、まちがいなく人生をゆたかにするが、武将にかぎらず、先入観や慣例にこりかたまることが、人生をらくにするばあいだってある。
         *
【死に至る病とは絶望のことである】
 という言葉には魅力がある。
 歯が浮くこの言葉には、前提条件がある。
 そしてまた、三段論法である。
 人間とは精神である。
 精神とは自己である。
 自己とは関係である。
 だが、単純にそうとはいえぬらしい。
 この論旨を要約するのさえ、ややこしい。
 ここでは言葉尻をとらえて、考えるにとどめよう。
 絶望が死に至る病だなんて、最初にいった人気哲学者のみならず、こういうことは頭でっかちがいう言葉である。
 あるいは、人間は、
「主体的」
 な生きものであると信じるお坊っちゃんである。
 なぜなら、人間が精神だから、絶望が死に至る病なのであって、人間が肉体ならば、絶望なんか糞食らえなのである。
 絶望なんかで人間は死なず、人間を死なすものは飢餓と悪寒、つまり貧困と病気である。
 そういう発想に立たなければ、世界は絶望者で溢れ、自殺者で溢れるであろう。
 世界は改良されず、政治も医学も進歩せず、世界にますます飢餓と悪寒が満ち満ちるであろう。
 けれどもと偉人はいう。
「度を超えたもの(quid nimis)」
 が人を襲った場合は。
 たとえば、戦争ですべての子を失った両親。
 交通事故で妻子を失った夫。
 津波で両親を失った子。
 まったく、慰める言葉もない、絶望。
(絶望なんか虚妄だ)
 と考えている人も、それが自分にふりかかってきたら、強がりなんかいっていられない。
 そういう絶望に、哲学が心理学が科学が宗教が、どういう慰めをくれるというのか。
 それらは、身近な人の抱擁以上のものをあたえられない。
 だがもし、精神が傷ついているのなら、人間存在の本質を知らせてあげるしかないのである。
 人間よ、人間よ。
 おまえたちは、どこからきて、どこへいこうとしているのか。
 希望の国からやってきて、希望の国へとさっていくのか。
 そんなはずはない。
 絶望の国からやってきて、絶望の一瞬を生きて、絶望の国へとさってゆくのだ。
 ただそれだけのことに、哲学者の理屈も、心理学者の邪推も、科学者の蛮勇も、宗教者の洗脳も要らない。
         *
「日本にとって世界大戦は避けられた」
 という政治学者がいて、
「日本にとって世界大戦は運命だった」
 という政治評論家がいる。
 やってしまったことを愚痴っぽく解説しているわけだが、そんなことに意味があろうはずもない。
「戦争責任」
 なんて言い方が、毎年流行語みたいになるけれども、そんなものは、くだらない言葉だとそろそろ認識すべきである。
 ひとつの国やひとりの人間に、責任を押し付けるなんてのは卑怯者のやることで、世界中の責任であり、日本の責任であり、日本人全員の責任である。
 大なり小なり、責任のない人間なんているはずもないし、もしも、
「ここにいる」
 と主張する者がいたとしたなら、それは人間ではない者である。
 つべこべいわず、大切なのは、もう二度と戦争なんかしないことと、世界の戦争にノーをつきつけることである。
 もし過去の戦争を回顧するなり反省するなりするならば、世界中で戦争や戦争がらみで死んだ、言語に絶する厖大な人びとのことを考えるべきである。
「聖戦」
 なんて言葉が、
「戦争」
 という言葉と同義語だと認識し、
「英霊」
 なんて言葉も、
「幽霊」
 という言葉と同義語だと認識するべきである。
 そういういいかげんな言葉で誤魔化さないで、死者について、けっして忘れることなく、考え、考え、考えぬくことである。
 WASP(白人&アングロ・サクソン&プロテスタント)には、それが足りない。
 そうして、作家と哲学者は、幽霊を蘇らす使命がある。
 スピリチュアル信奉者や愛好家が幽霊を蘇らすと、まったくろくなことにはならない。
          *
 ある大成功をおさめた実業家は、
「成功の秘訣は、私は困っていないとおもうことだ」
 と述べている。
 これに倣って、失恋者は、
「私は悩んでいない」
 と唱え、病人は、
「私は病んでいない」
 と自己暗示をかける。
 人気があったテレビドラマに、流行語にもなった、
「私は死にましぇーん」
 という台詞があったが、死の恐怖に苛まれた人は、この台詞を毎日口走れば、死の恐怖から解放されるにちがいない。
 とはいえ、その人がいつまでも死なないわけではない。
 もしかすると、死すべき人間にとって大切なのは、死なないことではなく、死ぬということを忘れることなのではないか。                  
          *
「高齢化社会」
 である。
 ごぞんじのとおり、と冠をつけたいとおもったが、現実はごぞんじ以上であろう。
 敬老館のみならず、図書館も区民館も体育館も、おどろくほど高齢者で溢れている。
かえり、デパートやスーパーの休憩所は、かならず高齢者で埋まっている。
 公園や庭園や花園も高齢者で花盛り。
 これらはみな外へでられる高齢者であって、外にでられない高齢者も同じ数がいるにちがいない。
『恍惚の人』
 の扱いは、家族も地域も心労の種であるが、老人用施設という姥捨山は金がかかってしょうがない。
 やはりここは、お国に、本物の姥捨山を作ってもらうのがよろしいのか、いえいえそれはなりません。
 歌を忘れたカナリヤだって、むかしは魅力的な声で歌っていたはずなのである。
 そうしてその歌声で、家族を養っていたのである。
 だが、そのうち子供も孫も、爺さん婆さんの歌声を忘れて、剥製のカナリヤ扱いにする。
 ところが、この剥製は、ミルク飲み人形と同じで、オムツが必要であり、ときどきどこやらに飛び立って行方不明になったりする。
(そろそろ死んでくれないかな)
 とおもったことがないとはいわせない。
 しかし、それはそういけないことではない。
 そうおもった家族が、死をちっとも怖れておらず、
(あんがいいいものじゃないかな)
 とおもっているばあいには。
 生きがいならぬ、死にがいならぬ、
「老いがい」
 というものがあるらしい。
 子供や孫に面倒をかけたくないと願っている、後期高齢者がおおいといわれるが、老婆心を超えた(もちろん良い意味で)意地悪婆さん、意地悪爺さんになるのも一興ではないか。
 認知症になるのはお勧めだけれども、そうならない人はおもい悩んで死に急ぐことがある。
 急がなくても死ぬのだから、急ぐことなんかない。
          *
 高齢化社会よりも問題なのは、
「格差社会」
 である。
 それでも腐った政治家連中に、重大問題としての認識が薄いのは、高齢化はいまにはじまったことであるが、格差はいまにはじまったことではないからである。
 おおむかしから、富裕層は餓死なんかしないし、貧乏人が病死する病でも、富裕層なら助かるということがおおかった。
 その傾向は古今東西いまだにつづいていて、したがって麻痺している政治家連中は、難民などに対しても冷淡でいられるのである。
「死は平等である」
 というのは、だれでも死ぬから平等なのであって、それならば、
「生は不平等である」
 といい添えなければ、筋がとおらない。
 おおむかしから今日まで、金で買えるのは、土地や建物や地位や物品や人間ばかりではなく、何よりも生命なのである。
 わたくしは金で生命を買った友人をもっているが、いささか辛辣で皮肉っぽくはあっても、こう伝えることを惜しまない。
「君が長生きするよりも、俺みたいな貧乏人に与えたほうが、金の価値は数億倍ある」
          *
 2020年からの新型コロナウイルスの、世界的流行によって、人類は翻弄された感があるが、こういうときに、人間の本性というものが出るものである。
 無暗に恐れて、マスクをしていない者に殴りかかるやつ、感染源の中国人を差別するやつ、自分が罹るとやけっぱちになって他人にうつそうとするやつ。
 ちょうど、
「東京オリンピック」
 の年なので、オリンピックがらみでも、人間の本性がでた。
 政治家も商売人もアスリートも、じぶんの立場や損得で発言する。もはやオリンピックの精神なんかどこにもない。
 つまり、人間とはおおよそこんなものであって、
【善人なおもて往生す況や悪人をや】
 といったお坊さんは、人間みな悪人だと解っていたのだ。
 悪人が往生しなければ、往生する人間はいなくなる。
 ほとんどの大災害が、人間の強欲がピークに達したときに起こるのは、創造主のしわざとか、宇宙の意思としか思われない、大きな要因である。
 だからといって、人間が本質的に強欲かというと、わたくしにはそうは思われない。
 強欲や金銭が快楽や幸福を生んでしまう、そんな世界になったせいである。
 そんな世界を作ったのは、創造主でも宇宙の意思でもなく、人間である。
 こんな堕落、荒廃した世界なら、滅亡してもよかろうという思想がでてきても、やむを得ない。
 政治家や宗教家や教育家などが、こんな世界を救えるはずがない。
 人類みな兄弟が、こぞって死を想うことによってしか、救われないと思われる。
          * 
 たしかに宗教は、かつて多くの、途方もなく多くの人間を救ってきた。
 同時に多くの、途方もなく多くの人間を殺戮してきた。
 前者と後者を比較して、前者が決定的に多いとはいえない。
 ならば、宗教は必要がないのではないか。
          *
 どういうわけかわたくしは、若いころに身内や友人知人におおく先立たれた。
 突然の死因は、自殺や奇病や事故。
 その際の、周りの人たち(主に女性たち)の言葉を、いくつか覚えている。
「あの人はお星様になったのよ」
「仏様のふところに抱かれているわ」
「いまごろ天国で幸せに暮らしているのね」
 こうした言葉を、慰めの言葉としてありがたく聞いていたものだが、時が経つごとに、ありがたいどころか、不快におもわれてきた。
 なぜ歯の浮いた言葉を発するのか。
 なぜ乙女チックな言葉が使えるのか。
 なぜ信じてもいないのに安易にいえるのか。
 かのじょたちは、リアルな現実を、ロマンチックな言葉に昇華したにすぎないのである。
 そうでもおもわなければ、耐えられないにちがいないと、弱いわたくしを慮ったのである。
 そうしてわたくしがだんだん不快におもってきたのは、かのじょたちの配慮ではなく、かのじょたちの言葉の表層でもなく、そういう台詞をいうしかない世の中に対してである。
 どうして世界は、この程度のレベルなのであろう。
 どうして世界は、世界の知識人たちは、人びとをこの程度のレベルにしてしまっていて、平気なのであろうか。
 どうして世界は、人間の死の真実を、人びとに浸透しえないのであろうか。
          *
「死刑制度」
 について、友人たちと話したことが何度かある。
 歴史的な事実や、法制度の問題や、統計的結果はさておいて、わたくしは死刑制度は無くしたほうがいいと考える。
 若いころは死刑制度は必要だと考えていたし、死刑制度は無くしたほうがいいと考えはじめてからも、言語道断の犯罪者がでてくると、
「死刑じゃ」
 とさけんだりしていたが、死刑で問題が解決するなんてことはないのである。
 何も解決しないどころか、死刑で遺族が満足したとしたなら、その満足にも問題があるとおもわれてしかたがない。
 死刑の基となる考え方は、
「目には目を、歯には歯を」
 であり、報復的発想では、戦争やテロの連鎖と変わりはない。
 重要なのは、殺された人間の恐怖であって、死刑というものがこの恐怖と釣り合うとはおもわれない。
 つまり、死の恐怖と殺される恐怖とは、同次元のものではないということである。
 老人、子供、女性、障害者、無抵抗の人、タクシー運転手など背中を向けている人、武器らしきものをもたない人。
 殺人者はきまって、自分より弱い者を傷つけ殺す。
 その傾向は、殺人者自身の問題以前に、弱い者に手をだすことは、最低の卑怯者であるという徹底した教育がなされていないことに問題がある。
 イジメに対する、学校や教育委員会や児童相談所の曖昧な対応が、その証拠であり、責任の一端どころか半分はかれらがもつべきであろう。
 それならば無期懲役でいいかとなると、これは十五年や二十年で出所できる可能性があり、あまりおすすめできない。
 また、殺人者が情状酌量とか心神喪失とかで、執行猶予になったり無罪になったりするのも、遺族のみならず納得がいかないであろう。
 たとえ犯人が死刑になっても、遺族が納得するかというと、納得しないけれども納得しなければいけないという状態であろう。
 前に戻ってしまうが、情状酌量とか心神喪失とかは度外視して、目には目を、歯には歯を、のほうが、わりきれていいような気にもなってくる。
 それに本質的な問題として、
「一人殺せば殺人者、一万人殺せば英雄、百万人殺せば神様」
 なんぞという、歴史的事実もある。
 もしも偉人たちのいうように、死が怖いものではないのなら、殺人をそれほど大袈裟に考える必要がないし、死刑もそれほど大袈裟に考えなくてもいいということになる。
 そんなこんなで算数的に割り切れない、難題中の難題であろうが、法治国家で法律を度外視しろともいえないし、それならその法治の内容が正しいのかとなると、単純には肯定もできない。
「大逆事件」
「東京裁判」
「冤罪問題」
 などなど、かつて理不尽ともおもえる裁判の事象があるが、現在の裁判だって、百年後には、あんな理不尽なことをやっていたのか、ということになるかもしれない。
 つまりつまり、そろそろ結論っぽいものが湧いてきたが、
「死とは何ぞや」
 の解明もなされぬままの、死刑制度というのは、とりあえずやめておいたほうがいいのではないか。
          *
「裁判員制度の導入にもからみ、刑事裁判制度はおおきく変容し、いずれ死刑制度は廃止されるにちがいない」
 という識者もおおい。
 そのばあい、終身刑がおおくなるはずだ。
 その終身刑について、
「死刑よりも非人道的だ」
 といった政治家がいるが、そんなことはない。
 なぜなら、どんな環境であれ、生きていれば、なんらかの楽しみも喜びもみつけられるはずだからである。
 みつけられるはず、というのが、いいすぎなら、みつけられるかもしれない、に変えても、やはり生きる意味はある。
 法というものがあっても、死刑はやはり、殺人(もしくは殺生)の範疇にはいるのである。
 死刑であろうと何であろうと、また人であろうとなかろうと、殺してはいけないのは、前にも触れたが、
「やりなおしのできないドミノ倒し」
 だからである。
          *
 人間界にはどうして、こうもマイナス言葉が氾濫しているのか。
 無情とか虚無とか孤独とかは、哲学的で難しく、あれこれ解釈もまちまちだが、ここで問題にしたいのは、ふつうの人びとのふつうの感覚としてのマイナス言葉である。
「かなしい」
「さびしい」
「むなしい」
「せつない」
「くるしい」
「つらい」
「やるせない」
「やりきれない」
「やってられない」
「こわい」
「おそろしい」
「にくにくしい」
「いたい」
「なきたい」
「おどろおどろしい」
「おぞましい」
「じっとしていられない」
「いてもたってもいられない」
「どうしようもない」
「しかたがない」
「ばかばかしい」
「あほらしい」
「たちなおれない」
「げんきがない」
「いきられない」
「わけがわからない」
 ほかにもあるかもしれないが、このへんで。
 ここにだした言葉は、偶然なのか必然なのか「い」が語尾についているが、これはあまり気にすることはない。
 ただ、胃がしくしくしたり胃がむかむかしたり胃がじんじんしたり、ということはあるが。
 むかしは「し」が語尾につくのであり、それは死を想起させるものである。
 死を想起してしまうので、だから「し」を「い」に変えたのではなかろうが、こういうマイナス言葉を、
「死語」
 にする努力を、政治も教育も疎かにしてきた。
 あるいは、鈍感なために無視してきた。
 この責任は重大である。
「苦しみや悩みはある種の快楽となるといってよい」
 といっている偉人もいるくらいだから、なおさらであろう。
          *                              
 先に書いたとおり、死語といものがあり、新語というものもあるが、死語にするには勿体ない魅力的な言葉があり、新語とするにはみっともない愚劣な言葉がある。
 それはさておき、わたくしがここで先に列記したマイナス言葉にくわえて、わたくしが考えるところの(おそらくここまで読んできてくれた読者は薄々気づいておられるであろうが)死語にすべき代表的な言葉を列記する。
「天才」
「馬鹿」
「天国」
「極楽」
「地獄」
「来世」
「神仏」
「神風」
「聖戦」
「聖域」
「霊感」
「心霊」
「化物」
「運命」
「必然」
「必死」
「平和」
「自由」
「安楽」
「慈悲」
「救済」
「大吉」
「大凶」
「祈祷」
「祈願」
 ついでだから、こんな言葉も追加しよう。
「真」
「善」
「美」
「愛」
「闇」
「無」
 などなど、これらはすべて、現実世界に無いもの(無すら無である)であり、とうぜん死後世界にも無いものであり、人間が勝手に作りだした、じつに曖昧な観念にすぎない。
 政治家の曖昧発言も含め、曖昧語や観念語が氾濫する世の中は、そろそろおしまいにすべきである。
          *
 テレビを垣間見ていたら、アフリカの或る村の葬式をやっていて、それはメソメソした日本とちがって、元気で明るく、棺桶も船や鳥の形に造られていた。
 現世で苦しんだのだから、苦しみのない来世にいくことは、幸せなことなのだという考えがある。
 死んだ本人の幸せを、どうして遺された者たちが悲しむ必要なんかあるのか。
          *
「死ぬと体重が減る」
 らしい。
 わたくしは計ったことがないので、計った人がそういっているのである。
 何キロというわけではないが、何グラムとか減るらしい。
 医学的にはどう考えるか解らないが、おそらく死ぬと何らかのエネルギーが宇宙に還元されるのであろう。
 いや、このことは、推察ではなく、確定に近い。
 そうしてもしかすると、その死者のエネルギーが宇宙を動かしているのかもしれない。
 そう考えると、何となく死者にも役割があって、それは救いでもあるとおもわれてくる。
          *
 日本のむかしの思想家が、
「天地に未だかつて死生など無いのに、すなわち人や物にどうして嘗て死生が有るというのか」
 といっている。
 これは突拍子も無い死生観なのだろうか。
 わたくしはここに、生あるものの救いを見るのである。
          *
 AIロボットがさらに進化して、人間の恐怖すら感じられることになったら、ロボットといえども死を怖がるはずである。
 そのロボットに対して、自然に還るんだと諭しても、生身ではないロボットには実感されない。
 そのとき、私たちは「再生」という言葉を使うはずである。
 それなら、人間に対してもその言葉を使ってもいい。
          *
 死後の世界はあるのか、ないのか。
 それは死んでみなくちゃ解らないが、あってもなくても、どちらでもいい。
 死後の世界がなければ、善悪なんてものはなくなってしまうと、偉い哲学社はいうが、善悪だって、あってもなくてもいい。
 問題は死後の世界ではなくて、
(というのは、死後の世界なんかに、永遠にいたいとはおもわないだろうから)
 人間は、いや、生きとし生けるものは、再生するのかということである。 
          *
「私」が死んだら「宇宙」もなくなるという、いわゆる「独我論」は、何よりも面白くない。
 いくら科学的に哲学的にそれが「真実」だとしても、面白くない真実を私たちは信じる必要はない。
 つまらんつまらんが口癖の文豪がいたが、この独我論を信じていたのだ。
 だが晩年、虚無主義者からクリスチャンに転向したのだから、やはりつまらん世界から脱却したかったのであろう。
          *
 この本のキャッチフレーズにもしたが、
「死んでもダイジョウブ」
 とは、むろん、死にたがる人たちに向けてのメッセージではない。 
 死んでも天国にいけると信じている人たちに向けてのものでもない。
 いまの名声や権威や財産に満足して、このまま不老不死を願う人たちに向けてのものでもない。
 天国なんて信じられず、死んだらただ永劫の闇のなかに吸いこまれていくだけであり、もう二度と人生のチャレンジもできないと、怖れ悔しがり嘆いている、名声も権威も財産も無く、ひどい境遇のまま死んでいかねばならない、不幸な人たちに向けてのものである。
 じつはあなたには、何度もチャンスがあるのである。
 あなたはそのままのあなたとして生まれ変わるのではなく、まったく別の生命体として生まれ変わるのであるから。
「私は貝になりたい」
 と願っても、貝になれるかどうかは解らないが、貝になれる可能性はゼロではない。
 人間にかぎらない、生きとし生けるものは、かならず死ぬけれども、それはいったん無限(あるいはほぼ無限)の宇宙に還るだけであって、あなたの命の灯火はいったん消えるだけであった、またいつか突然変異に似た状況のなかで、新しい生命として誕生するのである。
 それがいつかは約束はできない。
 また人間になれるかも約束できない。
 人間になれても、どんな人間になれるかも約束できない。
 けれどもそれが、一億年先であっても、それはあなたにとって、一秒にも感じられないであろう。
 なぜって、あなたは誕生前の世界に対して一億年の長さを感じていないはずだから。
 誕生前の一億年は学ぶことによって得られた知識であって、感覚としては一秒のはずであるから。
 そして、現在不幸な人たちにとって幸福なのは、たとえば一億年後に、あなたが新しい生命として誕生したときには、いまの記憶は無く、まったくの一からスタートするのであるから。
 そのときもあなたは、あなたが誕生する前の一億年を一秒として感覚するはずである。
 新しいあなたは、そのときあなたでは無く人間でも無く、馬か鹿か、それとも蝿か蚊か、あるいはいまからでは想像もつかない、生き物であるかもしれない。
 地球が回るのみならず、生命体も回っている。
 回り回って、さてこんどはどんな姿で、生きとし生けるものの仲間になるのであろうか。
 そういうことも死後の愉しみのひとつである。
          *
 死を怖がる人たちのおおくは、死に永遠の闇を想起する。
 だがそれはいまだから想起できることであって、死んでしまえば永遠どころか、一秒なのである。
 人間にかぎらず、生きとし生けるものに、自由も平等も無い。
 あるわけがない。
 けれども死の世界の一秒には、自由も平等もある。
 そこでは名声も権威も財産も、そんなものは関係がない。
 死を怖がるのは、名声や権威や財産がある人たちだけでいい。
 だからといって、なにも自由と平等を求めて、死に急ぐことはない。
 それは生命というものに対する侮辱であり、そんなことをみんながつづけていたら、宇宙の生命体システムが破壊されてしまう可能性だってあるからである。
 世間の人びとよ、
(死んでも大丈夫)
 ということを頭の隅っこにいれて現世を生きつづけよ。
 それが宇宙の生命体に対する、誠意というものではないか。
          *
 ごぞんじの通り、人間の肉体の大部分は水分である。
 死んだらそれは、水蒸気となって空に昇り、雨の一部となって、地上のだれかの上に降りかかる。
 その科学的事実のみをもってしても、死後の人間は無ではない。
「存在と無」を、正反対のものとして捉えることはできない。
 存在のなかに無があり、無のなかに存在がある。
          *
 人間には正視できないものが二つあって、それは「太陽」と「死」だと、むかしの哲学者はいった。
 そんなことはない。
 朝日や夕陽は正視できるし、死だって正視できないひとばかりではない。
 未来の人間は、現代の人間が驚くくらい、死を正視することができるにちがいない。

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