制限選挙論者としての白井聡:「反知性主義」をめぐる永続戦争

政治学者で京都精華大学専任講師の白井聡氏が、シンガーソングライターの松任谷由実氏に対して、フェイスブック上で以下のような発言を行い炎上、発言を削除、謝罪するという騒動があった。

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これは、松任谷氏がラジオ番組で、安倍晋三首相の辞任に際して、「プライベートでは同じ感性を共有出来る」「ロマンの在り方が同じ」「切なくなった」というようなような発言をしたことが原因のようだ。

なぜ、それが上記の発言につながるのか?

白井氏は、安倍政権に対する舌鋒鋭い批判で知られ、また日本共産党への支持を表明している。安倍氏にシンパシーを感じるかのような松任谷氏の発言が、政治的な立場から許せなかったと推察される。だが、それだけにしてはあまりに過激すぎる。

さて、上記の発言に対する大学の声明は以下だった。

このたび、本学教員によるフェイスブック上での不適切な発言がありました。
「人間尊重」「自由自治」を理念に掲げ、ダイバーシティの推進により多様性を大切にする本学では、個人の主義主張、思想、信条の表現や発言に寛容でありますが、今回の発言は、人間の命を軽んじた内容であり、人間尊重の立場をとるべき本学教職員として不適切な行為であったため、厳重な注意を行いました。
本件におきまして、不快な思いをされた方々、ご心配をおかけした方々に、深くお詫び申し上げます。

さて、氏は撤回後、まずフェイスブック上で以下のように釈明した。

松任谷由実氏についての私の発言が、物議をかもしているということですが、削除いたしました。私は、ユーミン、特に荒井由実時代の音楽はかなり好きです(あるいは、でした)。それだけに、要するにがっかりしたのですよ。偉大なアーティストは同時に偉大な知性であって欲しかった。そういうわけで、つい乱暴なことを口走ってしまいました。反省いたします

次に、ツイッターアカウント上でも謝罪を行った。

炎上の起点、大学側の声明、白井氏の釈明と謝罪の焦点は、生命を軽んじる発言をしたという点だ。確かに、この観点からも問題ではあるが、すでに多くの批判が寄せられている。私がもう一度、詳細に批判する意味は薄いだろう。

本noteの主題は、この部分を批判することではない。

その背後にあるものを批判するのが目的だ。

白井氏の一連の発言、及び過去の著述には、反・反知性主義と呼ぶべき、現在、インターネット言論上にも広くみられる、危険な思考の類型が現れている。今回の件は、それがたまたま閾値を越えたため、糾弾されたに過ぎない。

これは安倍政権批判、自民党批判の文脈を離れ、公論上のあらゆる言説において見られるものだ。この構造を説明するために、反知性主義、反・反知性主義の抱える問題と歴史、その解決の困難さについて再考するのが、今回の主題だ。

知性と政治選択と制限選挙

白井氏についてもう少し補足しておこう。彼は、共産主義の思想家であるレーニンの研究者であるが、現代日本政治の分野での著述も多い。また、単に研究者であるという立場を超え、現代的なグローバル資本主義批判の立場からの資本論入門書である『武器としての「資本論」』を執筆するなど、マルクス経済の啓蒙を行う思想家としての一面も持つ。

さて、彼は、最初の発言以降、生命に関わる部分以外については撤回していない。とくに最初の釈明に際して注目すべきは、偉大な知性でないことにがっかりしたと述べていることだ。逆に言えば、以下はまだ彼自身の主張としてよいだろう。

「安倍政権を支持していた人間は知性が欠如しており、知性の欠如は人格に問題をあらわし、本人の名誉を傷付ける

知性の定義は明確ではないが、これは、「ゆえに死ぬべきである」などと言わず、特定の人間に向けないで一般論として述べれば、そこまで問題視はされないだろう。単なる個人の感想である。奇妙なのは、それをアーティストにまで求めることだ。この背後には、重大な危険がある。

大きな間違いを犯す人間は、知性が欠如しており、知性の欠如は人格の問題に同じ、いう発想。あらゆる人間には知性が必要で、そうでない人間は醜悪だ、という発想。そう思うこと自体は、まあ自由だ。だが、これが政治思想と結びつく時、危険な制度を出現させうる。

そのひとつが制限選挙である。制限選挙とは、文字通り、参政権を原則的に、全ての人に与えない選挙制度のことだ。普通選挙でも、年齢制限や選挙犯罪による公民権停止などは存在するが、そうではなく、そもそも能力、納税額、身分など、一定の条件を満たさなければ、そもそも選挙権は与えられないというシステムだ。日本も、大日本帝国憲法公布時には、男子かつ一定以上の納税などを条件とした、制限選挙を採用していた。

流石に難癖だ、そこまで過激なことは提唱しないだろう、と思われるだろうか?

だが、白井氏は、実際に制限選挙に理解を示していた。2017年5月、安倍政権批判の文脈で書かれ、神奈川新聞に掲載された記事をひこう。

いくつかの安倍政権批判の後に、彼は以下のように続ける。

しかし、何も為政者のみが悪いのではなく、このような状態を許容しているのは、究極的には国民大衆だ。昨年7月の参院選の際、神奈川新聞が実施したアンケート結果を見て私は衝撃を受けた。質問は、参院選で焦点となっている「3分の2」の意味を知っていますか-。100人に聞いたところ67人は「知らない」と回答したという。憲法改正を発議するためには「両院それぞれ3分の2以上の賛成」が必要という数字であり、今後安倍政権が進めたがっている改憲論議を踏まえれば、参院選の最も重要なテーマだったはずだ。

まず氏は、国民が、憲法改正発議に関する基礎知識をもっていないということを示唆するアンケート結果に驚愕する。参院選で焦点となっていた「3分の2」という数字から、憲法改正発議の必要定数を連想しないのは、政治への無関心、あるいは知識の欠如だと考えたのだろう。

 だがおよそ7割の有権者はそのことを認識していなかった。正論を言えば、こんな状況下で普通選挙をやっている事の方が間違っている。

次に、そのような状況で普通選挙を行うことは間違っていると述べる。

 かつて制限選挙が当たり前だった時代の普通選挙導入論に対する批判は、「判断力のない人々(愚民=貧乏人と女性)に選挙権を与えたら、ろくでもない政治家を選ぶので危険だ」というものだった。貧しい人や女性には判断力がないという考え方は間違っているが、しかし判断力がない人間に参政権を与えるのは不適切、という論理はもっともである。

そして、かつての制限選挙は、「判断力のない人間」の判定基準が間違っていただけであり、「判断力のない人間に参政権を与えるべきではない」という発想は正しいとする。

 だが、普通選挙制度は導入された。ではかつての批判にどう答えてきたのか。最も筋の通った反論は、「判断力が未熟な場合があるとしても、人は判断力を高めるべく努力するはずだ」というものだ。

ただし、判断能力を高める努力をするならば、未熟な判断をする人間にも、選挙権を与えて良いのではないか、という反論を想定。

 今日の惨状をみたとき、この反論は成り立つのか。人口の大多数が義務教育の年限を超えて教育を受けているはずなのに、最低限の政治知識も持ち合わせていない。それは要するに、公民たろうとする意思がないということだろう。あるいは、地方に行けば投票先について「うちは昔から代々ずっと○○先生に決めていますから」という話をよく聞く。現に未熟であるだけでなく、その自覚もない。

そして、現状の日本は国民に公民たろうとする意思、つまり能力を高める努力を行う意思が欠如していると断定し、上記の仮想反論を自ら否定して終わり、その後再び政権批判へと戻る。

さて、まず疑問が浮かぶ。この部分、つまり選挙権の制限は、政策提言と言えるだろうか。いや、そう考えると意味不明なことになってしまう。

氏は、安倍政権の存続、そしてそれを許容する国民の判断能力を批判する文脈で、制限選挙を持ち出してきた。だが、制限選挙の導入でその現状を変更することが不可能なことは、ほぼ自明だ。

当時、法改正を行って、制限選挙へと変更できたとしたら、当然、与党である自民党、安倍政権である。もし、「知性が欠如した人々が政権を支えている」という描像が事実だとしたら、政権が法改正を行って、自身を支える人々の参政権を制限し、政権交代が達成されるという想定は、ありえない。

というか、この事実は安倍政権とは何の関係もない。どんな政治状況であっても、選挙権を制限できるとしたら体制側、政権側だけなのだから、選挙権の制限は、現状を固定する方向にしか働きようがない。

より一般に、政治状況の変更、特に政権交代をするために、法改正を提案するというのは、支離滅裂な発想と言える。現状の制度下で、別の党が勝利する、以外に民主的な政権交代はありえない。選挙に関わる法改正は普通、政権側に有利であると判断された場合にのみ、実行されるはずだ。

まあ、暴力革命やクーデターなどの他の手法により政権を奪取し、その後に制限選挙を課すことを想定している、という可能性もあるが、その場合も現状変更の手段は暴力なのだから、制限選挙の提案は本題とはなりえない。

この結論に至るために、専門的な政治知識など必要ない。白井氏はこの程度の論理的思考すらできない人間なのだろうか?いや勿論、そんなはずはあるまい。仮にも博士号をもち、研究者としてのキャリアを積んだ専門家だ。

だが、単なる皮肉やジョークの類でもないようだ。制限選挙については、さらに以下のような発言もfacebook上で行っている。


生活保護の不正受給がやたら問題視される日本ですが、それよりもはるかに重大なのは「公民権の不正受給」じゃないだろうか。「3分の2が焦点」の意味を理解していた有権者が20%にも満たなかったというアンケート結果が話題になったのは、昨年の参院選でしたが、「3分の2」の話は中学校で教わることです。この記事に登場する人々は、当然中学校卒業程度の知識もないのだろう。そうした人々は、「公民」(シトワイヤン、人民主権国家における政治的主体)ではない。公民ではない人に公民権を与えるのは、まことに奇妙なことである。

同一の問題について、公民権の不正受給という強い言葉で、「公民」の条件に満たないとする人々を批判している。

これに対し、いくつもの異論が呈されたが、殆どに反論を行っている。一例をあげよう。

白井さんは制限選挙制度論者とは知らなかった!中学校で教わったことならというならピタゴラスの定理今即座に証明出来ますか?私いろいろ試してみましたけれど、ほとんどだれも出来ませんよ!1月から12月、月曜日から日曜日までちゃんと正しいスペルでかける人もごく少数ですよ!

facebook上での、別の人の反論だ。義務教育で受けた内容だからといって理解できるとは限らないだろう、という内容で、白井氏の発言を、穏健にとりなしていると言えよう。これに対する反論が以下だ。

いますぐ普通選挙を止めましょうって言ってもそれは無理な話でしょうし、有権者資格審査みたいな制度を取り入れれば状況が良くなる保証はありません。それはともかく、現状では、与党の側が、日本の有権者の無知・無関心を利用して権力維持に成功している、という事実は動きません。なにせ、今回の選挙にしても、自民党議員が「勝ち過ぎだ、これでは安倍降ろしの機運ができない」といって戸惑っているという話すらあるくらいですから。選挙制度に欠陥があるのも確かですけど、やはりそれ以上に、投票行動が謎過ぎる。そして、若年層で政権支持率が一番高いというのは、仕事柄よくわかりますよ。こうした事実に鑑みれば、「公民権の拡大は無条件によいことだ」という近代社会の常識は疑ってかかる必要がある。明らかに「条件」があるはずで、その条件が壊れている。
あと、公民科目の知識は特別だと思います。生き死にに関わるからです。ピタゴラスの定理を忘れても命にかかわることはたぶんありませんが、有権者としての最低限の知識・教養がないと、命にかかわる危険を呼び込む。

氏は、制限選挙の導入が現状の問題解決になる保証はないことを認める。しかしその後やはり、国民の無知と無関心、とくに若年層の投票行動を疑問視し、最終的には公民権の無条件の拡大が現状を招いたこと、普通選挙を成立させる条件が欠けていることを示唆している。

彼がここで言いたい、欠如している条件とはなにか。最低限の知識・教養、これが氏の言うところの知性だろう。

知性を高める努力を全国民が行い、人として最低限の知性を身につけない限りは、普通選挙より制限選挙のほうが良い、皆もそう思うべきだというのは、現状変更のための政策提言などではなく、彼の根源的な政治思想と言うべきもののようだ。

これは一体、どこから来たものなのか。

(日本の反・反知性主義の前提としての)アメリカの反知性主義をめぐる混沌

「現時点での政治や公論上の問題を引き起こしている原因は、知性の欠如した人々の意見が主流であることだ。知性が一定の水準以下である人間の意見は聞く必要がなく、すくなくとも公論に反映すべきではない 。彼らを公的な意思決定から排除することが、有効な対処法だ」

このような描像は、白井氏に特有のものではなく、もう少し大きな流れの中にある。その一端が垣間見えるのが、同僚である京都精華大学客員教授、内田樹氏らが2015年に編著した日本の反知性主義だ。

集団的自衛権の行使、特定秘密保護法、改憲へのシナリオ……あきらかに国民主権を蝕み、平和国家を危機に導く政策が、どうして支持されるのか? その底にあるのは「反知性主義・反教養主義」の跋扈! 政治家たちの暴走・暴言から、メディアの迷走まで、日本の言論状況、民主主義の危機を憂う、気鋭の論客たちによるラディカルな分析。

本書の紹介文にはこうある。安倍政権が支持される遠因を、反知性主義、反教養主義に見出しているようだ。これには白井聡氏も寄稿をしている。その中で語られるのは、反知性主義の存在と問題点を指摘し、対抗するための思想であるはずだから、反・反知性主義と名付けるのが妥当だろう。

だが、反知性主義という言葉の意味について、各著者ごとに様々な内容が語られ、しかも明確な定義がないか、描像が一定せず、前提知識なしに読むのは難しい。

そもそも、反知性主義とは何なのか?少なくとも現代の日本で、自らを反知性主義者と標榜する人間は少ない。基本的には、他者を非難するための言葉だ。しかし実は、かなり複雑な文脈の単語である。これを理解するにはまず、アメリカの反知性主義について説明する必要がある。

反知性主義 Anti-intellectualism という言葉が登場したのは1950年代のアメリカ合衆国においてとされる。大学教授や知識人を共産主義者のスパイとして排斥した、赤狩り、マッカーシズムと呼ばれる弾圧運動や、知識人ではなく政治経験のない軍人であることをアピールして大統領選に圧勝した、ドワイト・D・アイゼンハワーの選挙活動などの、アメリカの時代背景を説明する言葉として現れた。まあ、知識人への懐疑や反感、知識人でない人に好感をもつ傾向、という程度の意味であった。

これを受け、反知性主義を、危険ではあるが、単なる一部の人間の反動ではなく、アメリカ建国史に通底する重要な思想の流れとして位置づけたのが、政治史家リチャード・ホフスタッターの1964年の著書『アメリカの反知性主義』だ。学術的な意味では、反知性主義とは第一にこれを指す。日本の反知性主義の中にも引用されており、その中で、書名もここからとったと内田氏自身が述べているから、彼ら自身もこの文脈がある上で発言していることは間違いない。

ホフスタッターの記述は実証的で、様々な具体例が挙げられているので、前提知識を要し、それなりに複雑だ。以下で述べるのは本書の要約ではなく、本題にしたい部分だけ抜き出して、そのための知識を私なりに補足した内容なので、その点はよく注意していただきたい。

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本書で、反知性主義者に共通する思考パターンとされるのは、知的な生き方、学者、知識人を馬鹿にして価値を貶める風潮であり、一般的理解に近いようだ。

だが反知性主義の代表者は、無学でも無教養でもなく、むしろ知識人も、反知性主義的行動に取り憑かれる危険性があるとされている。

重要とされるのは、知能知性の区別だ。同じ知的能力であっても、知能は与えられた枠組みを理解し、その中で問題解決を行う能力、知性はそもそもの枠組み自体を吟味し、熟考し、懐疑し、理論化し、批判する力として描かれる。反知性主義者は知性を嫌うが、知能はむしろ称賛する。当時のアメリカなら、有能な軍人、ビジネスマンなどは反知性主義者にも人気だった。それならば、なぜ知性を嫌うのか。それが運動レベルにまで発展するのか。

アメリカ合衆国の歴史は、移民元であるヨーロッパの教会権威への反抗から始まった。キリスト教の本流であるカトリックに弾圧されて逃げてきたプロテスタントのさらに一派であるピューリタンが、最初期の入植に大きな役割を果たしたからだ。彼らは何者か。

プロテスタントの歴史は、16世紀初頭、ドイツで神学者マルティン・ルターの宗教改革と、重税にあえぐ農民の不満が結びついたことに遡る。カトリック教会に抗議 (ラテン語: prōtestārī)することが、プロテスタントの語源だ。その内容は最初、教会や領主の権威と権力の全否定、聖書原理主義にも近かったが、それを根拠に反乱した農民は弾圧され、ルター自身も権力側に付き、農民の殺害を煽動すらした。結果、カトリックに対抗する様々な教会制度が別に作られ、さらなる戦争や権力闘争と結びついて、100年ほどかけてヨーロッパ中に広がり、プロテスタントは新しい権威と権力を打ち立てつつあった。

イングランド国教会の異端として現れた、プロテスタントの一派がピューリタンだ。彼らもまた、既存教会からの独立を主張し、弾圧を受けていた。そ思想は非常に潔癖 Purity であり、そう馬鹿にするための蔑称である「ピューリタン」を自ら名乗るようになった。

さて、17世紀前半、イングランドの弾圧から逃れ、アメリカ大陸に渡ったピューリタンたちは、原理主義と呼ばれる非常に厳格な宗教観をコミュニティに持ち込んでいた。ただし、それは日本人が想像しがちな、思考停止的な「原理主義」ではない。ピューリタンの教えは、論理をもとにした聖書解釈を万人が自身で行い、自ら真理を発見し、それにしたがって生活すべきという、高度な知能と知性、実践を要求するハードなものだ。大学でそういった訓練をうけたという学歴も重視される。聖書理解のためにとくに学ぶべきなのは、文法学、論理学、修辞学の三学、自然哲学、道徳哲学、形而上学、古代東方言語といった教養だ。はっきり言って、開拓に従事する一般労働者の生活にとっては、恩恵の薄い学問だ。

しかし、これを避けては通れない理由が、回心という概念だ。回心が何を意味するかもキリスト教の宗派によって違うが、当時のピューリタンにおいては、自分の信仰を論理的に共同体の代表者に説明する、口頭試験のようなものに合格することであり、できない限りは本当の信仰があるとはみなされなかった。ここで知性は、互いの信仰、自分の信仰、聖書の記述、信仰とはなにかを疑い、吟味する能力として要求される。

勉強嫌いには非常に厳しい教えだ。日常生活で使わない学問を必死で学び、知能と知性をもって信仰を証明できないと、よく生きられない。天国にいけないかもしれない。共同体からも一人前扱いされない。一般人の中に、不安と不満は常に発生していた。

それでもしばらくはこの厳格なピューリタン社会は維持されるが、さらなる移民や、世代交代を経て、18世紀に入る頃に、不満に火がつく。着火したのは、単純でわかりやすく、しかも面白く熱狂できる教えを布教してくれる、新しいタイプの「伝道者」たちだ。

彼らの説教は、身振り手振りを交え、平易な言葉で語られ、非常に感情的かつ優れた大演説だった。彼らが街から街へ、教えを伝道して回ると、礼拝堂や祈祷会は大盛況となり、痙攣や気絶、歓喜や号泣などの激烈な反応を引き出し、アメリカ全土を巻き込む大熱狂を引き起こした。そして、これをもって回心したということにして良いという教えも広がった。これを「大覚醒」という。

ホフスタッターは、これが反知性主義の源流であるというアイディアを提唱した。とりあえず、反知性主義とキリスト教の関係は、ここが重要だ。

まあ、非信仰者から見れば、単なるカルトの大流行にも見えるかもしれないが、キリスト教内部では勿論、そんなふうには切り捨てられない。とはいえ、知性こそが信仰に従い、よく生きるための条件だとする、従来の教義をもつ牧師達は、これを徹底批判。教会を貸さない、街から締め出すなどの弾圧を行った。

しかし、これに伝道者たちは反論。キリストが、厳格なユダヤ教社会の知性主義、形式主義的な信仰の間違いを改めたという逸話を引き、素朴な信仰こそ正しく、信仰に高度な知性や聖書理解が必要だという発想のほうが間違いだと神学論争を仕掛け、大衆のさらなる支持を獲得した。

結果、二つの対立した、生き方に関する思想の派閥がうまれたのだろう。

よく生きることとは、知性的に生きることであり、情緒はそれを害する。

よく生きることとは、情緒的に生きることであり、知性はそれを害する。

ただし、気をつけなければいけないのは、これは知能が高い人間と低い人間の対立や、知識人と大衆の対立、とはされていない。

道徳面での人格評価において、知性と情緒どちらを好むか、どちらを好んでいると見られたいのか、という対立だ。時代背景や流行の影響によって、複雑に勢力図は入れ替わるが、定期的にこれが信仰と結びつく「大覚醒」の時期があり、反知性主義の流行だとみなされている。その立役者は、宗教者であったり、貧しい生まれからビジネスに大成功した人だったり、スポーツ選手だったりする。

やはり最も重要なのは、反知性主義が民主主義、選挙と結びつく時のようだ。複雑な、しかしある意味で下らない、メタゲームの様相を呈してくる。

ネガティブ・キャンペーン人格攻撃の手法として、知性や教養はあるが、むしろそれゆえに人格が信用ならない、という論法は、知性で負けている側にはお手軽かつ強力な戦術となったようだ。反知性主義的かつ大衆人気のある聖職者を動員出来るからだ。

これを繰り返すことで、政治とは、知性がある人間ではなく、大衆の道徳的感性に一致する人間を選ぶもの、という前提が確立し、反知性主義は、むしろ社会の主流になっていく。これに従わないと選挙に負けるのだから、知識人も、自分の人格をアピールし、相手の人格を攻撃するネガティブ・キャンペーンを張る。

一種、この貫徹である、猟官制(スポイルズ・システム)は、選挙に勝ったら、すでにいる公務員の地位を奪い取って、専門知識のない自派閥の仲間に分配して良いというもので、専門知識軽視と経済的利益の追求を、ますます政治のスタンダードとした。

もちろん知識人も負けっぱなしではない。猟官制は汚職の元だし、複雑な問題に関しては当然、蓄積された専門知が必要になるのだから、本来なら有利に決まっている。制度改革や経済問題、戦争など、知的能力の必要性が高まると知識人の勢いは増すが、改革が失敗したり不況になると不満は噴出。選挙で、教養ある男は女々しいとか、男らしくないとかいう人格攻撃キャンペーンを張られ、反知性主義ブームが盛り返す。それを学習して、知識人も男らしさをアピールする別の技術を磨いたりもする。

さて、こういった戦いの中で、様々な思想の変遷があるが、とくに重大な論点は、権力と知性の結合の危険性だ。知識人が戦争を主導した時、その行動は勝利のためには合理的だが、むしろそれゆえにしばし道徳心が欠如し、原爆投下計画のような残虐な選択も知識人により遂行される。そして、大衆の知識人に対する嫌悪や批判、知識人の自己嫌悪が発生、権力と知性が直接結びつくのは良くない、という風潮がうまれる。

むしろ、反知性主義的で自由だが、道徳心はある大衆が権力の主体となり、知識人はそれに対しアドバイスする立場にとどまるべきだ、という別の理想も生まれてくる。イデオロギーや政治思想を放棄し、大衆に奉仕するための知性という描像を、知識人自体が内面化していったりもする。

だが、ホフスタッターは、こう言った単純な考えにも、むしろ反対しているようだ。反知性主義が完全に権力の主流になると非常に危険な事例として、議員ジョセフ・マッカーシーが主導した、赤狩り、マッカーシズムがあげられている。

これは、第二次大戦後、知識人の中に共産主義のスパイがいるという嫌疑が噴出し、政府職員、マスメディア、映画関係者などが攻撃された運動だ。

とくに原爆関連の重大情報などが奪われる恐怖から、スパイ狩りへ大衆の支持は熱烈であり、マッカーシーらはこの波に乗って、魔女狩りに近い、証拠不十分かつ一方的な断罪や、糾弾を繰り返した。最後まで無罪主張しながら死刑になった人間もいる。容疑をかけられ自殺した人間も多数だ。知識人側は反発するも、共産主義者と名指しされることを恐れ、口を閉ざした。

そして、この流れの中で、知識人への反感は頂点に達し、絶大な反知性主義ブームが到来。この波に乗って、アイゼンハワーは知識人でない、男らしい軍人であることを全力でアピールして選挙に圧勝。ここでようやく、反知性主義という概念が名指しされ、言葉が歴史に現れた、というわけだ。

だが、マッカーシーはしばらくはその勢いで弾圧側に回ることが出来たが、これを繰り返し、矛先を軍に向けたことで反感を買い、逆にネガティブキャンペーンを張られ、攻撃的で非論理的な言動を全国報道されたことで、失脚。マッカーシズムは悪だったと総括され、知識人はなんとか表舞台に返り咲く。そして、大統領選で勝利したジョン・F・ケネディは、討論の強さで男らしさと知性をアピールする技術を確立した、と描写される。

次に、文学や文化との関係だ。ホフスタッターの描像を抽象化すると、能力、人生の成功、身体感覚といった個人的なものと、キリスト教的な霊性、自然といった普遍的で超越的なものを直結する文学や文化が、反知性主義だとする。どういうことだろう?

多分、重要なのは、自助という概念が、神のような超越的な意思への信仰と結びつく事だ。自分の力で人生の困難を切り抜けられた人間は正しい。自分の人生に成功すれば正しい。そのために努力する人間は正しい。成功のためには実用的な学問が最も重要だ。身体感覚に従うことは正しい。失敗して世界に文句を言っている人間は正しくない。人生の成否はそのまま神の意志の現れなのだから、それを疑うのは信仰の否定、悪となる。こうして、個人至上主義がキリスト教的価値観と矛盾なく受け入れられ、そのために使われる知能は称賛され、「正しさ」を疑う知性は嫌われる。こういった感覚は、確かに現代アメリカ社会にも見られるし、これも反知性主義といえば、そうだろう。

ヒッピー文化など、様々な文化がこの文脈で槍玉に挙げられているが、アメリカのラディカルなまでの個人主義愛好は、全て反知性主義に影響を受けて成立した、という話にも回収されそうだ。本来、現世の不平等さへの対抗であったはずのキリスト教が現世絶対的になるのは、中々に奇妙に思われるが、実際にそのように推移していることには頷ける。神と個人の関係が最も重要となり、社会は軽視されるようだ。

これは中々、反知性主義の社会的に危険な面ともいえる。現代アメリカで未だに公的保険制度への敵視があるのもこの文脈なのかもしれない。

最後に述べられるのは、教育との関係だ。これもまた複雑だが、哲学者ジョン・デューイの教育思想と、つづく実践者が、反知性主義的失敗として描写される。この概略だけ述べよう。

ジョン・デューイ自体は、偉大な哲学者であり、プラグマティズムの一種である道具主義の確立をした人物だ。絶対的の真理を求めるアプローチを否定、真理とは「人々にとってより好ましく信じられるもの」だとした。民主主義を思想的に牽引した人物であり、アメリカ民主主義の代表者とも言ってよいだろう。

もちろん、民主主義をただ称揚した人物ではなく、ある意味ではその反知性主義的危険性をいちはやく理解し、解決のために今日の市民教育の雛形を発想した教育においては、人間の自発性を重視した、自由な教育を提唱した。

だが、ホフスタッターによれば、その試みは失敗した、少なくとも反知性主義の危険性を強化したと扱われる。まあ、それはそうだろう。反知性主義を教育で解決しました、という描像ならここまでの話は無意味だ。むしろ、自由な教育というお題目は教育界に混沌をもたらし、非科学的であったり根拠のない「教育」を繁茂させたという面は、現代においても、アメリカ以外でも否定し難い。無論、失敗と断定するのも難しいが。

さて、ここまで様々な視点が語られてきた。結局、何が問題なのか?結論は何?という気分にもなるかもしれない。

たとえば、反知識人反知性主義を峻別しよう、という提案が示される。前者は単に知識人っぽい振る舞いを嫌う行為で、これは否定されていない。

まあ、本書の記述をふくめ、一般に、知識人が、自分の知能や知性に自身を持つあまり、それを権威化して出鱈目をやったり、他人を攻撃したり、知識人同士の内紛や利益争いに大衆を動員してきたのは事実なのだから、知識人自体が嫌われるのは無理もないし、ホフスタッターも認める通り、知識人が権威化するのを防ぐ効果もある。

ただし、反知性主義はやはり問題で、それは思考停止、狂信につながるから危険だとされる。

知識人はとくに、知性への情熱、単一の思想への傾倒、勉学から受けた先入観、正義や秩序を求める情熱などによって、逆に狂信に陥りやすく、従ってむしろ過激な反知性主義者になりやすい、といったような警告がある。とくに、知性への情熱は知性とは違う、と語られる。

だが、これらを完全に捨て去ったら、知識人ではいられない。大事なのはバランスであり、それを保つためには遊び心が大事なのではないか、と提案されている。

やや唐突感もあるが、遊び心こそ、実用性を越えた知性の使い方であり、狂信や暴走の抑止につながる、という説明は、それなりに納得感はある。もちろん、遊び心だけでも駄目で、知性への真面目さと、遊び心のバランスを取るのが大事だとされる。

このように、反知性主義は、危険ではあるが、歴史は長いし、人間や社会から簡単に切除できるようなものではなく、平等自由の理想といった大義名分と結びついている。単に教育をやればいい、という話でもない。

知識人と権力との関係も微妙だ。単に体制批判すればいいわけでも、体制側に付けばいいわけでも、体制に従えばいいというわけでもない。

だが、だからといって、知識人は知性を諦めるのではなく、むしろ知性をつねに全力で用い、不断の努力で、自分と社会の反知性主義的な部分を疑い、反知性主義と理想を切り離そうと努力するのが、知的な生き方だ、という感じの着地点となる。

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結局、知識人が、自他の反知性主義に負けずに、しかし知性への情熱を保ち続けるための、内省のための書であった。

もちろんこの流れもまた、無批判に受け入れるわけにも行かない。

現代的かつ批判的な読み方をするなら、もう少し補足する必要がある。

私が一番重要だと思う点は、赤狩り、マッカーシズムについてだ。ある意味、これが、反知性主義という言葉を生み出し、本書が執筆された原因でもある。知識人の反知性主義への嫌悪から始まった流れから、そこで終わらずに歴史と内省に向かったホフスタッターの知性は流石とは言えるが、やはり赤狩り自体は擁護の余地のない大悪だと断定しているようだ。

だが、その後さらに時代が下り、米ソ冷戦が終結してベノナ文書が公開されると、赤狩りで断罪された無実の人間だとされた知識人の中には、実際にソ連や中国共産党のスパイだったと思われる人物が多くいたことが判明した。スパイ全体の規模も、マッカーシーが想定したよりずっと多かった。

とくに、原爆製造の情報を盗んだ罪で処刑された、ローゼンバーグ夫妻についての評価は一転した。彼らは最後まで無実を訴えたため、マッカーシー失脚後は、無実の罪で彼らを処刑した、とアメリカ政府を攻撃するキャンペーンの旗印として、知識人やメディアに度々とりあげられた。その裁判が強引で、法廷外の力も働いていたらしいことは事実だ。だが実際に、ローゼンバーグはソ連に原爆情報を流していたスパイだった。そして、このキャンペーンに参加していた知識人やメディア内にも、やはりスパイは実在した。

この「事実」に関しても、もちろんまだまだ争う余地がある。赤狩りが違法捜査で、出鱈目な糾弾が大量に含まれていたことも「事実」だ。だが、ベノナ文書の公開前後で、赤狩りや知識人に対する我々の認識がまた一変したことは間違いない。

当時の知識人の人格に対する疑いに関しては、ホフスタッターの描像より、更に強める必要がある。それが、反知性主義の果たした役割や、それに対するスタンスの変更につながるかは微妙な問題だが、すくなくとも、その暴走により知識人が一方的に弾圧され、社会は被害をうけた、とは言い難くなった。

本当に、知性を総動員して、社会から反知性主義を切り離して良いのだろうか?それが知性のなすべきことだろうか?

日本の反・反知性主義者たちの肖像

さて、長くなったが、ようやく現代に帰ってきて、日本の反・反知性主義者に言及する準備ができた。すると実に面白く、不思議な現象が起きていたことに気づく。

日本の反知性主義』の中で、内田氏や白井氏の言説は、むしろホフスタッターが描写している、反知性主義的なものに近い

そして、残りの著者はそれを無視し、全く関係ない「反知性主義」の描像を持ち出している。これは、そこまで反知性主義的ではない。

実は、最近になって内田氏の部分が彼のホームページ上で公開されたようだ。この部分はみなさんも無料で読めるため、まずここから引こう。

内田氏は、文章の中で、自己肯定的かつ素朴な身体知や、その長期的な社会的協同を「知性」と呼び、エビデンス、客観的証拠重視というアカデミアの基本、懐疑的・科学的な姿勢を「反知性主義」とよんでいる。これを確認しよう。

「日本の反知性主義」というタイトルはリチャード・ホーフスタッターの名著『アメリカの反知性主義』から借りた。この書物の中で、ホーフスタッターは、アメリカ社会は建国のときから現在に至るまで、知性に対する憎悪という、語られることの少ない情念を伏流させてきており、それは間歇的に噴出してそのたびに社会に深い対立と暴力を生み出してきたという大胆な知見を語った。急いで付言しなければならないが、ホーフスタッターはこれを単純な「知識人対大衆」の二元論として語ったわけではない。                    「反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいだく人々によって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人々であり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。」(リチャード・ホーフスタッタ-、『アメリカの反知性主義』、田村哲夫訳、みすず書房、2003年、19頁)

このように、ホフスタッターの書物を念頭に置いていることをまず述べる。だが、これ以降、むしろ真逆のことをいい始める。

他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。                                

情緒と身体知による判断を身に着けている人間が知性的、だとしているが、知性に対する情緒や身体知の優越を唱えるのは、まさにホフスタッターが描写した、反知性主義の現れではないのだろうか?知性を、枠組みを疑う能力と扱うホフスタッターの描像とは全く違う。

反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。                                                                                                            

データやエビデンスや統計数値を聞かされた時、「気持ちが晴れるか」「開放感を覚えるか」などという情緒を持ち出すのは、反知性主義的発想にしか思えない。

反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。彼らはそれにしか興味がない。だから、彼らは少し時間をかけて調べれば簡単にばれる嘘をつき、根拠に乏しいデータや一義的な解釈になじまない事例を自説のために駆使することを厭わない。 

内田氏は論争的な態度が反知性主義的だとする。だが、論争的なだけで「威圧すること」に彼らが熱中している、反知性主義だと切り捨てるのは根拠がないし、「少し時間をかけて調べれば簡単にばれる嘘」「データの根拠」などを批判するには、論争するしかないのではないか?

「われわれが『科学的客観性』と呼んでいるものは、科学者の個人的な不党派性の産物ではない。そうではなくて科学的方法の社会的あるいは公共的性格(social or public character of scientific method)の産物なのである。そして、科学者の個人的な不党派性は(仮にそのようなものが存在するとしてだが)この社会的あるいは制度的に構築された科学的客観性の成果なのであって、その起源ではない。」(Ibid., p.220)
「科学および的客観性はひとりひとりの科学者の『客観的』たらんとする個人的努力に由来するものではない(由来するはずもない)。そうではなくて、多くの科学者たちの友好的-敵対的な協働に(friendly-hostile co-operation of many scientist)由来するのである。」(Ibid., p.217,強調はポパー)
 私はポパーが「科学」について述べたことは「知性」についてもそのまま準用できるだろうと思う。科学の場合と同じく、知性が知性的でありうるのは、それが「社会的あるいは公共的性格」を持つときだけである。個人がいかほど「知性的であろう」と念じても、人は知性的であることはできない。知性は「社会的あるいは公共的な」かたちでしか構築されないし、機能もしない。

また、科学的懐疑主義に関する描写もいよいよ奇妙だ。氏は、科学的客観性が専門家コミュニティの相互批判で成立するというポパーの言説を元に、個人が知性的であろうとするのは不可能だと断定する。だがこれもおかしい。もちろん、科学的懐疑主義のための「客観性」は個人では担保できない。だが専門家同士は何をやってもいいわけではなく、お互いの「客観性」を提出し、それに対する相互批判と論争が必要だ。個人の科学に向かう態度は重要であり、エビデンスはとくに重要視される。ただ集まれば科学的になるわけではない。これをアナロジーとして援用するなら、個人が「知性的」であろうと努力し、その証拠を提出して、それを相互批判し論争することで、はじめてコミュニティ全体が知性的になれる、という論法になるだろう。

内田氏は、しっかりとホフスタッターの『アメリカの反知性主義』を引用して言及し、その立場に「賛成」を述べている。読んでいないわけではなさそうだ。だが内容と明らかに矛盾している。これは「少し時間をかけて調べれば」分かる話だ。

その後も、非常に様々なトピックについて自由に語り、自分なりの知性の定義と、「反知性主義」の描像を述べる。だがそれらは、ホフスタッターの描像とは逆に、身体知や社会、民衆の素朴な集合知への、長期的なレベルでの信仰、そして現在的、進歩的知性の全否定というべき、保守的、かつ反知性主義的態度を「知性」と名付け、それに疑いを投げかける知性を「反知性主義」と名付けている。しかも独断的に。とはいえ、その語り口は散漫で非論理的だが、科学から歴史、学生指導の経験など、いろいろな対象を縦横無尽に扱っていて、読んでみると中々に面白い。そして結局、時代が悪い、政権が悪い、という感じで終わる。解決策は示されない。主題は、「知性」「反知性主義」の定義を逆転しようとすることだけのようだ。

これでは、ホフスタッターが描写した、反知性主義的な知識人のうち、「大覚醒」を牽引した伝道師、まさにそのものではないか。悪質なパロディかなにかだろうか。

奇妙だ。非常に奇妙な逆転現象と言える。この背後には何があるのか?

反知性主義的発想が直ちに悪い、と言いたいわけではない。ホフスタッターの言う意味での、反知性主義を完全に避けることは難しいのは事実だ。だが、反知性主義を批判する名目で、その根拠として引いた本の中にある、まさにそのとおりの反知性主義的なふるまいをして知性だと断言することに、何の意味がある?

続く白井氏の寄稿は、ここまで奇妙ではなく、むしろ単純だ。反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴という副題である。彼が想定する反知性主義とは何か。いきなり次のように述べている。

リチャード・ホーフスタッターによる古典的名著『アメリカの反知性主義』によれば、反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人々にたいする憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」とされる。私はこの一般的な定義に同意するが、ここでポイントとなっているのは、反知性主義は積極的に攻撃的な原理であるということだ。                                                                                                 『日本の反知性主義』p.67

まあ、一番素朴な意味での、知的生き方の価値を矮小化する傾向を反知性主義とよんでいるようだ。

そして、現代の反知性主義は、ポストフォーディズムあるいはネオリベラリズム、そしてグローバリズムと民主政の帰結だ、とされる。

これに関する説明は記述が微妙だ。論旨を補って推論する必要がある。

ポストフォーディズムとは何か、というと、フォーディズムの後に来るものなのだが、実はこれも解釈の分れる言葉だ。フォーディズムは、自動車会社のフォード社からとられたもので、ざっくり言えば、科学的に労働を管理する側の経営者と、ただひたすら単純労働に従事する労働者の組み合わせからくる労働形態であり、現代資本主義の形態の一つだ。その後に来たポストフォーディズムは、労働者にも知的能力を鍛えそれを仕事に投入することをもとめる労働形態といえる。なぜそれが反知性主義につながりうるのか?むしろ知的能力は上昇しそうにも思える。

実は、資本主義批判の文脈で用いられるポストフォーディズムには、労働者の知的能力を全て仕事に向けることで、それを政治に割く余力を失わせる、という批判的な意味が含まれているものもある。本文中にはそれらの説明がないが、白井氏が資本主義批判に積極的である、という前提知識があれば解釈可能だ。

とはいえ、実際には、知的労働者の必要性のために、広く公教育や高等教育がなされ、可処分所得や余暇も増大するため、フォーディズム段階よりは全体の政治参加能力は高まる、というのが現在の主流な理解だと思う。白井氏もこれは多分理解しているのだろう、やや論調は微妙だ。

もうひとつ、グローバリズムのせいで、賢い労働者は海外から導入すればよくなった、これにより自国民の教育に積極的ではなくなった、これが反知性主義の原因だ、とする。世界的に見れば、あるいはあり得るかもしれない。だが、少なくともこれを日本の反知性主義の説明に持ち出すのはおかしいだろう。当時、日本にそこまで大規模に知的高技能労働者が流入していた、その前提の教育システムだった、という描像は疑わしいし、現在においてもそうだ。

結局、この二つは根拠としておかしい。「反知性主義の世界的文脈と日本的特徴」というテーマ、そして資本主義批判の文脈をつなぎ合わせようとした、という意図は読み取れるが。

本題として、ネオリベラリズムによる階層分裂と、それを利用する政権という描像が語られる。多分、白井氏の本題はこれだ。

ネオリベラリズム的イデオロギーが加速すると、経済格差を生む。それは教育格差を生む。教育をよく受けられる上流と、受けられない下層、的な分裂だ。これは、定量的にはともかく、定性的には事実だろう。

そしてこれが、民主主義と結びつくと、政権を安定化するため、下層を政権に有利なように操るための、愚民政策的なものが発生、その結果として反知性主義の流行が民主主義の基本となる、日本もそうだという主張のようだ。

なるほど、この描像は直球の政権批判、民主主義批判、ネオリベラリズム批判、資本主義批判であり、事実かどうかはともかく、物語的な意味では説明に、あるいは仮説にはなっている。ただ、これを世界の民主主義国家の傾向や、日本の政治状況を説明する研究内容として発表するには、膨大な労力と大規模研究が必要だろう。白井氏がこれに成功したという話は聞かない。現段階でこれを発表するのは研究以前だ。

だが、白井氏は一連の内容に自信を持っているのだろう。この構造は、強い論調で断定的に述べている。一方、反知性主義の解決策については歯切れが悪い。

この時点では、ネオリベラリズム批判、政権批判、資本主義批判を行いたいというのが最大の目的だったのだろう。

これは、ホフスタッターが描写した、反知性主義的な知識人のうち、知性への情熱や単一の思想への傾倒により、自己懐疑の欠如したタイプだ。まあ、これは珍しいとまでは言えないし、エッセイならこんなものだろう。ホフスタッターの本を引き、反知性主義を攻撃していなければ、であるが。

白井氏は、古典的名著として引いた本をもとに反知性主義を攻撃しつつ、まさにその警告どおりの行動をしている。反知性主義そのものに対しては興味がなかったのかもしれない。この時点では。

そして、残りの著者は、この点に触れず、反知性主義と知性という枠組みに異論や懐疑を述べたり、あるいはそもそも反知性主義という言葉に触れずに、謙虚さや寛容さの重要さを述べたりする。それぞれ単独ではまあ、面白いエッセイ程度なのだが、ここまでの文脈を受けると、やはり不思議だ。明らかに、内田氏や白井氏の「反知性主義」を取り巻く言説とまったく矛盾した描像が多く示されている。というか、それらすら相互に矛盾している。

相互批判はない。お互いの世界観に直接言及はされていない。奇妙過ぎる混沌と静寂、かつ多様な世界観である。

この奇妙さは、私だけの感想ではあるまい。検索してみると、例えば、出版当時、評論家、翻訳家の山形浩生氏が、自身のブログにおいて、内田氏や白井氏を、この事実について、かなり激しい調子で批判していた。

山形氏の評ではどうも、この奇妙さの原因を、内田氏や白井氏の知的能力に見出しているようだ。詳細に文章を読解し、彼らはホフスタッターの言説を理解せず、このようなことを書いているのだ、知能の不足、かつ反知性主義的傾向である、と断定して、切り捨てている。だが本当にそうなのだろうか?

内田氏も、白井氏も、仮にも人文系の大学教員だ。テクスト読解など日常茶飯事なのだから、いくらなんでも、単なる誤解によって、ここまで要点の文意を逆に捉えるわけがない。彼らの知能、少なくとも文章読解能力は、一般人よりずっと高いはずだ。

一応、山形氏は不誠実さによる曲解の可能性も提示する。だが、不誠実だけでは説明がつかない。そんなことをして何の利益があるのか?何らかの明確な意図、目的をもって、あえてこのような書き方をしていると考えるのが妥当だろう。その意図はなにか。

ここからは、完全に当て推量するしかない。私は以下のように考える。

まず、内田氏らは、読者層の想定を行い、彼らの需要に答えている。

想定されている読者とは誰か。その需要とはなにか。

それは、ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』を読んでおらず、しかし、その書名に対して権威は感じる読者だ。反知性主義が問題だ、といえばそれを無批判に受け入れ、残りの独断的論説も、受け入れる読者だ本書を読んで、批判のために引用先にあたることはしない読者だ。ホフスタッターの要求するような、知性の追求には耐えられない読者だ。それなのに、知性的でありたい、そのために「反知性主義者」なるものを批判したいという欲求を持つ読者だ。

これは、彼らを楽しませ、知性への情熱などは要求せず、反知性主義を理解し、対抗している気分だけを提供する商品だ。

実際、山形氏の批判を受けても、彼らの論客、著述家としての地位は、全く衰えていない。著作はこれ以降も人気だ。山形氏の批判に対する応答や、他の著者らからの内田氏、白井氏にたいする批判は、全くといっていいほど無かったようだ。まあ、それも無理はない。そもそも、そういう商売なのだ、批判なんか野暮だ、彼らはそう思ったに違いない。

現代日本の公論において、批判に真摯に応答するなど、意味がない。行う利益がない。誰かを批判する明確な利益があるとしたら、敵対する相手を攻撃する手段として用いる場合だが、それもあくまで客を満足させるために行われるものであり、批判によって、世論を変更することは、まずできないし、そもそも、そんなことは、ほぼ誰も目的にはしていないのだ。批判に応答するのは、論争を客が求めた時。それだけの話だ。

知を追求するために、相互批判に参加するのは、これらとは全く関係なく、知的でありたい人間だけだ。真に知性への情熱を持っている人間とも言えるが、そんな人間はごく少数派だ。無視して良い。

安倍政権批判が、安倍政権の存続に何ら影響を与えなかったのも、まったく同じ原因である。批判など、単に無視すれば良い。それでも客がついてくれば、政権だろうと、知識人としての地位だろうと、全く揺るがない。

さて、反・反知性主義とは一体何者か、見えてきた。二つに分類できる。

まず一つ目は、この構造に安住し、知性を身につける本気の努力は全くしたくないが、反知性主義を批判した気分にはなりたい人々と、彼らの欲求を満たすためだけの目的で作文する知識人の集合体だ。反・反知性趣味者とでも呼ぼう。反知性主義者としてはおとなしく、それを市場や、相互承認によって支えているに過ぎない。まあ、そこまで有害ではない。

これは当然、自民党政権を批判する側だけにいる存在ではない。彼らの愚かさを批判して溜飲を下げ、賢くなった気になりたい人間の中にもまた、反・反知性趣味者はいくらでも存在する。想定し、攻撃の対象としている「反知性主義者」の肖像が違うだけだ。というか、それは事実上なんでもよい。政治とも学問とも本質的に関係なく、自由に作文できる。

二つ目は、意識的か、無意識かはともかく、単なる趣味を超えて、反知性主義と認定したものを憎み、知能と知性を総動員してそれを公論から排除する言説を構成し、読者すらときに騙して、目論見を実行しようとする、本当の意味での反・反知性主義者だ。

『日本の反知性主義』の著者たちの中で、現在、この意味での反・反知性主義者の疑いがあるのは白井氏だ。もしかしたら、一つ目に参加しているうちに、これを内面化してしまうのかもしれない。白井氏が制限選挙論を提唱したのも、『日本の反知性主義』に寄稿した後のことだ。

結論が出なかった反知性主義への「対抗策」として、この後、制限選挙論にたどり着いたことを考えると、「反知性主義者」という対象と、自身の打倒したい社会構造を結びつけた本論考が、後の自身に影響を与えている。

知性の欠如そのものへの憎悪や侮蔑を内面化し、好きな歌手であろうが、自身の定義する知性に達していないと見るや、悪感情をむきだしにし、暴言を吐くようになった。知性の欠如した人間を公的意思決定から排除可能な政治思想を考案し、そのことに対する批判には、本質的には決して応答しない。だが、居場所はある。反・反知性趣味者に趣味を提供している間は、彼らに包摂され、その一員として活動できるからだ。そのためには、反知性主義的主張をし、客受けを狙うことすら厭わない。客受けに徹しているように見えて、自身の独断的主張を滑り込ませている。

どちらに属する知識人も、外形の振る舞いは似ている。彼らは読者の知能と知性を侮っているが、需要にはしっかりと答えている。攻撃対象の「反知性主義者」の肖像を用意し、これを攻撃するための言説、論理を補強する様々な過去の知識、現在の知識、それに関わる権威をあたえる存在だ。

引用先と矛盾している言説を述べようが、この需要に答える限りは、自分たちの地位が揺るぎない、と理解しているのであろう。

この共同作業を支える思想こそ、反・反知性主義と呼ぶべき総体である。

反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴としての反・反知性主義

さて、だが、私は反・反知性主義を徹底批判しよう、糾弾しようとは全く思わない。

そんなことをしても無駄だ、というのもあるが、彼らに対しては同情できる部分が大きいからだ。とくに、反・反知性趣味者たちに関しては、完全な免責が必要だ、と思っている。

なぜ彼らは、対して求めてもいないであろう知性を追求するふり、持っているふりまでして、「反知性主義者」を叩かなければいけないのか。他人を罵倒するのが趣味として面白いから?まあ、それも無いとは言えない。しかしそれにしては複雑すぎるし、実名で行うには危険も大きい趣味だ。他の目的があるはずだ。

対象をなんとかして排除したい、というだけでは説明がつかない。排除のためにはあまり有効とは言えないし、出来ていない。順序が逆だ。知性があるふりをしなければいけないから、知性が欠如しているとされる相手を攻撃し、それを示していると考えるのが妥当だろう。

知性の他に「よく生きる方法」が提示されないまま、世界中で、知能や知性が、社会道徳の必要条件となってしまったから、知性の欠如が悪と直結されるようになったから、「反知性主義者」を攻撃し、知性を示そうと努力している。それだけではないだろうか。

そう、現代、とくに一部先進国は、アメリカの反知性主義が生まれた原因、ピューリタンの原理主義社会とそれへの不満という描像に近づきつつある。いや、日本においては、そこから別の信仰という可能性がほとんど消え去っているだけ、むしろ危険は大きい。

知能や知性を身につけるのは難しいのに、これを身に付けないと道徳的だとか、人格者だという社会的保証が得られない。現代においては、強さとか優しさといった徳のためにすら、知能や知性が必要とされつつある。まだそれは外部から強制される社会道徳の段階といえるが、段々と一部の個人には内面化されつつある。

敬虔さ、情緒、身体感覚は知性より大事だ、とか大真面目にいうと、権威ある知識人社会から馬鹿にされたり、無視されるだけで終わるため、これは本当の「知性」なのだと強弁して、知性ではないものを頑張って持ってこようとしているにすぎない。

この状況を作り出した原因は、間違いなく知識人の側、知能と知性を持った人々の側にある。

ホフスタッターの描像は、どこまで行っても、知識人の、知識人による、知識人のための、知性に対する洞察であった。それが悪いわけではない。知性を追求したい人にとっては役に立つ。だが、そうでない人々にとっては何のビジョンも示さない。

いや、ホフスタッター以降も、誰もまともに示せていないと言っても過言ではあるまい。知識人は、知的になるためにはどうするか、世界中の人々をより知的にするためにはどうするか、それだけを考え続けてきた。

そうなれない人、なりたくない人が、道徳的であるという認定を得られる、社会的道筋を示せなかった。

ゆえに逆に、社会における知性と道徳の結びつきそのものが攻撃されるというバックラッシュ、「大覚醒」が先進国を中心に発生している。これが、ホフスタッターの描像を継承した上での、現代の「反知性主義」の理解として、最も妥当ではないか。

それでも、宗教界や、共同体や国家への素朴な情熱が、まだ完全に死んでいない地域においては、「大覚醒」の向かいどころはある。これを詳しく描写するのは筆力を超えるし冗長なので避けよう。

だが、日本においては、それらも大きく破壊してしまった。だからこそ、「大覚醒」の向かいどころは、いびつで奇妙なものになる。その一つが、知性の名を簒奪し、「反知性主義者」を攻撃する、反・反知性主義の流行である。

彼らは、「反知性主義者」を糾弾して嘲笑うという、全くの反知性主義的な行為に、しかし簡単に知性への信仰の証しをたてられるとされている行為に参加させられている。異端者に石をぶつけることで、異端ではないと示す、宗教儀式を強要されているようなものではないか。しかも、牽引しているのは他ならぬ知識人たちだ。

この観点から言えば、内田氏の作文は、身体知や直観、人間社会の反知性主義的側面、社会への素朴な信頼を擁護し、知性や科学的懐疑主義の攻撃に反撃する目的が読み取れるだけ、かなりマシだ。そして、社会の要請による知性の追求に疲れている現代人の肌感覚に寄り添った内容と言えよう。科学的懐疑主義や相互批判的なものに、日常生活の中で常に巻き込まれるのは、一般人にとっては当然嫌だろう。ムカつく、自分の直観や身体知を優先したい、という素朴な気持ちは理解できるし、妥当だ。

もちろんそれは知性ではないし、少なくともホフスタッターの言っていることとは関係ない、むしろ逆に反知性主義的だが、その矛盾を除けば、見るべき内容に思われる。なぜそれをわざわざ知性と呼ぶのか。知性以外に、もはや個人の人格、徳目を社会的権威により擁護できる一般的な概念が存在しないからではないか。

こう考えると、時代が生み出した悲痛なパロディにも見えてくる。

これに関して個人を責めるのは酷であり、構造的な問題だ。

強いて言うなら、堂々と、反知性主義は悪いものではない、と述べていただきたいものであるが。

共産主義・権威主義・反知性主義:無視されたバクーニンの警告

しかし、反・反知性主義を、知性を示すための儀式を超えて内面化し、その積極的提唱者となってしまった、真の意味での反・反知性主義者に関しては、批判を避けるというわけにはいくまい。

彼らは、仮に権力を奪取したら、本気で反知性主義の芽を叩き潰すことが客観的に、科学的に、正しいと思っているかのような発言する。

もちろん、そう夢想する事自体は自由だ。だが、そのような言説は、知識や知性に対する信用を毀損し、反知識人の風潮、そして反知性主義をむしろ誘発する。これにさらに怒り、思想や言動が過激化していけば、公論における知の価値自体が損なわれていく。

とくに、政治と、反知性主義的な行動をめぐる見解に矛盾が発生することは明らかだ。

白井氏にはこの傾向がある。一方は「公民権の不正受給」論だが、もう一方が現れているのが、彼の最新の著作『武器としての「資本論」』だ。これは、現代的な観点から、マルクスの「資本論」の骨子を抜き出し、現代的な例を引いて、平易な説明が試みられている。

内容としては、マルクス経済学者の宇野弘蔵や、批評家の柄谷行人など特定の学者の影響を受けているようで、単純な資本論解説というよりは、現代的、かつ白井氏自身の資本主義理解の立場を示している、と言って良い。とはいえ、その部分はそこまで特殊とはいい難い。

だが最後に、彼は、結局、現状の変更には、生活レベル低下への不満のような、素朴な感性が重要である、と結論する。

生活レベルの低下に耐えられるのか、それとも耐えられないのか。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、実はそこに階級闘争の原点があるのではないかと感じます。                                                                                                      『武器としての「資本論」』より引用

他にも、人間の基礎的価値を取り戻すためには、もっと贅沢をしていいはずだとか、もっと豊かでいたいとまず確信することによって、資本主義の内面化を逃れ、これを疑うことが重要だ、とする。

実に、反知性主義的な結論ではないか。

一応言っておくと、これは別段、突飛な描像ではない。賃上げや労働者の待遇改善は、ストライキや労働交渉を行わないと上手く行かない、という説は有力だし、そのために感情や感性といったものは重要なファクターになりうるだろう。政治を動かすのも、しばし、合理性と言うより突発的感情だ。この部分が悪いとは思わない。資本論の文脈を離れても、一般に、現状変更のために第一に重要なのは感情だ。利益に対する不満によって団結する、という選択肢を持つことはたしかに重要であり、この提言は、その発想すらなかった人々にとっては価値がある、と思う。

だが、民主主義への参加条件に、知性や知識を持ち出す人間の発言だと考えると、話は違ってくる。彼は、自分の政治主張に都合のいい反知性主義は感性などと言って称賛し、そうでない物に対しては、グローバリズム、ポストフォーディズム、ネオリベラリズム、愚民政策などが原因の悪しき反知性主義だと断定し、その排除のため制限選挙論すら提案し、「公民権の不正受給」などとラベリングする人間だ。

彼自身の論理矛盾や一貫性の欠如などは、この際どうでもいい。彼を思想家として支持している人間は、これを理解しているのか?公論で彼の意見を聴く人間は、背後にある思想を認識しているのか?彼を批判せず、気鋭の思想家として紹介する論壇は、周囲からどう見られるか自覚しているのか?いや、そんなことはどうでもいいのだろう。単なる反・反知性趣味だからだ

認識が欠如していただけの人間は、よく考えたほうがいい。良い提言をしている仲間だ、と思うからといって、その人の言説の悪い部分を批判しないでつきあうことは、言論の価値自体を損なう。知性の社会的使いみちである相互批判とは、第一に別の知性に対して、信用のある間柄で行うのが最も有効だ。「反知性主義」に一方的に向けて鬱憤を晴らしても意味はない。『日本の反知性主義』への批判があったとき、内部でもしっかりと批判を行っておけば。制限選挙論を述べたり、今回の暴言につながることはなかったのではないか。

あるいはそうではなく、本気で自分たちが、感性をもって体制を破壊した後、知性を基準に他人の権利を制限する側に回りたい、そうする権利がある、そう見られても構わないと感性によって確信しているなら、もはやどうしようもないが。

これでは、資本主義の内面化ではなく、マルクス経済の内面化だ。共産主義の前段階、プロレタリア独裁には、この側面がある。体制移行の描像は様々だが、結局は労働者の代表である知識人の存在と、彼らによる他の労働者の支配、そして他の階級の支配を目論む。知識人による、反知性主義を動員した、肖像化した敵としての「反知性主義」への勝利の描像がある。これを貫徹するつもりがあるかはともかく、白井氏の発言からは、強い影響が読み取れる。

だが、果たして、彼らに届く批判の方法はあるだろうか?失敗例なら歴史から学べる。

実は、この傾向を批判し、反知性主義を擁護する論理は、アメリカ民主主義史において名付けられるよりずっと前、共産主義の萌芽となる議論においても、すでに出現している。

それが、ロシアの思想家、無政府主義者、革命家のミハイル・バクーニンによるマルクス主義批判だ。

バクーニンはロシア帝国貴族に生まれるが、軍属の後に哲学を学んだ後、共産主義革命に共鳴した人物だ。数多くの運動を組織し、マルクスもその知を認め、有能な指導者の一人とみなしている。

バクーニンも、マルクスを経済学者としては認め、天才と称賛した。だが、その政治的立場、プロレタリア独裁に対しては強固な批判を展開した。それが、知の権威化、そして知と権力の一体化に対する反対の立場だ。彼は、マルクスら主流派を権威主義派とよんで批判した。

バクーニンは、いくつかの著述や書簡において、一貫して、知識を身につけたエリートは、公権力を持たず、要職につかずに、ただ影響力を及ぼす立場にとどまるべきだと主張。革命はあくまで全ての民衆のものであるべきで、一部のエリートである革命家に権力が集中すれば、ロシア帝国時代を超えた最悪の独裁につながると批判した。

彼の言う、影響力権力の違いとは何か。

エリートが影響力をもつとは、知識、すなわち民衆の政治判断の根拠となる様々な材料を与え、民衆自身が判断を行い、権力を行使する助けになれる、ということだ。この場合、エリートは民衆への奉仕者となる。

一方、エリートが権力をもつとは、民衆の理解や政治判断を待たず、ただ権威により支持を集め、エリート自身が直接政治判断を行い、それを民衆が実行するということだ。エリートは民衆の指導者の地位につく。そしてバクーニンは、これはそもそも共産主義の理想と完全に矛盾していると批判した。

バクーニンは上記の主張を、理想的な完全平等社会への願望から導出したと言える。ゆえに、さらにラディカルで、実現はまず不可能そうな、無政府主義革命に傾倒し、思想的には後に多くの影響を与えるも、理想の実現には失敗した。

だが、これらの立場を取らなくとも、その反知性主義的な主張には聴くべき点がある。知の権威化は危険である。知識、知能、知性は、権威や権力と結びついた時、最悪の独裁につながりうる。保守的で伝統的な権威よりずっと危険である。これは事実だ。

バクーニンを追放した共産革命運動は、様々な分派と発展を遂げながら、白井氏の研究対象であるレーニン率いるソビエト連邦へと受け継がれ、その次の指導者であるスターリンによって、「粛清」の名を借りた自国民の大量虐殺を招いた。虐殺以外にも様々な専横や文化破壊、民族弾圧など、人類史上にのこる悪行をなしたと言ってよいだろう。

スターリンの死後、後継者によって、個人崇拝批判という文脈で、スターリン批判が展開された。マルクスやレーニンは個人崇拝を禁止していたのに、スターリンがそれを破ったのが原因である、と。

もちろん、スターリン自身が独裁者の気質を持っていたことは、虐殺や専横体制の直接の原因であるから、間違った批判ではないが、これは問題発生の本質から目を背けている。

なぜ、民衆はスターリンを崇拝し、支持してしまったのか。マルクスの知性から生まれた、資本に関する知識が、マルクス主義、レーニン主義として権威化したのが原因だろう。民衆、いや下手するとソビエトの代議員すら、マルクス主義やレーニン主義の理論の中身を理解せず、ただ過去の知識人たちの権威にひれ伏しているだけなのに、科学的、客観的に正しいと考え、政治判断を手放し、独裁者に権力を与えた。まさにバクーニンの予言した通りの状況となった。

これは、スターリンだけの問題ではないし、共産主義だけの問題でもない。ただし、共産主義は原理的にこの問題を内包している、とはいえる。

資本主義の論理は、集合知に近い。全ての人間が自分で判断して、自分の所有物や労働を交換し経済活動を行い、そのために協調することで、結果的に全体が得をするような判断を行っている、と考える。もちろん、この過程で格差や、人権侵害、種々の合成の誤謬などを生み出しうるのも事実だ。格差の主な原因は所有する資本の多寡で決まるとされる。他にも様々なファクターがあるだろう。

一方、古典的なプロレタリア独裁の発想は、知の中央集権化だ。あらゆる経済活動を行うに際して裁量権があるのは中央だけであり、中央に近づけるかどうかは共産主義への理解で決まる。唯一の格差の原因は知性と知能の多寡だ。知性は、体制の理想を疑い、単なる政治闘争でしかないことを見抜くために必要だ。知能は、共産主義を理解しているように振る舞い、民衆の支持を獲得し、政治闘争に勝つために必要だ。その勝者の典型例がスターリンであり、粛清と名付けた大虐殺は、知性と知能の表れである。これが起きないと想定するには、人格者が常に闘争に勝利し、権力の椅子に座る、とでもしなければいけないが、もちろんこれはドグマ化して個人崇拝、体制崇拝に帰結するだけで、何の解決にもならない。

資本主義の格差を資本と知の中央集権化で取り除こうとしても、むしろ別の格差、知の権威化による最悪の独裁が原理的に発生しうるというバクーニンの指摘は、理論的にも正しいし、歴史的にも証明されたと言えよう。というか、これはそこまで難しい話ではない。資本論を多少なりとも真面目に読む能力があれば、必ず発生する疑義の一つと言える。

なぜバクーニンは主流派の説得に失敗したのか。主流派の知能が低く、この危険性を理解できなかったから?いや、そんなことはないだろう。少なくとも、マルクス自身がこの程度の話を理解できなかったはずはあるまい。

私はマルクス主義の研究者でもなんでもないから、学術的な正当解釈を述べることは出来ない。以下は単なる独断である。

バクーニンは、知識人の独裁に対する批判を、完全平等社会への理想、そのための倫理規範として述べた。これは、理想への情熱の発露だ。それが主流派の理想と異なっていても、妥協や交渉の余地がなく、説得に失敗し、予見していた悪夢を防げなかった。

主流派は、現状のすみやかな打破と、理論の実証という別の理想に燃え、これを拒否した。これもやはり別の理想への情熱であり、これゆえ危険性に目をつぶり、急造した体制は最悪の独裁をもたらし、自らの理想を裏切り、理想の名を汚す結果となった。

まさに、知性への情熱、単一の思想への傾倒、勉学から受けた先入観、正義や秩序を求める情熱からくる、知性の欠如が原因ではないか。

ホフスタッターの言うとおりの、知能と知識に優れながら、知性とのバランスを欠いた、知識人の反知性主義、その結末と言える。

この過去の事例は、現代とはかなり異なる。

かつて知識人は、権力と影響力を選べる立場にあった。大衆は素朴かつ反知性主義が欠如しており、直観的に知識人を信じたからだ。

現代の日本人は、しっかりと反知性主義で武装している。ゆえに、知識人には権力も影響力も欠如している。別にそのままでも構わないが、もし本気でこれらを得たいなら、他者を批判するより自己批判、同じ界隈にいる知識人同士の相互批判が先ではないだろうか。

反・反知性主義の永続敗戦/革命論

白井氏は、戦後日本を総括したとする著書、『永続敗戦論』も執筆している。たとえば、書籍紹介では以下のような描像を語る。

「永続敗戦」それは戦後日本のレジームの核心的本質であり、「敗戦の否認」を意味する。国内およびアジアに対しては敗北を否認することによって「神州不滅」の神話を維持しながら、自らを容認し支えてくれる米国に対しては盲従を続ける。敗戦を否認するがゆえに敗北が際限なく続く――それが「永続敗戦」という概念の指し示す構造である。今日、この構造は明らかな破綻に瀕している。

彼は本書の中で、日本は大義も勝利の可能性もなかった戦争を始めたことの責任を誰も取らず、敗戦すら否認するがゆえに敗北が際限なく続く、ゆえに戦後日本は敗け続けていると断じた。よくある「戦後日本論」ではあるが、昨今の人文書としては異例の7万部を突破した。

だが、人間というものは、国家戦後日本といった、抽象化・他者化した対象に「自己批判」の目を向けることは出来ているようで、それを本当に一般化して、自らの教訓とすることは全くの不得手である。

実際、白井氏を始めとする、反・反知性主義者も、似たような構造の中で負け続けている。

これを、例えば以下のように、徹底的かつ攻撃的に「糾弾」することもできよう。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

まず、民主主義においては、反・反知性主義が「勝つ」ことは決してありえない。勝利の可能性は、はじめからゼロだった。反知性主義は民主主義と一体化しており、反知性主義を求める情動は民衆の本能である。これを理解できない人間は知能と知性が欠如している。

そう、反・反知性主義者は、倫理ではなく、単に知能と知性が欠けていたから、無謀なる戦争に全力を投じ、むしろ敵を利し、大義すら見失っていった。そして敗北すら認めないため、延々と負け続けている。

とはいえ、まだ勝利の目はある。それは、敗北を認め、現在の戦争の継続に勝利の可能性がないことを認め、別の戦略目標をたてることだ。

反知性主義は、知性の倒すべき敵ではない。知識人が、知能と知性を用いて奉仕すべき対象であり、罵倒したり切断していい相手ではない。

この認識を拒否し、民主主義の理想を否定してでも、反知性主義を切り捨てようと提案する知識人こそ、民主主義の敵、民主主義の破壊者にほかならない。それでいて、他者をそう罵倒する、誠に奇妙な存在と言える。

民主主義は、国家は、あくまで全ての民衆のものであるべきで、知能の高い人間、知識の多い人間に権力が集中すれば、民主主義の腐敗を超えた最悪の独裁につながる。

繰り返す。その戦争には大義も勝利の可能性も存在しない。敗北を認め、方針を転換せよ。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

さて、上記の「糾弾」を誰かが公論上で行ったとして、反・反知性主義者たちは聞き入れてくれるだろうか?残念ながら、望みは薄い。

まあ、攻撃的に過ぎるし、何より受け入れる動機がない。彼らにとって知性も民主主義の理想も攻撃のお題目で、実際にはどうでもいい可能性は高い。単に自分の知識と知能の権威化による独裁と理想社会の建設をしたがっているだけだとしたら、反知性主義者、独裁者になるぞ、という批判は、脅しにもならない。バクーニンの警告が無視されたのと同じだ。

白井氏自身は、どうやらもはや勝利の可能性は低そうだから、方針転換する可能性はあるかもしれない。

だがむしろ問題は、もっと知能と知性に優れ、より深く反知性主義を憎悪しながら、それを表に出さず、社会に受け入れられている、様々の隠れ反・反知性主義者にとって、勝利の可能性はまだ消えていないことだろう。

居ないはずがない。人間の思想にそこまでオリジナリティなど無いし、いくらでも学ぶことは可能だ。同じようなことを考える人間は、社会にいくらでもいるはずだ。普段は見えないが、知性の欠如した人間への侮蔑や憎悪という形で、それはときおり垣間見える。単なる感情だけなら害はない。だが、権威や権力と結びついた時、そして、問題解決のためには「反知性主義者」を排除することが必要だと考えた時。何が起きるだろうか。

白井氏の『永続敗戦論』というタイトルは、革命家トロツキーの著書、『永続革命論』のもじりだろう。内容を軽く読んでも、両者の「永続性」の使い方について、関係は見出しづらい。だが、事ここに及んで、奇妙な一致と不一致を見せている。

敗戦は、否認しようがしまいが、無慈悲に訪れる。それは明らかな歴史の審判、ターニング・ポイントである。議論は、敗北から何かを学べるか、学ぶべきかで発生する。これも難しい問題ではある。だが、少なくとも、敗北そのものは、議論の余地なく明らかだ。敗戦を認めない、というのは修辞学の領域の話である。

革命の失敗は、認めさえしなければ、否認し続けられてしまう。体制が存在している限り。一時の敗北は、さらなる理想の追求のための雌伏であり、真なる勝利に向けて、耐え続けられる。どこに、社会と、人間の中の反知性主義に本気で向き合う動機があるのだろうか?切断し、叩き潰すことを夢想するのは、自然な情動だ。永遠に敗北を認めないことは、原理的に可能だ。

私はこれも、特段責めようとは思わない。人間、動機がないことはやらない。利益がなさそうなことはやらない。当たり前のことだ。

だが、だからこそ現状変更は不可能であり、反知性主義は常に勝利し、その勝利はいまだ永遠である。これから潮目が変わって押し戻したように見えても、再び敗北と「大覚醒」の時は来る。その繰り返しは、確かに反知性主義の勝利と言えよう。だが逆に、知性が完全勝利したなら、独裁の到来だ。それは良い社会だろうか?少なくとも、私にとっては反知性主義のほうがずっとマシなように思える。

もし、本当の意味で、この現状を変更したい場合には、戦争ではなく和平が必要ではないだろうか。

この方向を求める人間が真剣に考えるべきは、知性によって攻撃にさらされてきた、知性以外の価値についてだ。それは「反知性主義」では足りない。それは知性に寄りかかっている概念だから、対立の中でどうしても関係はいびつになる。この旗印での団結は難しいし、やはり社会を破壊しうることも確かだ。知性の暴走を抑止するためにはとりあえず必要そうだが、あくまで、独立し、社会の基本を担うに足る存在として、再構築することが必要だ。

これを探り当て、その社会的権威を復活させ、知性に対抗できるまでに育てることが、いびつな反知性主義、反・反知性主義という「大覚醒」の波を唯一、知性によって防止できる方法だろう。

反知性主義のもととなっている情動を、知性より情緒を優先したいという情熱を、知性によって擁護するべきである。

その情熱の向かう先にあるものを敵として叩き潰しても、それは別のものに向かうだけで、何の意味もない。

ただし、情緒こそが真の知性である、逆らう人間は反知性主義者だ、という薄っぺらい詐術を用いてはならない。それはあまりに説得力に欠け、すぐ摩耗し、蒸発してしまう論理だ。歴史の審判どころか、一度の辛辣な批判にすら耐えられない。

知性以外にも、人間は良いものを、情緒を持っているはずだ。それは一見、知性と対立するように見えるが、和解は不可能ではない。だがまずそのためには、知性の側が歴史の長きにわたる攻撃を停止し、反知性主義的なものに、譲歩するところから始めるしかない。

自然な情緒を悪とし、これを知性によって締め付けようとする文化は、キリスト教圏に特徴的な発想、だったはずだが、いつの間にか世界中にはびこって、特定の人々の中に内面化され、自明視されつつあるのではないだろうか。日本社会を覆うまでは行っていない。それは悪いことではなく、むしろこれからが危険だ。気づかずに内面化している人は、思い直したほうがいい。

ごく公平な評価を下すとしても、自然な情緒と同じくらい、優れた知性は悪を為してきた。次はそうでないとなぜ言えるのか。この危惧を知性への信仰などでごまかすのは、まさに知性の欠如にほかならない。

現代においても、知性の自己懐疑は全くの不足だ。ホフスタッターの描像は知性や知識人に対してそれなりに厳しいように見えて、楽観的に過ぎた。知識人はこれを読んで喝采し、自己批判できた気になっていただけである。

知性など所詮、その程度のものだ。ゆえに、民主主義の統治者の座につくには流石に未熟すぎる。

知性が、全方位攻撃の緩和と、別の社会道徳への道筋を再建することが、知性の民主主義への真なる参加のために、最低限必要な条件だ。

これを行ってはじめて、知性は、民主主義において一定の地位を確立、知識人の理想社会へ献策も、多少は受け入れられる土壌がうまれるだろう。そうすれば、反知性主義を憎み、弾圧しようとする反・反知性主義者も、真面目に一歩一歩、社会を良くしようと協調してくれるかもしれない。

それまでは、他人の知性に対して真面目に取り合うのは危険だ。少なくとも盲信するくらいなら、遊び心を用いて適当に茶化したほうがはるかにマシだ。

拒否するのは無論、自由だ。戦争や革命、趣味を継続するのも自由、構造自体の否認も自由である。だが、その自由の先に一体何があるというのか、今までの歴史で何があったのか、もう一度考えていただきたい。


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