2020

バタバタと大掃除をして、田舎に帰る。8日間あちこち回って、Twitterを見る暇もなく、今年はかなり慌ただしく新年を迎えた。

うちの家族はわたし以外、とても背が高い人たちなので、そうなるだろうなとは思っていたのだけど、姪っ子が大阪ツアーで見た時よりずっと大きくなっていた。

わたしはあんまり子供が得意じゃなかったので、昔、苦手克服!と、思い切って児童館で働いてみたことがある。
当時ちびっこが見せてくれるバナナ虫、バナナ虫を30分間探し続けるその背中にショックを受けて、汚れてしまった…と落ち込んだものだ。

今なら平然とパチンコも打てる。大人には大人のバナナ虫がある。
一年で目を見張るほどの成長を遂げる子供達に、たくさんの感動をもらった。
毎日子供と触れ合う中で、初めて、子供の歌詞を書きたいと思った。

話は戻って、まだまだ人間味のないあまりに頼りない姪っ子は、見てておもしろかったけど、やっぱりどう接して良いかわからなかった。

ようやく寝入った姪っ子が目を覚さないように、
お茶の間も絶対に笑ってはいけない大晦日を過ごした。
松ちゃんのボケに耳をすましたこの日を多分私は一生忘れることがないと思う。

静かなお正月。

元旦、中学の同級生のお家がやっている神社へ、初詣に出かけた。
ほぼ毎年初詣に家族で行くのだけど、もう何年ぶりか思い出せないくらいに彼に会った。同じ陸上部で凌ぎを削った同志。

自転車で世界中を走り回っていると聞いた。
この十数年で見てきた景色の違いを思う。

死ぬまでに色んなものを見てみたいと、子供の頃よく思っていた。
写真集やテレビで観る世界の絶景、見たことのないものを見ずに死ぬことが怖かった。

私歌を歌いたい人だ!と認識してからは、世界に行くのにも、MVの撮影で、海外ツアーで、など、心の中でこっそり、生きること全てにずっと音楽がくっついてきた。
生きることは、音楽をすることだった。大袈裟ではなく、肩の力を抜いたとしても、そうだった。それ以外の自分は想像できなくて、きっと死ぬんだろうと思った。なのに、いつだって誰かに分かってもらうために理由が必要な気がした。

昔恋人に、「意外と好きなものあるんだね」と言われた。
この言葉は長年私を苦しめることになる。
その時はなんだか誇らしげな顔をした気がするけど、じわじわと悲しくなった。

周りが進路を考え出す頃、「本当は何がしたいの?」と聞かれて、「子供の頃からバンドがしたくて東京にきた。音楽がしたい」と顔を赤くしながら答えた。
否定されたくなくて言えなかったこと、自分のやりたいことを人に説明しなきゃいけないこと、すごくストレスだった。
親みたいだった。泣きそうになりながら言って、彼も怒ったように聞いていた。

音楽って何。中学生の私はメモを取りながら考えたことがある。好きなミュージシャンの言葉、とにかく音楽雑誌を読み漁った。一番しっくりきたのは、ロッキンオンジャパンの読者投稿の欄だった。
おぼろげで申し訳ないのだけど、病院で友人を看取った話だったと思う。
(実家に帰る度にその号を持って帰ろうとするのだけど、毎回気持ち悪くなってやめる)

心臓はリズムを刻み、人が動くことで生まれる音も、死んだら無音になる、彼の鳴らす音楽がもう聞けない。生きてることは音楽だった、と。

死生観も相まって、中学生の私は答えをもらったような気がした。

どうして何もかもに説明がいるのだろう。説明がなくちゃいけないんだろう。私の心臓は動き続けて、発する言葉には音があって、動く度に空気を震わせるのに。

何かを言いたいわけじゃないんだけど、最近昔のことをよく思い出すんです。バンドのHPでこれからについてご報告をしたとき、ハローエンドロールを続けると思う、っていうのはそういう感じ。

1月30日のライブを に角すいのなつみさんが観に来てくれて、
Twitterで『音楽はわたしたちのライフワークだから、ライフだから時間とともに形は変わるもの』と、瑞貴萌々子私による、最後のハローエンドロールを惜しんでくれた。『音楽は、わたしたちの、ライフワークだから』という、まっすぐな言葉にものすごくハッとして、私たち、と言ってくれて嬉しかった。ずっと欲しかったし、言いたかった言葉な気がする。

私にはちゃんと好きなことがあって、それは誰にも説明しなくていいはずの、自分の力で見つけ切った宝物みたいなもの、命のように尊く、そして同時にどうでもいいことだ。

きっと今も昔も、頼りなくて、目に余るのだとしても、顔を赤らめなくても自分の人生を話せるようになるといいなぁと思う。

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