言葉は嘘をはらんでいる

話したいこと
・近況と詳細
・撮り、をやりたい

 何度も書き直しては破棄し、立ち止まり、再び書いてみては破棄をする。それを繰り返しています。言葉は嘘をはらんでいるから、書いたそばから足りないんじゃないかと、人目に触れたそばから書いてあることしか事実がないと読まれるのではと心配になるのです。
 noteの更新は久しぶりで、きっと拙い文章だけれど、今の自分には少し思い切ることが必要と考えて話したいことを書いてみます。


 本日6月28日はわたしの◯回目の誕生日です(年齢非公開)。昨年末に死を選んで、迎えるつもりはありませんでした。
 自分の価値を自分で下に追いやることが続いて、昨年のはじめ頃から年内には何もかも終わりにして、もう生活をしなくていいやと考えていました。なんとなく重たい話ですが、誰でも抱えている程度の苦しみだと思うので、わたしが他人よりも多くの悲しみを抱えていたなどとは思わず読んでもらえたら大丈夫です。結果的にこうして生きているのですから。

 2022年の頭頃から、日を重ねるごとに人生終わりにしようという思いは膨らんでゆきました。話すことが全然できなくて中身も外側も全く好きじゃない自分であり続けるのはうんざりだし、なによりいやらしくて利己的で弱い立場の相手を踏みつけてもいいと考えてしまう大人たちと関わるのは心の底から疲れたし、小さい頃から大人は信用できないという思いを強く持ってしまったことが生きることにかなりハンデだしで、歩き続けることに疲れたようなそんな感じです。
 もし、他人がそんなことを考えていたら気持ちを否定しないくらいに止めるし、きっと「終わりにする前にわがままくらい言ってみればいい」と言うだろうと考えました。だから、自分にもそう言ってみることにしました。
 以前から進めていた映像制作のことに加えて、写真展を行ってみたり、年末に向けて映像の制作を間に合わせてみたり。それらは自分で考えて依頼して撮らせてもらって実現したものではあるけれど人を巻き込まなければいけなくて、元々他人の肖像を“自分の作品”という顔して人様に見せるなんて傲慢なんじゃないかと恐れていて、人を撮ってもなるべくその人はその人である(素敵だね)という表明だけで終わりたいです。けれど、奇跡でも起きない限り自分のためにも他人のためにもそういう恐れを乗り越えて頑張らなきゃいけないんだろうと悟りました。
 カメラを使う者としてのその「頑張る」は、他者をないがしろにしてでも自分の利になる実績をつくってより不特定多数に自分を大きく見せることができれば構わないということではなく、他者を尊重しながら関わる人に愛される写真・映像をつくらなければいけないということです。それは前々から心に留めていたことではあります。お願いをした相手とトラブルにならないようにする基本は気を付けていましたが、今でも不満を覚えさせていないか心配ではあります。もっとお金を払うべきだったかもとか、気付いていないだけで失礼で嫌なことをしてしまってはいないか、映る人は素敵なのに自分の力量が追いついてなくて誇ってもらえないものづくりをしてしまったのではないかと気がかりです(けれど、絶対にその時のベストは尽くしていたつもりだし、あえてこういう言い方をしますが、自分の作品はいつだって大事です。カメラを通して人の素敵なところが滲み出ていると思えています)。自分なりに頑張っても、その自分なりが他人にとってどうなのか心の中までは分からないということです。こういうことを言うこと自体正しいのかもわかりません。
 こんな調子で怖がりなのに色々と活動できたのは、頑張らなきゃという一歩を踏み出した気持ちがあるのと、半ば自暴自棄のなか限られた時間を意識しての行動でした。その表れか、2023年からは自分の企画というものをやっていません。頼まれて大事なMVを撮らせてもらえるなどしたので良い働きはできていると信じています。

最近機材変えてみたらめちゃきれいに撮れたから見て

 話が飛躍するようで申し訳ないんですがVtuberの月ノ美兎って知ってますか?Vtuberっていうと中の人がいる初音ミク的な感じか?という解像度低い通り越してバカだった自分が初めて触れたVの人で、おもしろいのでおすすめです。
 その月ノ美兎が「寝落ちじゃないと眠れない」と話していたことがあって、理由は記憶が消えてしまう(意識がない時間があること自体)のがこわいからだそうです。そして月ノ美兎が死を恐れる理由も似た感じで、今まで自分が積み重ねてきたことが自分の中から消えてなくなることがこわいと、そんなことを配信で話していたのを聞いた覚えがあります(その動画見つけたら追記するかも)。

似た話はこれの22:30くらいで話しているんですが、大人の自分の話としても話していたはずです

 わたしが人生終わらすぞと決めた12月31日、半ばまで実行しましたがやめました。目をつむっているのに視界が真っ暗になって(本当にそうなってびっくりした)死を近くに感じた瞬間、お祝いをしてもらった日のことが頭をよぎりました。
 その10日くらい前に、改名をしたお祝いをしてもらっていたのです。しようって言ってもらっていたけれど予定が伸びに伸びてそのまま年を越してしまいそうだったのでわたしから12月にやってほしいと頼んだものでした。適当に食事買い込んで数人でちょっとダラダラできれば良くて、わたしは会えれば嬉しいなくらいの気持ちだったのにケーキとプレゼントを買ってくれていて、ずっとずっと大事にしようと思っていた記憶なのでした。10日後くらいに死ぬつもりだったけれど。最期の方に大事な思い出ができて良かったと思ったものでした。
 こういう素敵な日の記憶も、死んだらわたしの中からは消えてしまうんだと思いました。生きるのを延長すれば、彼女たちとまた手を取り合う機会があるかもしれないのに死んだらそれごと全て無くなっちゃうのは嫌だなあとか、これまで関わってきた人とのことを思い出して立ち止まってしまいました。

 そして死なないまま2023年を迎えました。
 うまくいかないことはたくさんあるし未来は全然明るくないけれど、大好きな人から撮影依頼をもらって夢の一つを達成したり、MVを撮らせてもらったり、心の中で大切にしていた人がうちのことをまだ覚えてくれていたことを知ったり……生きてて良かったと思えることはたまに起こります。半年に数える程度でも発生するなら十分すぎる幸せかもしれません。
 しかし、夢は叶えばいいのではなくて続いていかなければ満足しないと実感しました。何度でも機会を得たくて、そのためにはもう少し生きていなくてはいけないようです。それに、撮ったことないけど撮ってみたいなという人はまだ全然いるし、撮影いっぱい頼まれたいし、全然まだ発展してたくさんの可能性に触れたいし、叶えていない夢はまだ残っているし、また人が楽しんでくれる映像に取り組んだりもしたいです。だから、idを受けていた時のように気軽に人と遊んで色々撮ってみたいと最近思います。これが、これからも人を撮る機会を増やしたいなと考える理由です。



 話が少し変わります。
 はじめに述べたように、こういったnote更新やツイートは書いたそばから文章が足りていないんじゃないかと、人目に触れたそばから書いてあることしか事実がないと読まれるのではと心配になります。しかし嬉しかったこと・悲しかったことをすべて網羅しながら書いているとそれはもう文字量は膨大になり時系列にまとめなくてはいけなくて他人に事実関係が分かるように説明しなくてはいけなくて……そこまでやってられないから、長い期間のことを数千字程度にまとめています。
 しかしその意図を超えて、言葉を圧縮したときに意地悪な目線でものを言われ嫌な目に遭うことにつながるのではないかと不安を覚えることが増えました。自分の気持ちを開示しないことが最適解のように思うことも増えてきてしまいました。あまり本望ではありません。
 インターネットは日に日に最悪になって、他人の「本当」をジャッジできると信じていたりする者が堂々と目を疑うような発言をしていたりして、政治も生活も倫理も最悪で、特に性同一性障害を公表したことがあるわたしにとっては居場所にしたい所ほど安心できなかったりします。冗談じゃなく死んだ方がマシだったかもって思ってしまうようなことも目にします。自分のこととそれらが重なって言葉を出すことが、かつてより難しく感じてしまうようになりました。自分にも社会もその不安が蔓延している、すごくマイルドに言ってそんな感じです。
 自我を殺す方がやや安全で、そう考えて間違った適応をしているうちに徐々に自分が弱体化していっているのを感じました。これもまたゆるやかな自殺のようで、もしかしたらまずいのかもと思いました。もう少し生きるためには、人と接していないとだめなんだろうなあと感じます。だから誰か遊ぼうよ!というのは自分本位すぎるから、せめて素晴らしい写真が撮れる人になって相手の利になれるようにと頑張っている最中です。

 それなりに大人になったところで、足元が固まるどころかおぼつかなくなる一方の自分ですが、誕生日おめでとうは一年間受付中です。いつ会っても「誕生日おめでとう」と言ってください。

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