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「影響を与えられた人」「影響を与える人」

確かに、
自分のしている
何らかの「大切にしていること」が
多くの人にリーチするのは
嬉しく、喜ばしいことだろう。

何らかの秀でた能力を持っていたいと
想う。

才能を携え、努力して、
何らかの「成果」を挙げられたら
幸せなことだろう。

そんな「才能」に恵まれた人達からの
音楽やらデザインやら
小説やら物語やら芸術やらの
「表現」を受け取ってきた。

多くの「評価」を受けた者、作品が
世に多く出回り、
僕らの人生に彩りを与えてくれた。

それらを受け取り、
消費して暮らしてきた。

「成果」は多くの「資本」を
動かすものとなる。

その微細な振動を
僕ら一人一人も
担うことになる。

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「影響を与えられた人」は
「影響を与える人」に成れることを
願うようになる。

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近年、
「影響を与えてくれた人」を考える。

それは「僕に触れたもの」達だった。

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「有名」とか「無名」とか、
何の権威を基準に
僕らは評価や、
選別をしてきたのだろうか?

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そこに誰がいる?

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有名ではない、
みなさんの綴ったnoteを読む。

僕と同じ、似た感情や
理解できない感情を
読む。

評価、監修、多くの他者によって
均一化されていない
個性ある文章を読む。

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感じる主体は「僕」。

僕は「僕」の
心の声を聴く。

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僕は多くの影響を
「僕」で受け、
「僕」を成長、豊かにしてきた。

僕に大きな影響を与えてくれた人ほどの
大きな影響を
どのくらいの人に
及ぼすことができるのか、
まったくわからない。

「おおさ」と「おおきさ」。
これは測れない。

氣付くことすらできない。

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父、母から
どれくらいの影響を受け、
父として
子にどのくらいの影響を与えているのか・・・。

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僕達は多くの影響を
「僕達」で受け、
「僕達」を成長、豊かにしてきた。

僕達に大きな影響を与えてくれた
過去の人ほどの大きな影響を
どのくらいの未来の僕等に
及ぼすことができるのか、
まったくわからない。

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ただ、
何らかの賞や評価を
受けたわけでもない
受けたかどうかは関係ない
偶然出会った人たちの
noteを利用した
小説、物語、エッセイを
読ませてもらうと、
今まで持っていた「才能」の概念が崩れ、
「消費」と「評価」の構造に氣付いたり、

基準を
「僕」「僕ら」自身にして、
世界を創っていけたらいいんじゃないか?

そう想えるようになった
「成長」の兆しを
僕自身で感じているのです。

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