世界に「俯く」行為としての読書--イヴ・セジウィック『タッチング・フィーリング』
「本、読んだなー!」と思える本を読み、興奮しています。
その名も『タッチング・フィーリング』(著・イヴ・コソフスキー・セジウィ
ック、訳・岸まどか)。
『タッチング・フィーリング』は知らずとも、『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』を知る人は多いのではないでしょうか。セジウィックはこちらの本を通じて、「ホモソーシャル」というコンセプトを世に知らしめた文学研究者です。2023年の年明けに放送されたNHK「100分deフェミニズム』では、上野千鶴子さんがフェミニズムの名著として『男同士の絆』を取り上げていました。
男ふたりが女を巡って争っているかと思いきや…実は男同士の欲望が女に投影されていた!系のフィクションが大好きな私は「ホモソーシャル」「欲望の三角形」の概念を知った時に、これだったのか!!!と思ったものです。
そんなわけで『男同士の絆』が愛読書で……と言えればいいのですが、恥ずかしながら未読。2021〜2022年にイギリスの大学院に留学してフェミニズム研究をすることになった際に、購入はしたんです。購入して、いわゆる「自炊」でデジタルデータ化してロンドンに持っていったのですが…1ページも読まなかった…Amazonで誤って2冊注文し2冊自炊してしまったというのに……。
それでも留学中、いくつかの授業でセジウィックのテクストと遭遇しました。その一つが「情動」論。英語では”affect”と呼ばれるこの概念は、端的に説明するのがとても難しいのですが……そして色々な定義や説明があって一意に決まらないのですが……トムキンズ〜セジウィックによる論の大枠としては、意識して外側に表出される感情と、無意識即時的に発生する衝動のあいだを表すような概念として考えられています。怒り、喜び、悲しみなどは、感情でもありえますし情動でもありえます。
情動は、空腹のように受動的に発生させられるものではありません。世界と身体が接触したとき、その社会を取り巻く文脈と、身体に内在するものの相乗効果によって生まれるものと、(少なくともセジウィックとトムキンス論では)捉えられています。色々な分野で取り沙汰されてきた情動ですが、フェミニズムやクィアスタディーズの分野において、かなり大きな道具立てとなっています。それはまさに、情動の「あいだ」性、主体と客体という二元論を覆す撹乱性が、フェミニズムやクィア・スタディーズが闘っているものーーシス・異性愛男性の「主体性」にアプローチする上で、そして女性やクィアが自身の身体表象を通じて育むアイデンティティを理解する上で、とても有用だとされたためです。また、感情(emotion)という概念がえてして、理性と対置された原始的なもの、個人的なもの、劣位のものとして捉えられることへのカウンターでもあります。感情を「社会的文脈が個人の身体に作用して生み出すもの」として捉え直し、科学的に分析可能なもの、価値あるものとするのが、情動論であると、私は解釈しています。
"affective turn"(情動論的転回)という言葉が生まれるまでに、フェミニズム、クィア・スタディーズにおける重要なコンセプトとなった「情動」。私自身、ロンドンで描いた修士論文のメインの分析理論はAffect theoryでした。実は修士論文のタイトルにもAffectが入っている!
Affect beyond Virtual Lesbianism:
Queerness and Feminism of Fujoshi in the Material World
Generated through Reading Boys’ Love
ヴァーチャルレズビアニズムの先にある情動:『ボーイズラブ』を読むことで生まれる、物質世界における腐女子のクィアネスとフェミニズム
この論文でメインに引いたのは、Sara Ahmedの『The Cultural Politics of Emotion』のテクストと、Lita Felskiの『Hooked』のテクスト。この2つは先行のファンダム研究でも直に引かれていることが多く、どうにか私にも扱える…と思って選びました。
ちなみにhookedは、「はまっている」「心奪われている」という意味のスラング。人が本を読んだり芸術を鑑賞したりする際に起きる情動に着目して、読む・鑑賞する・批評するというオーディエンス行為を再構築するもので大変面白いです。
で、結局授業でのつまみ読みにとどまっていた『タッチング・フィーリング』をこのたびようやく読んだわけです。読書会の課題本として。これあまり情報のない状態で一人で読むのは挫折していた可能性がある……。読書会をやっているからこそ読めた本でした。(でも、多くの人に読んで欲しくて、一人でも読めるといいなと思って、このnoteを書いています)
まず戸惑うのは、本書がひとつの論を展開するものではないもの。『タッチング・フィーリング』という統一されたアカデミック・プロジェクトではなく、別々の文脈や機会に発表された文章を後からまとめたもののため、きっちりした学術論文集のような単線的な構造をしていません。
目次はこんな感じ。
とくに第一章、第二章がとっつきにくい。ジェイムズ、ディケンズの具体的な文学作品のテクスト分析を詳細に行いながら論を展開していく趣向になっているので、「情動の本を読むんだ!」と思ってページを捲った身としては、戸惑ってしまうところも多々あり。
読んでいくと、セジウィックが【あえて】自身の考えや言葉を単純化しない書き方を試みていることがわかってきます。もったいぶって難解にしているわけではなく、誠実さとしての「単純化へのあらがい」「反復へのあらがい」として、曲がりくねり、寄り道し、ゆるやかに結びつく文章たちを書いていることがわかります。
それでも時折「わかる!」というところがあり、あるいは「わからないけどめちゃくちゃ明晰なことが書いてあるっぽい!」というところがあり、付箋だらけになりました。
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