見出し画像

BFC5幻の決勝戦作「許されざる者たち」

 あなたは倒れている男を発見する。拘置所に入ってすぐの、守衛所の裏手にある小さな庭だ。刑務官を呼ぼうとして、男が小田嶋悠人だと気づいたあなたは、驚きのあまり左胸に手をやる。家を出たときと同じ膨らみがあり、小田嶋を傷つけたのは自分ではないと安堵する。
 あなたは音を立てないよう気をつけながら小田嶋に近づいていく。だが革靴では難しい。自分の革靴が音を立てるたびあなたは顔をしかめる。
 小田嶋の腹の辺りが血に濡れていることにあなたは気づく。かなり広い範囲だ。小田嶋の周囲を、あなたは注意深く観察する。背中側にも血だまりがある。凶器は見当たらない。
 衣服に触れられる距離まで来た。と、小田嶋の顔が動き、あなたは仰天して立ち止まる。長崎先生――小田嶋はあなたを見て微笑み、これでいいんですよね、と苦しそうに言う。あなたの脚が震えている。
 小田嶋が自分を待っていたように振る舞うのがあなたは理解できない。恐怖に襲われ、小田嶋を放置して帰ろうと決意する。あなたは踵を返し、歩調を上げる。
 守衛所を通り過ぎるとき、長崎先生、と誰かに呼ばれる。あなたは動転し、走って拘置所を出る。後ろから追いかけてくる気配がある。あなたはさらにスピードを上げる。同時に息も上がるが、止まってはいけないとあなたは思う。だがあなたの心臓は悲鳴を上げている。すぐそばで長崎先生と呼ぶ声がして、あなたはついに立ち止まる。だが立っていられず、ぜいぜい言いながらうずくまる。うずくまった状態から、少しずつあなたは前に進む。左側に見える空き地に足を踏み入れたとき、ついに力尽きてしまう。あなたは願う。追ってきた者に、自分の命が奪われてしまわないことを。
「長崎先生」
「倉橋くんか……」
「どうして逃げるんですか」
「別に、逃げてなんて」
「まあ、いいです」
 倉橋は笑顔を見せる。油断してはいけない。あなたは今、旧日本軍の銃を所持しているのだ。力を振り絞り、あなたは立ち上がる。
「それじゃ失礼するよ」
「待ってください」
 後ろから肩をつかまれ、ぐいっと反転させられる。
「弁護士バッジはどうしたんです?」
 あなたは驚く。外して仏壇に置いてきたのだが、それを伝えるべきかとあなたは考える。結論を出す前に倉橋が笑みを浮かべ、
「外してきたんですね。賢明なご判断です」
「賢明だと? どういうことだ」
「こういうことですよ」
 突然銃を突きつけられ、あなたは動転する。
「君がやったのか」
 倉橋はニンマリと笑う。
「この銃であなたが撃ったんですよ、先生」
 あなたは恐怖に戦慄する。怯えるあなたを嬉しそうに眺める倉橋。あなたは全身の力が抜け、もはや立っていることもできずへなへなと座り込む。
「あんなに走ったらへたり込むのも当然ですよ。何度も呼び止めたのに」
 あなたは何か、どうしても確かめなくてはいけないことがあるような気がしている。
「そんなに気になりますか、この銃が」
 あなたは必死にうなずく。左胸に手をやり、膨らみも確かめる。いったいなぜ?
「奥さんが亡くなる前に連絡をくれたんです。先生が人を殺そうとしているんじゃないかと。それで僕が預かって、代わりにモデルガンを置いてきたんですよ」
 モデルガンという言葉であなたはすべてを理解する。倉橋の持つ銃が本当に本物だということも。
 あなたは全てを話したい欲求にかられる。保が不義の子であること、自分の元で育てられず忸怩たる思いを抱いていたこと、保がバスジャックの被害に遭ったと知り兄を恨んだこと、兄に保を渡すよう言った父も恨んだこと。バスジャック事件の生存者がいると知ってようやく恨みの矛先が変わったことも、あなたは洗いざらい倉橋にぶちまける。
「強権的な父のせいで倉橋姓を名乗れず、それを理由に保を奪われ、人生に意味などないと悟った。生存者に話を聞くことで、もう一度保と向き合えると思ったんだ」
「だが小田嶋に聞いても何も分からなかった。そうですよね?」
 あなたはうなずく。そして思う。目の前の青年も、事件の真相を知りたかったのだろうと。
 パトカーの音がして、見つかるのも時間の問題だとあなたは観念する。
「言っておきますけど、やったのは僕じゃないですよ」
 倉橋の告白はあなたをひどく驚かせる。
「もちろん先生でもない。小田嶋のそばに落ちてたのを拾ったんです」
 とても信じられないとあなたは言う。でしょうね、と倉橋は笑う。そしてあなたに銃を渡す。
「これを警察に調べてもらってください。今来た風を装って。外に捨ててあったとか言えばいいでしょう。僕の指紋はついてません」
 倉橋が手袋をしていることにあなたは初めて気づく。倉橋は別れを告げ、少し歩いて振り返り、母さんから聞いていた通りだ、とあなたに言う。兄さんは真面目なだけが取り柄だけど、何かで人生棒に振っちゃうかも、それが心配だって。
 じゃあ、と右手を上げる倉橋にあなたも手を振り、拘置所へ向かって歩き出す。倉橋ができるだけ遠くまで行けるようにと願いながら。(了)

この作品は2022年のBFC4落選作「ある事件/小田嶋悠人」から続く三部作の三作めです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?