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STANDARD編集記③/前歯が折れてサ行が言えない

2016年も中盤に差し掛かった頃は、仕事が多忙になっていったのに加え、通勤中に自転車で転倒し前歯を三本折ったり(歯医者行くのサボってるのでまだ仮歯)、太ったり、左耳の後ろに謎の腫れができたり(後にこれは木村病という謎の奇病であることが判明する。現在治療中)、今思うとなかなかガタガタだった。

作業についても、悩みがあった。
仕事が多忙になっていくにつれ、自分自身デモや抗議の現場に足を運ぶことがままならない日々が増えて来たのだ。
自宅での編集作業も、夜通しかかるようなことが増えて来て、睡眠時間もあまりとれない日が多くなった。
2016年の夏は衆議院選挙と東京都知事選があったが、応援演説の現場などからは完全に足が遠のいていた。
この頃の自分はもしかしたら人によっては冷笑的に映っていたんじゃないかと思う。そしてその印象は多分、間違っていなかった。

もう一つ、新たな悩みも浮上していた。
土台として固めたインタビューとそこから浮かび上がった展開を構成し、映像や音楽で見せる場面を意識的に作っていったが、
流れとしてスムーズに見せるには何かが足りない。そこでナレーションを入れていくことにした。
原稿を書いて次々と録音し、物語の中に配置していったのだが、この時和田さんや張さんに「これじゃない」ということを言われたのは結構大きかった。

それまで自分は、なるべく事実を淡々と見せていくような作品を考えていた。
今回の場合難しかったのは、ドキュメンタリーを作っているのが第三者的な観察者ではなく、そこにバリバリ参加していた当事者の一人であるということだ。
できることなら極力、自分自身の存在を前に出していくことは避けたかった。
しかし、「パーソナルな部分が見えないと入り込めないよ」というような和田さん・張さんのアドバイスを受け、それなりに重い腰を上げ、原稿から書き直し、録音し直す、という作業を行った。
原稿を書き直す際には、自分が記憶や気持ち的に蓋をし続けて来た部分にもあえて向き合うことにした。

そして、原稿をよりパーソナルな方向に振り切ることで、本編後半の展開についても、ただ事実を羅列するというところから離れるべきだと思うようになった。
震災以降声を上げ続けてきた自分が、なぜ今そうした場所から足が遠のいているのか。
5年以上が経って何が変わったのか。本当に何か変わったのだろうか?
大きな理由としては、先にも書いたように、フルタイムの仕事が本当に忙しくなったことが大きかった。
その上に作業があった。衆議院選挙と都知事選があった。
前から何度か書いていることだが、僕は震災以降デモや抗議には大きな活力を感じていたが、選挙の時にそれを心の底から感じたことはただの一度もなかった。
政治家という存在は基本的に自分たち庶民からは遠く離れたものであり、不信感というよりも、アゴでこき使ってやるくらいが丁度良いと思っていたのだ。
当時はそんな考えもあって、状況も状況だっただけに、路上の行動からはやや足が遠のいていた。
そういう自分の思いも本編後半に収めるべきではないかということを考え始めた。
本編を見た人の中にはああいうシーンで苛立ちを感じた人もいたかもしれない。
それでもパーソナルなところに立ち返るにはそうするしかなかったのかもしれないと今は思う。

「STANDARD」はその時点で大きく性質が変わった。あの和田さんと張さんのアドバイスには感謝しかない。

ナレーションの録り直しも決してスムーズとは言えなかった。
同時期、自転車事故で前歯3本を折ったりしていたので、ナレーションを録ってもサ行が言えない。
発音しようとすると空気が抜けてしまう。今思うとあの時期は足踏み状態が続いていた。

2017年に入り、制作を始めてから2度目の春を迎えようとしていた。
この時既に、当初の完成予定から半年以上が経過していた。

(つづく)

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