STANDARD編集記④/東京の人間が何を言っている
前回の記事と時間は前後するが、2016年12月には、福島県双葉郡浪江町と、沖縄・高江の北部訓練場N1ゲートにも向かった。
福島第一原発の周辺には、一度足を向けなければならないと思っていた。取材云々というよりは、かねてからこの目で確かめたいと思っていた。
原発事故の爪痕というものが、いかなるものなのか。(当時)5年を経た今、どうなっているのか。
高江には、自分の多くの知り合いが向かい、ゲート前での座り込みに参加していた。この年の夏のことだ。自分は今まで沖縄に足を踏み入れたことがなかった。米軍基地が多数存在している状況とはどういうことなのか、この目で直接見なければと思っていた。
福島や沖縄の様子を収めることについては、迷いがあった。
自分は、このドキュメンタリーはあくまでも、東京もしくは首都圏の生活者に焦点を当てたものだと思っている。取材をお願いした人も、あくまで自分の知っている、首都圏に生活している人たちだ。
想像もつかない、分からないことについて過剰に言及すべきではないという気持ちがあった。
本編中にも出てくる言葉だが、この映画は、震災以降に「東京の人間が何を言っている」と言われながら、それでも声を上げることを選んだ人たちのストーリーにしたかった。
しかしその一方で、言い方は悪いが、東京の人間の冷たさのようなものも同時に見せる必要があると思った。そのために、福島や沖縄との対比を見せたいと考えた。
また、雄大な自然と、原発事故と基地、そして自分たちの問題すら解決させることができない人間の姿を対比させて見せたいという思いもあった。
12月に遅い夏休みで4連休を取った。初日は日帰りで福島に行った。当時、常磐線の竜田駅までは電車で行けたので、早朝、東京駅から竜田駅まで出発した。
竜田駅に着くと、そこからは代行のバスが出ていた。小高駅までのバスだ。バスに乗り込み、移動中車窓から町の景色を見ていた。
地震で倒壊したままの建物がいくつもあった。広い空き地に、黒々と除染廃棄物の山が幾重にも積み重ねられていた。帰還困難区域の立て看板の前には警備員が立っていて、それ以外には道を歩く人の姿など何処にもない。それは紛れもなくゴーストタウンだった。原発事故が未だに何も終わっていないことがひしひしと伝わってきた。
小高駅に到着すると、ネットでレンタルしていたドローンの機材を抱えて、小高から双葉郡浪江町の方向へひたすら南下していった。通りは原発作業員のJVのトラックが次々と通過していくものの、やはり歩く人の姿はない。
4時間近くだろうか。10キロ近い重さの機材を手にひたすら歩き続けた。
通り沿いにある商店やドラッグストア、弁当屋などは、軒並み廃墟と化していた。
津波が到達した地点を示す標識。倒壊した家屋の屋根に供えられた一升瓶。
そんな原発事故の爪痕が残る一方で、浪江町を流れる高瀬川や、夕暮れの光景はとても美しく、こんな美しい土地に放射能がばら撒かれ、コミュニティーが破壊されたという事実の重さを、まざまざと突き付けられた。
道中、役所の職員や警察官に声をかけられた。あんな思い荷物を抱えて歩いていれば、それは最早不審者と言われて差し支えなかっただろう。
役所の人とは少し話をした。当時、そこは帰宅準備区域になっており、まだ誰もこの町には戻ってきていないと話していた。
帰還困難区域のギリギリ手前まで歩き、福島第一原発に最も近付ける場所まで到達すると、来た道を引き返した。
次第に夜の帳が下りていく中、小高駅までの道を歩いている時だった。
手が痺れ来たため、一瞬立ち止まり、重い荷物を地面に下ろし、ふと左端に目を落とした。そこにはもう誰も手入れをしていない畑があり、そこに小さな犬小屋があった。
その犬小屋から延びた鎖の先に、薄闇の中に、伏せの姿勢のまま腐敗した犬の死体があるのが目に入った。
僕はこの日見た光景をこれから先も忘れる事はないと思う。
(つづく)
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