『マチネの終わりに』第二章(1)
◇静寂と喧噪
年が明けて、二月の寒い日だった。
蒔野は、レコード会社の是永と、渋谷駅近くのビルのカフェで二時間に及ぶ長い話し合いをした。三谷も同席していた。
昨年末以来、蒔野は、新作《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》のための編曲とレコーディングに携わっていた。
“誰でも知っている懐かしの名曲を、誰も知らないクラシック・ギターの響きで”というのがその謳い文句で、収録を終えたサイモン&ガーファンクルの《明日に架ける橋》やスティーヴィー・ワンダーの《ヴィジョンズ》など四曲は、まったくクラシック・ギターを聴かないジュピターの他部署の社員の間でも評判になっていた。全体的に中高年向けの選曲だが、あまりそれだけでもというので、ボーナス・トラックには、Jay-Zの《Girls,Girls,Girls》を、ギターのボディを叩いて音を鳴らすフラメンコの奏法などを取り入れて“超絶技巧”で演奏した毛色の変わったものも準備していた。みっともないことになるんじゃないかと、さすがに懸念されていたそれも、蒔野が以前に編曲したスティーヴ・ライヒの作品を思い出させるような、透明感のある反復が新鮮な仕上がりとなっていた。
既に、コンサートは勿論のこと、テレビやラジオへの出演など、パブリシティの準備も進みつつあった。元々、「売れる曲を」というレコード会社の要望と、蒔野がまったく未開拓の北米での活動を見据えた事務所の意向とが合流して持ち上がった企画で、蒔野自身も納得の上で進めていた話だった。選曲にも拘り、是永は、蒔野が意外にポップスにも詳しいことに驚きつつ、スティーヴィー・ワンダーなら、《アイ・ジャスト・コールド・トゥ・セイ・アイ・ラヴ・ユー》など、もっと有名な曲の方がいいのではないかといった議論を、洋楽部門の社員と一緒に熱心に重ねてきた。
それを、蒔野はここに来て、唐突に「止める」と言い出したのだった。理由はただ、「嫌になった。」の繰り返しだった。
蒔野を説得できなかった是永は、下までエレヴェーターで一緒に降りると、硬い表情のまま、言葉少なに頭を下げた。会話中、彼女自らが勢い口にした通り、恐らく担当は変わることとなるだろう。
第二章・静寂と喧噪/1=平野啓一郎
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