見出し画像

不自由は脳がつくる

週末にちょっとした手術を受けた。
腕の内側を切開したため、止血(?)に4日ほど圧迫が必要だった。

この手術による制約は、「肩より上に腕をあげられない」「重いものが持てない」「お酒が呑めない」など。切ったのだから、勿論、痛い。しかし、なにより生活の不自由さが私の心をさらっていった。関心的な意味で。  

「肩より上に腕をあげられない」

まず、服を着ることが困難だった。腕の可動域が狭まるだけでシャツの着脱は難しくなる。腕の位置取りやシャツのたぐり寄せ方など、試行錯誤を重ねた末、ようやく着ることに成功した。Tシャツを。

高いところに手が届かないことも厄介だ。腕を曲げたまま背伸びでどうにかした。身長が高くて助かった。身長があと5cm低ければ、冷蔵庫の上に乗せた電子レンジの上に乗せた瞬間湯沸かし器を取れなかった。  

「重いものが持てない」

持てないものは仕方がない。ペットボトルより重たいものは持たないようにした。サイズは500mlである。

問題になるのは日常の動作で、ドアの開閉、特にドアを引く行為に痛みが伴った。『押して駄目なら引いてみろ』と言った人間を呪いたい。

また、ついうっかり腕に力が入ろうものなら『あぅ……』と悶絶する羽目になる。コロコロ椅子に乗ったまま移動しようと机に手をかけ、いつも通りに力を入れたら悶絶した。日常がドキドキパラダイスになった。  

「お酒が呑めない」

1週間ほど酒を断てと言われた。酒を呑まない私など私ではないのではないか、酒のない人生に意味などあるのだろうか。いやない。

そんなことを考えていたら3kg太った。
酒のない口寂しさの代わりに夜ごはんを食べてしまった所為である。  

この他にも、些細な不自由が吹き荒れた。
しかし、数日たった現在、この状況に慣れつつある。

不自由を感じさせるのは経験だ。今まで無意識に出来ていたことが、思うようにいかず、つまずくことで不自由を感じる。しかし、経験は上書きされる。不自由な状態を経験し続けると、その状態に慣れる。

脳の認識を、行動を伴って、少し書き換えてやれば不自由は不自由でなくなるのだろう。ふと「経験、つまりは記憶がなければ不自由は解消されるのか」と疑問に思ったりした。思ったりしただけで脳内はお酒の呑みたさでいっぱいだった。あぁ、記憶をなくすほどお酒が呑みたい。

ところで、切ったところからすこし離れた場所に内出血が広がっていた。圧迫のし過ぎだろう。もしこのまま圧迫を続けていたら、内出血が二の腕から上へ下へと広がり、邪王炎殺黒龍波が打てたかもしれなかった。実に惜しいことをしたものである。

気と機が向きました際に、是非。