本と日記(2/14〜2/25)

読んだ本

「山月記」はなぜ国民教材となったのか/佐野幹

読んだ理由

普段から図書館で本を選ぶときは前借りたものとNDCがなるべく被らないようにしていて、なんとなく次は3かな〜教育か人権の本を借りたいな〜と思って。
これは、自分の視界を広げるために始めたことで、視界を広げれば、色んなものを面白がれるからという理由があるけど、NDCは被らないようにしていても、読んでみたりするとどこかしら前読んだ本との共通項とかが見つかっていくのが面白い。読み方や考え方が直近に読んだ本から影響を受けているからとも言えそうだけど。この本に関しては、もう一回漢文学的な要素が強めの本を手に取ってしまった!と思った。

感想とか諸々

戦後教育史を一編の小説を軸に、小説や教科書を生み出す出版業界、文科省と実際の教育の現場、それを取り巻く社会の状況や世間の教育に対する目、いろんな角度から語る本。面白い。やっぱり教育って「どういった人間を作りたいか」なので、時代によって作品の受容のされ方は変化しているし、そこにはかなり社会的、政治的な意図が反映されてる。人間が人間を育てるという絶対的な正解の存在しない営みに対して、真摯にかつ問題意識を持って語られてる。
割と教育関係者に向けて書かれた本のようで、国語教育の世界では有名人だけど、私にとっては全く聞き覚えがない人がした実績に対する批判とかもあって、『スナックバス江』の明美ちゃんみたいな顔して読んでた。

その中で、鑑賞と解釈って言葉が出てきて、ぼんやりと私は作品を「鑑賞」できているか、と考えた。文芸に限らず、絵画とか音楽でも、作者の生涯や他の作品群、同時代の他の作品や、影響を受けた・与えた作品とかの文脈を通して作品を位置付ける行為に重きを置きすぎてないか。心当たりがありまくる。
多分、主観よりも客観的なものに重きを置きがちな価値観と、作品の内容から受け取るものを主観的と考えがちな感覚のが悪さをしている気がする。自分が実際そう感じたことと、誰もがそう感じうるであろうことの重みは比較しようがないし、作品から受け取るものは、まあだいたい7割くらいは作者のコントロール下にあって、作品に向き合って読み解こうとすれば「自分だけがそう感じた」のではなく、「誰もがそう感じるように作られている」ことが分かるのに。
鑑賞という行為に未だに慣れていないのかも。なにか正解の見方があるんじゃないかとか、自分の見方は正しくないんじゃないかとか。美術館で絵画のキャプションを見るのを答え合わせだと思っていないかとか。どんな表現媒体にも存在する伝達の不完全さ、不自由さを受容する心が出来上がってないのかも。

そう言えば、このnoteは思考とかの整理、書き残し、メモみたいな役割を持たせたいと思っていて、読む人を意識した文章を敢えてあまり書かないようにしている。とはいえ、生まれてからこの方、伝える以外の言語の使い道を知らず、気を抜くと仮想の読者を設定して、伝えるという書き方をしている。考えてみれば、国語の授業でやった作品も、たとえばクラスでの発表や、そうじゃなくても先生の手に渡り読まれることが前提にある。言語や文字って基本的に伝達のための媒体だしな。そう言えばそういう内容も本に載ってた言語過程説っていうらしい。
最近は特に人に伝える以外の、手段としてでない目的としての言葉について考えている。たとえば、カンバスや画用紙に描く見せるための絵ではなく、教科書やノート、前の月のカレンダーの裏に描かれる手慰みの落書きのような、作文とかではなく、なんとなく頭に浮かんだことを書き出す、口に出すような言語活動。多分一番近いのは又吉直樹の自由律俳句とか。
でもこれは身体性みたいなものも関わってくるのかな。ペンを持って、簡単なストロークで線は引けるけど、文字は文字を書こうと思わないと書けないし、とか。
思い出したけど、小6くらいまで「らぁ〜りるろれろ」とか「まんままんま」とか口を動かしたくなる衝動にまかせてブツブツつぶやいていた気がする。クラスメイトに聞かれてちょっと引かれて、これやめたほうがいいんだ…と思ってやめた。口に出すはもっと伝えるの要素が強くなる気がする。誰かに対して何かを伝えたいときにしか言葉を口に出さないってなんかちょっとキモいな。いや、世間一般としては伝える対象も、内容もないのに声を出している人間のほうが怖いのかも……

本の内容に戻るけど、中島敦の『古譚』四編は『山月記』も含め、すべて言語活動にまつわる話らしくて、多分こんな駄文を書く前に読んで、言葉とか言語というもの、もっと大きく言えば表現することに対する考えとかを一旦深めたほうがいいんだろうな〜って思う。
そう言えば、前のnoteで話題に出した『東京都同情塔』を買った。まだ読んでないけど……転職してから初めての給料が出たので、いっぱい本を買いたい!と思って丸ノ内の丸善で2.5万円くらい本を買って、少しずつ崩している。本を作った金で本を買うって、エッシャーの『滝』みたいだな〜と思ったけど、全部他社さんのお仕事だったので、鹿威しかも。
お金がない状態がデフォなのでお金があるとラッキーって思ってぼんやり使っちゃうけど、ほんとは貯金とかってしたほうがいいんだろうな。とはいえ、貨幣経済には2600年超の歴史があるのに、20年くらいしか触れてきていないにわかだしな。あと3-400年くらい経たないとお金の使い方上手くならないと思う。

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