本と日記(1/9~1/17)

読んだ本

私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか』メラニー・ジョイ 著,玉木麻子 訳

図書館でウロウロしていたら目に止まった。タイトルで選んだ。図書館では表紙が見えることはほとんどないので、たいていタイトルで選んでいる気がする。当たり前のようだが確かに矛盾を抱えているのかもしれないとなる問題提起がどう展開されるのか気になった。

考えた事

タイトルに対しての答えはもう結構の冒頭で言われてしまっていて、『そういう事になっているから』だった。
じゃあ、なぜ『そういう事』になっているのか?を考察していくのだけれど、この現状を3つのN「普通(Normal)で自然(Natural)で必要(Necessary)だと刷り込まれている」と言い表してるのが上手いな〜と思った。だいたいの世にある『そういう事になっている』事柄、全部これじゃん。逆に、この3つを争点にしてどれか1つでも反証できれば、世の『そういう事になっている』面倒な事柄から逃げ切れるのでは???という気持ちになった。し、本書も肉食主義(カーニズム)がいかに異常で不自然で不要かを完全菜食主義の視点から書いていた。
NDCの難しいところで、これは自然科学>生物に置かれていたけど、多分、畜産とか食文化とかそこら辺に置いた方がいいのでは?って気持ちになった。

ヴィーガン活動の広がりの一つの例として、屠殺場から脱走して近隣住民に匿われた一頭の牛に対して、沢山の「殺さないでほしい」の声が集まったというような話があった。筆者は人を動かすのは数字より物語と続ける。めちゃくちゃ分かる。見えないところで死んでゆく数え切れないほどの命より、そこにいる一つの命が奪われる方がショックなのだ。チェンソーマン第1部の銃の悪魔のシーンで羅列される被害者の名前を、眺めるだけで読み飛ばしても、早川アキが一瞬にして家族を失うシーンで銃の悪魔ゆるせねえってなるみたいな感じ。合ってるのかなこの喩え。

人間はモノ化、非個性化、二分化(例えば牛を番号で呼んだり、「人間」と「動物」という分類分け)をして食材となる者への罪悪の意識をうすらげているとしていて、すごく興味が湧いた。これは食肉だけではなくて、人種で分類し、「ユダヤ人は私たちに不利益をもたらす」と正当化(そういう事になっている事にした)戦時中のドイツとかも思い出される構造。
もっと身近に、上京してから目にする労働の姿(郊外の団地とか、朝の満員電車とか)ってすごく人間の「モノ化」「非個性化」な気がする。最近転職をして(日記要素)、朝の時間が早くなり多くの出勤する人たちに紛れて出勤するようになったんですが、やっぱり満員電車に乗っていると、人間扱いってなんだっけ……そもそも、私はほんとうに人間(人権のある市民)なのか……って沈んだ気持ちになってくる。

飽食の時代とも言われる現代で、自分の考えに則した食を選択できるようになっている。逆に言えば、食に関することって実は一様ではなく、自身で選択しなければならない状況になっていることに気がついた。思い出されるのがデフォルト効果で、人間は変更するメリットを強く感じない限り初期設定のままの状態にとどまるという心理があるらしい。臓器提供意思表示では「オプトイン(提供したい場合、意思表示する)」「オプトアウト(提供したくない場合、意思表示する)」の2パターンがあって、各国によって方式が違うらしいが、「オプトイン」の国より「オプトアウト」の国の方が圧倒的に臓器提供を承諾している人が多い(といっても初期設定を変えていないだけ)らしい。今まで、選択肢があることも知らず、食生活について「初期設定」のままだったんだな〜と思った。それを変えるかどうかは、まあ追々考えるとして、未だにここに隠れ選択肢あったのかよ!となる事象、まだまだたくさんあるんだろうな〜と思う。


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