本と日記(1/25~2/14)

読んだ本

『長恨歌』王 安憶 (ワン・アンイー ) 著 / 飯塚 容 訳

読んだ理由

最近文芸を読んでないな〜と思ったので。
SFを読みたい!そう言えば『三体』まだ読んでないやと思って中国文学の棚に行くと、シリーズごっそり貸し出されていた。やっぱ話題作ってそうなるよな〜と思いながら(でも発行されたのってしばらく前じゃない?今でも人気なんだな)、近くの棚の気になる本を手に取った。

文芸をおおよそ1年くらい読んでおらず、これは今まで小説しか読んでこなかったな、読む幅を広げたいな…と思い敢えて避けていたのもあるけれど、普段使う『図書館』という施設が「この本を読みたいと思わせる場」ではなく、「読みたい本を探す場」としての役割が中心だからだと思う。
探したい本があるときはいいけど、なんとなくフラフラして気になった本を借りるとなった時、タイトルだけだとどうにも内容を判断しきれない小説は手を出しづらい。

前回、図書館で借りた小説は引っ越したばかりの一昨年の秋頃のことだったと思う。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だった。たしか自分と同じような境遇の主人公だった気がするな。と思って、再読した。

田舎の生まれで、小中学校のクラスの中では頭の良い部類で、私のことを気に入っていた数学の先生は「お前にはこの授業はつまらないだろうから」と言って、先生が高校生の頃の教科書を渡され、その教科書を読んでいていいと言うほどだった。
ヘルマン・ヘッセを知ったのは、おおよそ9割の日本人と同じように中学校の授業で『少年の日の思い出』を読んだとき。とても仲が良かった国語の先生が「気に入ったなら『車輪の下』も読んでみるといいよ」と言った。その時に読んだ記憶はうっすらとしかない。
高校に上がったとき、別に自分が非凡でないということに気が付き(とはいえそれを認めたくないという気持ちもあった気がする)、やっと入った大学も続かなくなって辞めてしまった。
特に辞めたかったり、飽きたりした訳ではなかった。ただ続かなかった。
半ば強引に田舎の実家へと帰ってきたが、少年期から家庭が苦手で、一人暮らしの快適さを知ってしまった私にはなおのこと居心地が悪かった。こんな場所はすぐに出ていこうと思い、実家に帰ってきてから1週間でバイト先を探し貯金して半年しないうちに引越し先を決めた。
転居の手続きをした日、とりあえず利用カードを作ろうと思って近くの図書館へ向かって、そこでふとヘルマン・ヘッセの『車輪の下』が目に留まった。
田舎の優等生だった私にこの本を勧めた国語教師は、私の歩む道を予見していたのだろうか。分からないけれど、もしかしたら……と思った。

そう言えば、1/27に辞めた大学の卒制展へ行った。多様な展示を見ていると、なんとなく自分がどういうモノに惹かれているのかの共通項で、自分の興味が今どこへ向いているのかがわかって楽しい。うっかり、在学中にお世話になった教授と久々に話す機会があり「君は面白い学生だったから辞めたあとどうしてるか気にしていたんだよ」と言われた。
自分は運がいいなと思った。
よく、死んでしまったハンスと、文学者となったヘッセの最大の違いは母がいた事だと言われているけど、確かに周囲の人間が与える影響ってすごくでかいよな~と感じることは自分の今までの人生でも何度かある。

感想とか日記とか

図書館で本を借りて、通勤中に音楽聴きながら電車で本を読むことが多く、中国文学を読むにあたって、周波数を合わせる(?)ためにずっと中国揺滾を聴いていた。揺らす滾るという語はまさにロックンロールの魂の在り方で、良い訳だな~と思う。
Spotifyで色んなバンドをシャッフル再生で聴いてるけど、一組選べと言われたら海朋森(Hiperson)。めちゃくちゃカッコいい音と、歌唱の中にシャウトや朗読なんかが混じる女声ボーカルがすげえ聴き応えがある!ってなる。

日本盤が販売されているアルバム『成長物語(Bildungsroman)』のバンド紹介に、『ボーカルのチェン・シャージャンが放つ文学的な歌詞と、バンドメンバーによる緻密なアンサンブルが織りなすサウンド』ってあって中国語だから全然意識してなかったけど、どんな歌詞なんだろうって調べたらとても良かった。多分邦ロックで言ったらPeople in the Boxとか好きな人は好きだと思う。自分がそうなので言ってるだけですが。

あと、面白かった発見として今まで”wow”だと思っていた歌詞が”我(wǒ)”だったこと。え、めっちゃ繰り返してた気がするけど、ずっと”俺 俺 俺”って言ってたの?湘南乃風じゃん、睡蓮花じゃん。
日本語以外の言語がからっきしダメなので、邦楽以外のボーカルは楽器として聴いてしまっている。それはそれで楽しいけど、ちゃんと歌詞見て聴くと新しい発見があるね。閑話休題。

『長恨歌』は同名の白楽天の詩からタイトルを取っていて、一人の女性の生涯と、時代とともに変わりゆく上海の風景を書いている。租界返還直後の1940年代後半から、改革開放の1980年頃まで。
政治の小説ではないけど、主人公 王琦瑶(ワン・チーヤオ)の暮らしの中に当時の政治の影響が朧げに見える。なんというか、最近の小説やドラマや映画に感染症の流行とニューノーマルな生活様式が自然に出てくるというような自然さで、それが主題ではないけど、この時代を描くためには描写しない方が不自然だよねみたいな。
あと面白かったのは、対句表現が多用されていたこと。中高生のころにやった漢詩の授業を思い出した。古典だけじゃなくてやっぱり現代でもそうなんだ!そう言えば海朋森の歌詞もやたら対句っぽい表現が多かった気がする。

『長恨歌』は1996年に発行で、2023年にようやっと日本語訳が発刊されたらしいけど、最初に翻訳されたのがフランス語らしい。個人的には分かる。たしかに読んだ感触はフランスの読者が好みそう。これは自分の微小な観たことあるフランス映画の印象とかから判断しているので判定基準としてはすごく頼りないものだけれど。
作者の王安憶は、都市を描くにあたってヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に影響を受けたと言っていたし、そこら辺なのかも。

王安憶は他にも上海を舞台に作品を書いているらしく、場所に取り憑かれた作者だ!となった。場所に取り憑かれた作者がかなり好きで、それこそ自分の人生に一番影響を与えた森見登美彦の京都とか、漫画だけれど高浜寛の長崎とか(そういえば高浜寛もフランスで評価されていた気がする)。
場所愛のある作品はまるで血液や細胞のように細々と、けれど生命力に溢れる人々や風景が描写されて、それが一つの生き物としての土地を生み出していて、それを見るのが好き。
散歩が好きなのも割とその亜種なのかも。人の営みの集合体としての街が好き。全然知らん通りで歩きスマホしている人を見ると、自分にとっては全く知らなくて新鮮なこの道が、この人にとってはスマホしながらでも歩けるくらい、スマホをいじってしまうくらい見慣れていて退屈な道なんだなと感動する。ここに人の暮らしがあるんだ!

ざっくりと王琦瑶の少女期、成人期、母になってからという3部で構成されていて(本当にざっくりと、多分違う見方もできるけど)、うわーっ分かるな……てなったのが、この1部が終わるたびに人間関係がガラッと変わるんですよね。人生の段階が変わると周囲の環境が物理的にも変わって、古い付き合いのある人間ってとても貴重になっていく。現代の携帯電話なんかみたいに個人に紐付いた連絡手段がなければなおさらかも。

自分自身が人間関係を続けることが苦手なタイプなので、すごく共感というか、そうなっちゃうよねってなった。最近、ずっと人間関係のことを考えているかも。働きはじめてから、能動的にならないと新しい人間関係が生まれないような環境になってしまい、とはいえ能動的に交流するのが得意ではないタイプなので……
人見知りのため、店員に声を掛けられない店があまり得意じゃない。店員に自分から声を掛けないといけないというのがとても負担。「試着したいです」を言えずに数十分くらいディスプレイの前を右往左往しているのを見た店員に、怪しいヤツだなと思われてやんわり「なにかお探しですか?」と言われて、ようやっと自分の要求を伝えられる。面倒な客だな。
店先に限らず、人間との関係が全部これ。自分から人へ声を掛けることが本当に苦手で、いつも誰かから声を掛けられるのを待っている。トイ・ストーリーのおもちゃたちが、持ち主であるアンディが自分を手に取って遊んでくれるのを密やかに待っているような。これを最近ようやく理解しはじめて、自分から誘うのは苦手だから楽しそうなことがあったら是非誘ってくれって周りに言うことにした。

先述の話の続きだけど、辞めた大学の教授から連絡先をいただいて、お昼を食べながら話をする機会があった。辞めるまでのこととか、辞めてからの身の上とか、今考えていることとか。
これは多分、高校の頃くらいからだけど一対一でとりとめもなく話すのが好きかも。普段浮かんでは消えていく諸々を整理しながら、自分ってこんなこと考えてんだな~って思ったり、相手の話を聞いて得る新しい目線が好き。個人の視点から見えるものって自分の興味があるものだけなので。
ずっと「オタクでありたい」とひそやかに思っているし、「オタクにしかなれない」と感じるのだけれど、これは多分色んな事物からなにかしらを受け取る意志と誠意を持ち続けたいみたいなことだと思う。私が縁石とかガードレールとかのオタクなら歩いてる道全部楽しくなるのに!って思っている。どんな楽しさがあるかは分からないけど、そこに必ずあるはずの楽しさを見逃しながら我らは過ごしているってなんか悔しい、もったいないなという気持ちになる。
本当は旅人みたいに知らない場所を転々としながら生きたいけど、社会ってそれが難しいらしく、そうできないなら普段の風景を新鮮なものにしていくことが一つの解決策で、自分以外の視点を手に入れるとちょっとだけそれができる。
読書も別の視点を得るための行為なのかも。脱線しながら、思ったことを整理するという役割はこのnoteもそういう目的がかなりある。今回は本当に満足。私は本の評論とかがしたいわけではないので。

基本的には王琦瑶の視点に寄り添って物語は進むが、交流のある人物から見た王琦瑶像もかなりページを使って丁寧に描写されている。印象、関わり方、時間を経るに連れて関係性の変化があったり。なんなら、原作の(?)長恨歌のような悲劇的なロマンスが何度かある。『恨』の字は日本語の恨むというより、意味合い的には深く強い悲哀らしく、白楽天の方の『長恨歌』は『源氏物語』にも面影が見える(というかまんま長恨歌の平安朝版みたいな恋をする段がある)くらい、日本では悲愛の物語という印象が強い。けれど中国では政治的な寓意を持つエピソードとして最近まで理解されていたらしい。どちらもそういう見方はできるねって感じだけど文化の違いなんだろうな、実際学校で習うような中国の古典ってそういった政治的な内容が大きく絡むし、文学の価値観として政治的な要素が評価基準になることが多いらしい。
書いている途中でとても良い感想を見つけた。分かる、『長恨歌』の上海は『花様年華』の全くその時代を風景を知らないのにどこか懐かしさを感じさせる、官能的な雰囲気を帯びたノスタルジーに近しい。『花様年華』も静かな夜に物思いに耽るように観たくなる映画です。

大飢饉中の生活も読み応えがあって、自分が今日この日を生きのびることに必死だと、世間の動向が分からなくなるの、めちゃくちゃ分かる。地に足をつけたら、地盤がぐらぐらだから足元しか見れなくなった、みたいな。シューゲイザーかも。結局、そのグラグラした足元はもっと広い地面につながっていることを、その大きな地面の振れを気が付けないまま文化大革命に突入してしまう。
こういう実際の出来事に基づく小説とか漫画を読んでいる時って、読者との間にある絶対的なネタバレを避けられなくて、だからこそ面白くなっているところがあると思う。たとえば平家物語の栄華を読んでいるときって、滅亡とのギャップに思いを馳せているし。

終わり方も良かった。就寝時にパッと部屋の明かりを消した後で、今日あったこととか遠い過去にやらかしたこととかが暗い天井にぼんやりと浮んでは消えるように、プツリと終わった物語の薄らぼんやりとした延長で王琦瑶のことを考えてしまう余韻みたいなのがある。そう言えば小説読んだ後ってこういう感じだよな〜
30年近く読み続けられているロングセラーなだけあって、めちゃくちゃ面白かった。現代中華文学、本当にちらっとだけ短編を読んだことがあるくらいだったので、初めて読む長編がこれで良かった。
けど、SF読みて〜という気持ちが解消されたわけではないのでそれはそれで後で読もうと思います。なんか今話題になってるのあるし。


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