「誰でも賢者になれる ひとりなら」という携帯のメモ書きから、セレブレイションズへ(170713)

何日か前、スタジオローサにお願いしてもらった録音の打ち合わせが夕方に終わり、渋谷から3時間を歩いて家まで帰った。風が気持ちよかったので電車には途中から乗ろうと思っていて結局ぼんやりしていたのか、音楽を聴きながら考え事をする、ただそれだけのことをする=それ以外のことをしないでいる贅沢をしばらくぶりに味わった。 毎日そんなことばかりしていた頃があったよね、読者諸氏にも。今がそうだという人は是非おれの音楽でも聞いておれのことを考えてください。
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出典:http://kaomoji-cafe.jp/aa/love-2/

「誰でも賢者になれる ひとりなら」という、川柳のような文句が携帯のずいぶん昔のメモに書きつけてあったはずで、ときどき思い出す。はずで、というのはいままた思い出して探そうとしてみたのだけれど、膨大なメモの中から覚えている言葉をわざわざ探すのがすぐ面倒になってしまった。
まだ周りに一人もユーザーがいなかった頃からもう10年近く、4台くらいをまたいでずっとiPhoneを使っている。メモのデータはずっと引き継いできているので、打ち込んだのはまあだいぶ前だろうというくらいでこの10年のうちのどの時期のことなのか判然としない、そのフレーズのよってきたるところの観念を発見した当時はおれはきっと嬉しくて、一つ賢くなったと思い込みさえしたはず。自分にとっては真新しいように思える考えを、短い言葉に落とし込むことができたというのはまさに発見、発明の喜びで、例えば歌の詞を書くという行為の中にもその感覚を得にいこうという姿勢がある。詞を書くことを生業にしている身にとってはつまり親しくも度し難い間柄というか、そういう、愛憎入り混じる大切なものである。

少し前のポストで引用した大岡信さんの文章にはそれこそより的確に簡潔に書かれていることではあるのだけれど、そこに置かれた一語のうしろに何十語をも感じられるような、そのような言葉とそのための文脈を常に探し続けているのが文章家、特にと言って差し支えないと思うが作詞家の日常である。その作業は専用の道具も場所も必要とせず、いつでもどこでも取り掛かることができ、没頭するあまりむしろ視野が狭窄することがある。
思考ゲームとでもいうべきものに嵌まって五感が疎かになり、他者の存在を忘れる、言語というのはそもそもが記号化されたものであるのに、単語が集まり文章を組み終える頃にはそのひとつひとつの語がはじめ何を記号化したものだったのかわからなくなってしまう、あとからそれを丁寧にほどき直そうとすると文章を組んだ苦労が水泡に帰す予感に苛まれ、見ぬふりをしてしまう。
そうした絶え間のない波のような気苦労を乗り越え乗り越えするなかで傍にふと見つけたであろうこの「誰でも賢者になれる ひとりなら」という言葉、これはその日常的な苦労をボヤいただけのもので、どこかへ進んでいこうとする表現であるようには思えない。この言葉の発見すらひとりで執り行ない、自分自身にのみ評価された賢者の表れだと思うといたたまれなくなってくる。
改めて眺めてみると今の自分にとってこの言葉は陳腐なようにすら思えるのだが、それでも深く潜り、長く息の続かないその場所の景色を持ち帰ろうとするようなことを、何年かはわからないが経た今もまだやめないでいる。

長く歩いて帰ったのは、それまでの一週間ほど出歩くときは毎日下駄で過ごしていたのを、その日スニーカーを履いて出てきていて、しばらくぶりの歩きやすさに気分が乗っかっていたからということでもあった。
ほとんど未使用のまま譲ってもらった下駄は硬い鼻緒の締め付けがきつく、足の甲の皮が擦りむけて靴下を履くのも難儀するような事態になってしまっていたのだけれども、それもあって毎日履くことになっていた下駄が少しずつ馴染んでいくのが嬉しくて、痛みを堪えているような自覚さえなかった。たかだか一週間とは言え間が空いて忘れていたスニーカーの歩きやすさに思わず3時間歩いてしまうほど浮かれながらも、道すがら噛み締めていたのは、我ながらうまくない表現だとは思うが、"下駄と足がお互いに馴染んでいくこと"の嬉しさだった。そして「誰でも賢者になれる ひとりなら」という言葉のことを思い出したのは、この下駄と足のことを考えるうち連想されてのことだった。

血が出るほど痛めつけられた足の甲は瘡蓋が取れぬうちに前よりも厚くなり、痛めつけたほうと思われた下駄にも実は負担はかかっていて、その結果鼻緒は柔らかく平らになる。そう考えたときに ああひとりじゃないな、と強く感じたのだけれど、これは決してよく言われる「孤独ではない」というニュアンスのものではなく、なぜって3時間ひとりで歩きながら下駄と足の関係に想いを馳せるのはどう考えても究極に孤独な行動である。

当たり前のように思える言葉でも時にふともっと立体的に、自身固有の現実にしか当てはまらぬと言いたくなるほど強烈な説得力を持っているように感じられることがある。同じひとりの人間のうちでもひとつの言葉が時期によって魅力的であったりいかにもつまらぬものに思えたりするのだから、例えばどれだけ理解のある間柄であったとしても別々の個人間ではその差異は測るべくもない。不規則に”茫洋とうごめいている”二点間のある時点での距離や位置関係を、片方の点の視点で勝手に不変のものと決めつけることはできないのである。それぞれが厚くなったり、柔らかく平らになったりしない限り、血は止まらない。血を流す方ばかりが辛いのでもない、おれは痛みはしても疎ましく思わなかったが、下駄の方では血を付けられて抗えず鬱陶しかったかもしれない。血を流さなければ皮が厚くなることや鼻緒が柔らかくなることが無かったのか、それも実のところはわからず、別のもっと賢い方法があったかもしれないし、血が出るならそんな下駄は履かない、という人もある。

さてそうして10年の孤独な、意味と言えるようなものがあったのかわからない作詞行を続けて来たおれが今年になって提示したある到達点の表象としての言葉「CELEBRATION」に、正面から光を当ててもらったと感じる嬉しいことがあった。アルバムのツアーを組むにあたって富山での企画をお願いしてあったゆーきゃんが、イベントのタイトルを”セレブレイションズ”としてくれたのである。これがなにをそんなに喜ぶことなのか、おれ自身にしかわからないことであるかもしれない。出会って10年近く、まさにこの「誰でも賢者になれる ひとりなら」という呪いに近い言葉を希望に変える可能性をおれに与え続けてくれているのがこのゆーきゃんという先輩であり、それは呪いだとわかっていながら諦めて手放すことをさせてくれない人ということもできるが、尊敬する先輩であるゆーきゃんとおれとの関わりについてはむしろゆーきゃんがいつか書いてくれた文章のほうを読んでもらうのが一番わかりやすいと思うので、この記事の終わりにリンクを貼っておく。

日本に限られたことなのかもしれない、もしかするとおれを対象としたときだけで多くの人の間には実はそんなことはないのかもしれない、それはおれにはよくわからないけれど特にシンガーソングライター同士にはだいたい不思議な遠慮がある。お互いの音楽について踏み込んで言及する文脈の中でも、歌詞やタイトルなんかの、言葉を用いた部分については特に慎重に扱うことが多い。音楽性自体についてはルーツとなったジャンルや参照したレコードの話を嬉々としてできるのに対して、やはり淋しく思うことがある。
それは自分が相手の作品のことを完璧に理解したという奢りを見せず尊重した姿勢を表すためなのか、はたまた「君がそうあるのは否定しないが自分はそうじゃない」という切り離しのような意味を持つ行為なのか、ともかく当然いろいろな場合があるだろうが、今回当然一個のイベントとして独立した日とはいえアルバムのツアーの一カ所のタイトルを、”セレブレイションズ”とする、しかもそれをおれに事前の確認無しに唐突に公開する(すぐあとにメールが来たのでそれはただ順番が適当になっただけかもしれないが)というのは、いま言った不思議な遠慮のまさに真逆の態度であって、それをおれは、大げさに言ってしまえば「お前の言ったことは受け止めたぞ」というサプライズプレゼントのように、バラエティ番組の企画で素人が公衆の面前で恋人にするプロポーズを受けるように感動した。
三週間前に少し改まって、それでもいつものように淡々と自分のおかれたあまりうまくない状況のことを電話してきたゆーきゃんにとっても、ストレートな記号化といえるかはわからないまでもともかく最終的にCELEBRATIONと銘打たれることになったおれの気分の力場のうちに自分が含まれるということが、もしかするといくらかでも希望になったのかもしれない。ゆーきゃんのことだからまた「僕は違う、YOK.ちゃんとおきゃくさんがな」というかもしれない。おれのつくったCELEBRATIONがあまりに頼りないから、自分がその中に含まれるつもりはなくもっと外側から足していくようなイメージで複数形にしたのかもしれない。まったくなんにも考えてなかったかもしれない。そうやって想像する楽しみを与えてもらっただけで既に満足したような気分になっているけれど、もちろんイベント自体はひと月後である。そしてこの数枚程度の文章で表すことのできる内容は、イベント当日そこにあるはずのエネルギーとは比べる気も起きないようなもの。富山の前週に行く北海道のイベントを組んでくれたわたなべなおきくんがこないだ東京に来ていて一緒にカレーを食べた話もしたいが、それはまた別の機会で。彼の尋常ならざる面白さは実際に会わないとわからないという気もする。


若いうたうたいの夢をぼくは知らないけれど: aka rui heya

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