菊地成孔の黙祷と、いただきます ほか

菊地成孔の黙祷と、いただきます

─よくベジタリアンと脳内でバトってみてはすぐ飽きてやめる。去年くらいになんとなくわかったという気がしたのは、宗教的な祈り、例えばキリスト教で懺悔をするとか、原罪というものがあるという前提だとかの謎とつなげて考えてみたとき。特に信仰もないし宗教学をやったとかも一切ない身で言うのだけれど

祈りについてもう少し真剣に考えたことのある人にとっては当たり前のことかもしれないし、とんだ見当違いのことを言っている可能性も大いにあると思う。こういうエクスキューズを排除しよう、ということが後の項で出てくるのだけれど、これについては既に系統だてられている学問や複雑な歴史があるはずの宗教のことを個人的な考え事の材料に使ってしまっているので例外的に必要な牽制と思う。

昔っから人間は他の動物や植物を殺して食うことに躊躇いがなかったわけじゃないんだろうなと腹に落ちてホッとした。いただきますってちゃんと言いなさいっていう教育とか、やっぱり大事なんじゃんと。大人になった時に自分の頭で考えられるようになるまで忘れなければ、子供の頃からわけもわからず強制されていた習慣(たとえばうちには、本を踏むのは超悪いことだという教育があった。これはまあ子供でも意味がすぐわかるが)にも価値があるし、なんなら親自身が意味が分かってなくても形だけ伝承されていけば子供がどっかで考えて意味を理解するということも多々あるだろうし。

菊地成孔のブログを東北の地震の後しばらく読んでいて、黙祷をしてから書いてます、というようなことを毎回冒頭に書いてたと記憶してる。でその後にザ・不謹慎な(しらない世代のために書いておくと当時不謹慎という言葉が流行しまくった)こと、軽口が続いてた。人間が他の生き物を食うのが仕方ないように、菊地成孔は発言、表現のスタイルを変えることはしないよと、そんなようなことだったんだなと。

そこで問題になるのが、祈りを捧げてさえいれば何したっていいのか、悪行と意識しているのならそもそもそれをやめればいいだろうという指摘の存在。ごもっともなんである、これはまじでただの正解なんだが、それはある面ではものすごいズレてるんだよなと強く思う。このズレは相似系が日常の至る所にあって、今のところおれの頭ではうまく説明できないけど大好物な議題のひとつ。スタジオローサHPのコラムでやってるゆーきゃんとの対談にこの話を持ち込みたいと思ってる。あのコラムはずっと止まってるけど近々リニューアルと再始動をします。

不謹慎なことを言うための言い訳としての黙祷ではなく、また他の生き物の犠牲をチャラにするためのいただきます(祈り)ではない、自分が犯してきた罪への赦しを乞う祈りというよりは、いま犯している、またこれからも罪を犯しながら生きていく覚悟として捧げる祈りである面が強いんじゃねえのかなあ、というようなことを思った、そんな話。

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