立場が違えば見え方も違う、の続きは ほか

立場が違えば見え方も違う、の続きは

─友達が遊んでくれなくなるのが嫌だった。1番最初に感じたのは高校3年、受験に向けてみんな忙しそうだったとき。次は就職の時、かと思いきやその頃にはもうおれの友達で新卒で就職するやつなんて数えるほどしかいなかったわ。

1番断絶が激しいと感じたのは子供ができたやつ。決定的に遊んでくれなくなる、というよりもう関係性がはっきり変わってしまうと感じてた。仕方なさが強すぎて死ぬほどつまらなかった。もちろん一昨年自分に子供が産まれた時は反対の立場でそれを感じざるを得なかったけれども、おれの時はたまたまコロ〜ナとドンピシャのタイミングだったので、まあゴシャッとなった。それがなければ多分、あいつは子供いるしなと言われるのが嫌でむしろできる限り外に出ようという意識が働いて、家庭内で揉めてたんじゃないかと思う。そうならなくてほんとによかった、と感じるこの気持ちもそう。完全にこっち側にいる人の気持ちで、以前の自分から見たら当然それは完全にあっち側の人の言うことなんだよな。

あとは例えばよくあるのは帰国子女の変な言葉遣い、説得力の強さ、自信に満ちた感じ、そうゆうものへの理解のし難さからポカホンタスといじってバランスを取ろうとする気持ちの動き、とか。義理親族で外国人と結婚してハーフの子供がいる家族があって、ごく自然に英語と日本語が混じっていく変な言葉遣いになる経過を見てるとなるほどなあ、結果だけ見るとやっぱなんかちょっと変だけど仕方ないのねえ、となる。しかしやっぱ変なものが場を乱しにやってきた時、排斥しようとする気持ちは絶対働く。その気持ちを悪だと言い切るのはセンス悪いと思う。

レイシャルやセクシュアルマイノリティの話に繋げていくと見せかけてそういう話がしたいんじゃなく、まあ別にそう解釈してもらってもいいんだけど、立場が違えば見え方も違う、そのことをどの程度しゃあないと捉えるか ≒ どの程度抗うか、のさじ加減に焦点を絞りつついかに視野を広げて考えるか、というのがすごい大事なんじゃねえかなという話。

おれは受験勉強も就職もしなかったから置いてかれる側の気持ちばかりを味わってきたほう。いやここで置いてかれるという言い方をするのが既に思考を放棄してるんだけど、まあずっとそっち側の立場でやってきて、子供を持って初めて彼岸からもと自分のいた此岸を対岸に臨むということをしたわけだけれど、やっぱりずっと思ってきた通りそんな簡単な話じゃないし、実際に体験をすることと同じくらい、対岸に想像力を働かせようと努力することの意味も強く感じる。実際自分でそうなってみなきゃわかんないよ、と言ってしまうのはやっぱよくないんちゃう?という気持ち。言って切り捨てたくなっちゃう場面もあるけど。そうやって切り捨てたくないなとしんから思うものがいくつもある。人生に不可逆の変化はいくつも訪れて、訪れてというか選択したりさせられたりがあって、結果自然と残った関係を尊ぶのもいいけどそれって既にすごい内向的な態度になっちゃってんじゃねえか。わからんな。たぶんこの話もまた続く。なくしたものやら選べなかったものやらへの言い訳を必死に考えてるだけなのかもしれんし。

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