さらば5月あらゆる魔法のもと(170614)

関心ごとの大部分を天候にまつわることが占めてるので、特別好きな五月が終わってまたしばらく抜け殻か〜と思ってたら30になったりじいちゃんが危篤になったり、何かとバタバタしていました。半年ぐらい?前に床に置いてて踏み砕いたまま作り直してなかった眼鏡を新しく作ったりもした。あとなんか今年はやたら蚊に刺されるし、しかも刺されると例年よりかゆく感じる。

30になるのとはたぶん無関係に、いろんなところから一斉に変われと言われている感じがする。終わった20代を振り返ると確かにクソみたいだったし、歳を経るごとに悲観が強固になってきていたようにも思う。悲観と厭世が過ぎて逆に突き抜けた気楽さも身に付けたと思うし、じゃあもうそれでいいんじゃねえかという見方もある。30になったから、という理由付けはあまりにも、ちょうど10年遅れぐらいの味わいの子供っぽさがあって素直に乗っかりづらいという気もする。でもまあ、もはや自らたのむところがあると言えるのも正直さぐらいのものだし、背伸びしないのを身上としてここまでやってきた。自分の内のガキくささを愛で続けるというのもいいんじゃないかと考えてる。こうして逡巡してる時点で自然に落ち着くことはできない、未熟でいさせてもらうほかないという開き直りもある。答はないけど迷いはない、答がないから迷いもない、答えを探すことはやめないから迷い止むこともない、どれも当てはまる。これまで通り。

ふた晩を神戸のじいちゃんの病室のソファで過ごした(ちょうど誕生日を、寝たきりの老人と2人きりで迎えた)。
金沢時代もけして近所ではなかったし、12歳で東京に越してきてからはいっそう会う機会も減り、近年ツアーのついでに寄るようになる頃にはもうほとんどおれのことを識別できなくなっていたから、祖父と孫としてお互いの思い出はどちらかいうと少ないほうだと思われる。それでもおれにとっては4人の祖父母のうち最後のひとりだった。
ちょーバリバリのエリートサラリーマンで、おれの大学合格の報告をおかんから受けて「早稲田かぁ…」と嘆息したにっくきジジイの、孫のうち確かにおれが一番出来が悪かった(悪い)。もしかすると関西に暮らしているおれのいとこ達と比べてのことなのかもしれんけれども、そんなに興味もなかったのだろうと思う、お叱りは受けずに済んだ。そういう話を思い出すにつけ、(出来不出来は別として、)おれとじいちゃんが、親戚の中では似たところのある人間だったと言えるのかもしれんと、実際はどうあれ言いたい気持ちは出てくる、今となっては。

4つ上の兄貴と段取りの連絡を取っていたなかで、じいちゃんはほんとに体が強かった、運動部だった兄貴が最後(まあ中学生とかだと思うが)まで腕相撲で勝てなかったと聞いた。なんか朧げに覚えているエピソードだった。確かに何年も前からそろそろだ、そろそろだと言わせておきながらものすごい粘りを見せ続けた。栄養を入れられなくなって、確実にいよいよだと言いながら先に神戸に行っていたおかんと入れ替わりにおれが着いて会った、今から数えると亡くなる4日前のじいちゃんも、確かに力強さがあった。
前述した通りおれにはじいちゃんの思い出が多くはなく、だからこそやはり最後くらいは、という思いで2日間の夜番を承った。夜じゅう手を握ったり肩をさすったりしながらじっくり顔を眺めていて、さすがに感じることは多かった。ふた晩というのは、文字にしてしまうと短いな。

93年生きてから人が死ぬのになにが悲しいことがあるかとおれは思う。若い人が大病を患うのとは全く違う、山を越えたら立って歩けた頃に戻れる望みがあるというのではないから、そばで見ていて苦しそうな瞬間に、まだ頑張れとは祈れなかった。もうあとは苦しい時間が短いほうがいいんじゃないかと考えていた。
それでもずいぶん長いこと生きたじいちゃんに、自分と似たドライさのあるはずの、先輩ドライヤーとして、そこんとこどう思うか、できることならじっくり話を聞いてみたかった。結局死ぬなら何のために生きてきたのか、生きててよかったと最後に思ったかどうか。いや、話す機会があったとして、何も聞けなかっただろうな。耳元で大声で話しかけて、コクコクコクとうなずき返してくれたことがふた晩で二度だけあった。

三日間神戸で過ごして誕生日の夕方にいちど東京に戻り、亡くなった報せを受けてまた神戸に向かうその新幹線の中で、普段から少し疲れると決まって持ち出す小説を読んでいていきあたった、主人公が息子へ向けて死の定義を説明することを夢想するシーン。

-したがって僕は、イーヨーよ、(と僕はさきにその発想が僕をとらえた、健全に成長していま大学の二年級にあり、問いかけてくる青年である息子に向けていったのだった)、自分の死の直前にも、サーマスの嘆きを繰りかえすほかにはないのじゃないだろうか?背の高い患者用ベッドを雲のように感じ、青ざめて震えながら。私は一箇の原子のようなものだ。/なんでもないもの、暗闇に置きさられて、けれども私は個として生きている者だ/私は望み、そして感じ、そして泣き、そして呻く。Ah,terrible!terrible!
健全な知能のイーヨーは(現実に障害のあるイーヨーもまた、その表現をつうじてはなんともよく正体のおしはかりえぬ死への恐怖を持ち、かれなりのその乗り越えをはかっているが)、当然に青年らしい死への思いを持つゆえに、困っている、助けてくれとさえいって問いかけてきたのだ。ところがあてにした父親の答ときたら、Ah,terrible!terrible!よりほかにないとふれば、落胆するはずのものであろう。そこで弁解するように、次のようなことをいいそえる自分を思い描いた……
-僕はこのところブレイクの作品と評伝とを読んできて思うことがある。かれの死に方は立派だった。かれ独自の方法の彩飾版画(イルミネイション)をひとつ仕上げ、永年の伴侶として、結婚の署名もできぬ無知な状態から育てあげ、絵の仕事の協力者ともした妻に優しい言葉をかけ、肖像を描いてやり、神をたたえる歌を歌ってから死んだ。ブレイクは若かった昔、愛していた弟が死ぬ際にも、その霊が歓喜に手を打ちならして肉体を離れるのを見た人だった。《樫は斧に切りたおされ、仔羊はナイフで屠られるとも/しかしかれらの永遠の形状(フォルム)はありつづける、永久に、アーメン、ハレルーヤ!》もしかしたら生きてゆくこととは、死の直前の、この心愉快な半日を準備するための過程じゃないのか?たとえ幻影によって心愉快であるのだとしても、そのあとは虚無なのだから、そんなこと気にかける必要はないだろう?ところがこの心愉快な半日のための下準備をすることが、僕にはできていない。僕の父、きみからすればお祖父さんが死んだとしに近づいているのに……
大江健三郎「蚤の幽霊」


葬儀のなかで事前に想像し得なかった感覚は、お棺に最後花をしきつめてふたを閉める時にきた。いずれは誰もがとわかっていることではあるけれど、このあとついに火葬されて身体の形はなくなるという予感に直接強くうたれて涙が止められなかった。(引用のなかの形状(フォルム)という言葉は作中別で説明があるけれど、火葬されて失われる身体の形とはむしろ対極の意味で使われている)その場にいる人たちはもちろん、93年間に関わってきた人たちにとって確かに存在したじいちゃんの身体の、実体としてのそのときどきのありようは想像しようとしてできるものではないけれど、想像しきることのできない時間や感情の重み、ということを感じて、つまりその感じきることのできない量に、自分がここにいることが申し訳ないような不思議な気分になった。
通夜葬式の二日間は天気が良く、震災で大きく景色が変わったその前後の記憶もあやふやだけれど懐かしい神戸の6月の空気を吸えたのもよかった。軽く10年ぶりの親戚ともたくさん話ができて楽しかった。


まだわからんことがたくさんある。
遠慮なく責められる対象が自分しかないから自分をひたすら責め続けてきたのだとして、それも単なる暴力の発露であって、そこに高尚さはおろか優しさもない。それで何が進歩するでもない。自分は人に恵まれましたと紋切り型を言って、本当にグッとくることがある場面もあるだろうが、実際のところ自分のケツは自分で拭くしかないというほうが当たることが多い。20代のはじめに自分の心に刻み、疑うことがなかったわけではないけれどことあるごとに納得させられてきた、自分の人生の大事なことを決めるのは自分ではない、という基本姿勢を、もう一度丁寧に吟味しにかかってみようと、脈絡があるのかわからんが思わされた。
まだ30。眼が悪くなり(眼鏡作るとき測ったら裸眼では両目で0.1だった)頭がぼんやりしてきても、10年やってきた歌がまだうまくなりさえする。
わからんことがまだまだある。年を食えば勝手にわかるということでもない気もするけれども。


「蚤の幽霊」は短編集「新しい人よ眼ざめよ」に収録されています。ちょうど少し前にその中から引用した「雨の木を聴く女たち」に続く時期の短編集で、おれが読んだ大江作品の中でも1,2を争う好きな本。今回引用した部分の直後の展開が本当に号泣ものなんだよな。今年は大江作品の読み返しだけでなく少しは本を読みたいが、どうか。毎年思うは思うしな、、逆立ちの練習もしなきゃだし。
腹に力を入れてゆきたい。

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