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祖父の命日

3年前(2017年)の7月12日、祖父がこの世を去った。92歳だった。

申し訳ないけれど、
祖父が病院のベッドで横になっている姿を見てほっとしてしまった自分がいる。

祖母は小学6年生の時に帰らぬ人となっている。
それからちょうど10年経って、祖父も亡くなった。

小学5年生から祖父母と一緒に暮らしていたため、特に祖父とは長い時間を共にしていたはずだ。

一緒に住み始める前から、将棋を指したり、夏休みの自由工作を一緒に作ってもらったりしていたのをよく覚えている。
祖父は理系の人間で、工作は得意だったようだ。将棋では必ず角の交換から入り、自分の角を手持ちのコマに入れて、僕の角をひっくり返して使っていた。僕も友達と将棋を打つ時は必ずそれを真似ていた。

それから『ヒカルの碁』という漫画が好きだった。
僕の兄が古本屋に行って集めていたのだが、いつの間にか、本棚の漫画を取って勝手に読んでいたらしい。80手前のおじいちゃんが漫画を読んでいたというのが結構信じがたい。碁だったから馴染みがあったのもあるだろうけど。

当時『ヒカルの碁』はたしか完結していたはずだ。全23巻だが、小中学生のお小遣いではたとえ古本でも揃えるのに結構な時間がかかる。

僕らが持っている巻数まで読んでしまうと、「ほい」と千円札を渡してきた。「続きが読みたい」と素直に言うタイプの人間ではなかったけれど、欲には素直だった。

祖父を疎ましく思うようになってしまったのは、一度骨折して以降だったと思う。
僕が高校生くらいの時だ。

僕も兄も部活で帰りが遅く、父は基本家にいない、母も仕事で出ているなんて時に、んちゃを散歩に連れて行ってしまった。んちゃとはペットのパピヨンの名前だ。
(これは記憶が曖昧。もしかしたら祖母だったかもしれない?)

んちゃは散歩が大好きだ。18時頃になると、はやく散歩に行こうと鳴きだす。それを見かねた祖父は当時まだゆっくりではあるがしっかりと歩けたこともあり、リードをつけて連れ出してしまった。
母と僕らは、いつも「んちゃの散歩は絶対に行かないで」と言っていた。

そして骨折。

入院して一気に身体が弱ってしまったみたいで、家から200m先のコンビニに行くのさえ一苦労だった。
祖父はタバコを吸う人だったので、一人コンビニにタバコを買いに行ってしまうのだ。いつの間にかいなくなっていた祖父を探しに、よくコンビニに行った記憶がある。大抵、途中の座れそうな場所で腰を下ろして動けなくなってしまっていた。

本当は僕がタバコを買いに行ってあげたかったけれど、高校生では売ってくれなかった。20歳を超えてからは、2週間に一箱くらいは買って帰ったような気がする。

それから体が弱っていくスピードは早かった。歩けなくなるとは、つまり運動をしなくなるということで、80を超えた人間の肉体は見る見る衰弱していった。

体が衰弱していくと同時に脳内もだんだと幼児化していたのだろう。
好きなお菓子を棚の中にしまい隠してしまう。トイレに間に合わなかったのを必死にごまかそうとする。週2回のデイリー介護サービスの日は露骨に嫌がる。

でも、どこかではっきりと自分の衰弱を認識している祖父もいた。
お風呂に入りたいけれどお願いする時は申し訳なさそうにしたり、おむつを履かないといけないことが歯痒かったり、言葉が出なかったり。

思ったように行動できないということは、相当の苦痛だったはずだ。


しかし、僕はそんな祖父の気持ちをどことなく察しながらも、祖父と一緒にいることの全てにおける遅延が嫌になり、どんどんと距離を開けていた。

家に帰ると排泄物のにおいがしたり、何かの作業中にトイレに行きたがったり、18時頃にんちゃが鳴きだすと「はよ行けはよ行け」と急かしてきたり。
家族なのに、僕は祖父を邪魔者と感じていた。

祖父が亡くなる半年ほど前、何かのタイミングで転んでしまい、再び骨折した。
それからは入院と退院を繰り返す日々だった。よく熱も出すようになった。
そして要介護5の認定。

母は仕事と介護で朝から深夜まで動きっぱなしだったのを覚えている。
6時頃に起きて、朝の介護と自分の身支度をして仕事に出かけ、(家とオフィスが徒歩10分程度の距離だったこともあり)お昼には一度家に戻ってくる。そして再び仕事に行き、夕方過ぎに帰っては、んちゃの散歩と何かしらの祖父の介護を行う。そして夜また、残った仕事を片付けに出て、0時前に帰ってくる。それからお風呂に入るなどして寝るが、必ず深夜の3~4時くらいに一度起きて、祖父の様子を見に行っていた。

兄は就職で滋賀にいた。
僕は実家から大学に通っていたが、正直家にいるのが嫌で遅い時間に帰ったり、いても自分の部屋に籠ったりしていた。母の疲弊は目に見えてわかったけれど、
本当に必要そうな時にしか手伝わなかった。

人は家族が相手だとしても、非常なまでに冷徹になることができる。

自分を一般例に例えたら、自演の免罪符のようだけれど、それでもどうしようもない事実だった。

ある日、祖父が入院している病室に足を運んだ。
4人部屋の奥の右側のベッドに祖父がいるらしい。
扉を開けて、奥まで歩き、カーテンをそっと開ける。

一瞬、部屋を間違えたと思った。
慌てて部屋の標識を確認しに行ったくらいには、わからなかった。

そこには、正気のない、どこか宙空を見ている虚な目、そしてはっきりと形が見えるほどにこけた頬、口からはよだれ。
その時に初めて、生きる目的を失った姿というのを目の当たりにした。

それまで散々蔑ろに扱ってきたくせに、自分勝手にも僕は涙がこみ上げてきた。
急いで置いてあったティッシュを目元に持って行ったけれど、祖父の前で思いっきり泣いてしまった。

それでも祖父は僕が来たことには気付いていなかったみたいで、
隣に座って話しかけることで、ようやく反応した。

何を話しかけたのかは覚えてないけれど、必死に色々と話しかけたのは覚えている。
言葉どれも、祖父の顔を変えることはなかった。

それから、僕はスマホを取り出し、んちゃの写真を見せた。
「わかる?んちゃ、んちゃだよ」

んちゃは ん→ちゃ↗︎と発音するのだけど、祖父は昔から ん↗︎ちゃ↘︎と発音していた。

「ん↗︎ちゃ↘︎?」

ようやく目が動いた。目線がスマホに向いた。僕はその場で、んちゃの写真をまとめたアルバムをつくり、スライドさせながら祖父に見せていった。
勘違いかもしれないけれど、徐々によく見知った顔に戻って行ったように思う。

それでも僕は15分くらいで、耐えられなくなりその場を後にした。

あと1、2回入退院をしてから祖父は亡くなることになる。

危篤状態と聞き、病院に急いだ僕はベッドに横になり、酸素マスクを付けられた祖父を見た。
母と一緒に医師から話を聞き、覚悟はしておいてくださいと言われる。

親戚も同席していたように思うけれどしっかりと覚えてはいない。

祖父はとても苦しそうだった。
足がむくみ、腫れ上がっていた。もはや人間の皮膚とは思えない、ゼリーのような光沢を放つ皮膚。触るとそれは薄い膜でしかなく、がさがさの和紙のようだった。肉はほとんどなくて、何か中で悪いものが膨れ上がっているのだということがわかった。

それから突然、祖父は咳をしだした。

とても苦しそうに喘ぎ、しばらくしてばっと起き上がった。きっと「ばっ」と起き上がる筋肉は当時なかったはずだから、僕がそう感じただけなのだろうけれど、
それでも祖父は、今まで見たこともない剣幕で起き上がった。そして乱暴に酸素マスクを外した。

今でもその光景はよく覚えているし、その時に祖父の口から出てきたか弱い言葉も覚えている。

「もう嫌だ」

子供がだだをこねるように叫んだ。
そして、すぐに医師と看護師によって、もとの姿勢に戻される。


その翌朝、祖父は亡くなった。


あの「もう嫌だ」はそういう「もう嫌だ」だったのだ。

これで辛い思いをしている祖父を見なくて良くなった。
これで母が少しは楽になる。


これで、面倒な思いをしなくて済む。

たぶん、どれも本音だ。

つい先日、実家に帰って祖父のお仏壇の前に座った後、母に話を聞いた。

「ばあちゃんの時は、あんまり丁寧にしてやれなくて、本当にそれが後悔だったから、じいちゃんの時はどんなに苦しくても最後までちゃんとしようって決めていた」

もちろん母にとっての父と、僕にとっての祖父では、思い入れは違う。
けれど、僕がもし、どこかでもう少し優しくなれていたら、もうちょっと違う死に方だったかもしれないと思ってしまう。

「それでもじいちゃんは最後まで、ほとんどボケなしだったし、それなりにマシな死に方だったよ」
と母は言っていた。


合掌。


酒が飲めなくても幸せだ。 言葉を食して生きています。