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片言ながら英語を話せるようになるまでの、長い道のりを振り返ってみた ①

私は今年、71歳になった。

田舎生まれの田舎育ち。外国の人には高校卒業するまで一度も会ったことがなかった。
進学して街に住むようになってからも、結婚してからも、思い出す限り、外国の人との交流は一度もなかった。
私の意識の中に、外国は自分とは関係のないテレビ、映画の中の世界、と言う思いがあって目に入らなかったのかも知れない。

ある時、高校の同窓会名簿を見て、えっ!こんなに同級生で海外との繋がりを持っている人がたくさんいるんだ!とビックリしたものだ。

そんな私が英語を勉強するきっかけとなったのは、友人からの誘いだった。
彼女が言うには、グループで英語を習っているけれど、1人のメンバーが止めてしまって、月謝の負担が大きくなってしまった。
そこで、誰かに声をかけようということになって、あなたに声をかけてみた、というまったく正直、笑えるような話だった。

特別に英語に興味があるわけではなかったけど、ちょっと頭を掠めた思い出があった。

その少し前の年に、ホノルルマラソンをランニングクラブの仲間と走りに行ったことがあった。
日本航空のツァーで、英語は話せなくても、不便も感じなくて、
楽しく過ごしていたのだけど、
ある夜に、タンタラスの丘に夜景を見に行こう、私がタクシーを手配するからと、ランニングクラブの年長の男性からみんなに声がかかった。
待っていると、なんとリムジンが迎えに来て、みんなが初体験で、盛り上がった。
その時、その年長の男性が運転手と普通に会話をしていることが格好良くて、とってもステキだった。
英語が話せるのって良いなと、思った瞬間だった。

そんな訳で、何となく始めてみることにした。
ずっと、40代の半ばで英語を始めたと思っていたけど、今振り返ると、この時、私は50歳の手前だった。

クラスのメンバーは5人。
先生は、青い目のアメリカ人の若いイケメン。
初めての日は、名前を言うだけで声が震え、目を見ることが恥ずかしくてできなかった。
ハンサムなだけにいっそうネ、ハハハ。

クラスの進め方は、先週は、何をしたかとか、何か新しいニュースはあるかなどというおしゃべり。
それから、テキストを開いて、先生の後について声に出して読んでみたり、その後は問題を解いたりして終わる。

何回目かの時に、テープレコーダーで録音しても良いかと尋ねたところ、OKと言われ、授業を録音してみた
聞いてみると、日本語と笑い声ばかり!
先生の日本語の方が、早く上手になるんじゃない?みたいな。
かろうじて勉強したフレーズが聞こえると嬉しかった。

でも、クラスがある前の日に、慌ててテキストを見るくらいの勉強の仕方。

その先生は、日本人のガールフレンドが、アメリカに付いていく決心が出来なくて、結局彼女とと別れて、アメリカに帰っていった。
そんな若い人の恋愛話も、刺戟的でおもしろかった。
ほとんど、日本語だったと思うけど(笑)

次の先生もアメリカ人の男性。
ある時、先生に連絡をしなければならないことがあって、
誰が電話で連絡をするか?
みんなお互いに譲り合ってというより、なすりつけあって、結局ジャンケンで決めた。
運が悪く私が連絡をすることになって。

携帯などなく固定電話の時代。
リーン、リーン 私のドキドキも最高潮!!
" ハロー" 
当然、先生が出ると思ったら、ハローと女性の声。
先生の名前はメンディ。
メンディさんをお願いしますと言いたいのに、私が言った言葉は、
あなたはメンディさんですか?
当然、相手は NO!!
後はもう頭がまっ白!!
どう伝えたのかは全く覚えてない!

メンディさんには何ヶ月位しか教わってなかったけれど、その間に、彼の結婚のパーティがあって、私達のグループも招待を受けた。
初めての参加したパーティは、まるで別の世界!
外国人ばかり!みんな賑やかに踊っている!
来ている日本人も、みんな慣れている感じで馴染んで楽しそう!

私達はと言えば、どうしていいのか分からないで、固まっていた。
もう一組、私達と同じ様に固まっている、同じような年代の女性のグループがいたけど、お互いに言葉を交わすこともなく、チラッチラッと見合うばかりだった。
私はといえば、居心地が悪く、怖じ気づいてもう早く帰りたい思いだけ。
外国のパーティは、こういう感じなんだ!と強烈な印象だった。
英語を習い始めて1年経つか経たないか頃のことだった。

ここまで、読んで頂いてありがとうございます。
この続きは、また今度書こうと思います。




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