前回のnoteについて
前回、朝井リョウさんの「正欲」についてnoteを書いた。
万一読んでくださった人がいる場合、その読み手を考慮せず、感想とも主張とも取れるような文章になってしまった。今まで当たり障りのない文章を書いていたのに。
感想には感想がくることが多いけれど、主張には意見が来ることが多いから面倒くさいなあと思っていたらやっぱり少しだけご意見が来た。
どうやら私は親戚を助けたい「偽善者」で、このゴミみたいな世の中を変えたくて一生懸命主張している女、らしい。
なるほど数少ないけれど奇特なご意見が来ているということは、多分言わないけど思ってますって人も少なからずいるのかなーと思い、自分の書きなぐったような文章力の不足に頭を抱えている。難しい。
お伝えすると、私はこの大きな大きな世の中を変えたいだなんてこれっぽっちも思っていない。
前回も書いたけれど、誰かを救おうと思えば誰かが救われない世界で、誰かが幸せになれば誰かが不快な気分になる世界だ。
だから「異様なもの」を見た時に、それを排除しようとしたりスマホを掲げたり笑ったり眉をひそめたりするのは、「ふつうのひと」からしたら当たり前なのかな、とも思う。
その「異様なもの」と位置づけられた人も普通の人間なんだけども。私にとってはスマホを掲げてる人が「異様な人」に見えるけども。
で、私はその親戚のために主張していると思われてとても鼻についたのだけど、私はそんなに優しくない。
ずっと思っていたことが世の中の雰囲気的にあんまり言えなくて、モヤモヤしていたことのベースが件の親戚だ。
私はその親戚のことが大好きだし、スマホを向ける輩から物理的に守りたい。
でも、そういう「異様な人」を減らすのは無理だと、ずっと前から諦めている。
それは出来ればいい世の中になった方がいいに決まってるけれど、こんなに“多様性”が謳われる社会になっても向けられる視線もスマホのレンズもちっとも変わらない。
私ももしかしたらそちら側になっていたかもしれない。繰り返すが、運が良かっただけだ。
だからこういう世界なんだな、と思っているしかない。おそらくずっと前から根付いていることで、そこから伸びる幹や枝をいくら切ったところでどうにか出来る問題ではないのだ。
そして、混合しないでいただきたいのが“多様性”という言葉に罪は無い。多様性っていい言葉だと思う。私も卒論の時何回か使った。
だけれど、自分が見えない場所も、救われていない人も、全部助けた気になった人が紡ぐ「“多様性”に理解のある社会を」とかいう「理想の社会へあなたも理解してね」的な意味で使われる“多様性”が嫌いなだけだ。
という「感想」を前回あげた。それこそ「理解ある社会に!」という主張では一切ないです。
感想は色々な感想を持っていい社会なのに、主張と感じると急に出た杭を叩きのめすようになる風潮、まさに「正欲」だなと思った。いいか悪いかはわからないけど。
最初に※を入れたけれど、何故かスルーしてる人が多かったみたいなので、補足として失礼する。
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