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今日のブルース⑬ブッカ・ホワイト「いつになったら着替えられる」

いつになったら着替えられる

パーチマン監獄に
ぶち込まれた日のことは忘れない
保釈金を払いに来てくれるやつはいない
いつになったら着替えられるんだろう
いつになったら着替えられるんだろうと思っていた

何日も川を下り
川を下っては着ている服を見た
いつになったら着替えられるんだろう
いつになったら着替えられるんだろうと思いながら

凍える日になるとそれが何日も続き
やつらはオレを冷たい雨の中へ連れ出した
いつになったら着替えられるんだろう
いつになったら着替えられるんだろう

何日も道を歩き
もう歩けないと自分の着ている服を見る
いつになったら着替えられるんだろう
いつになったら着替えられるんだろう

忘れない やつらが俺の服をとりあげて
いつも着ていたのを取りあげて 投げ捨てたときのこと
いつになったら着替えられるんだろう
いつになったら着替えられるんだろう

When Can I Change My Clothes? 
Never will forget that day
When they had me in Parchman Jail
Would no one even come and go my bail
I wonder how long
Before I can change my clothes?
I wonder how long
'Fore I can change my clothes?

So many days I would be sailin' down
I would be sailin' down lookin' down on my clothes
I wonder how long
Before I can change my clothes?
I wonder how long
'Fore I can change my clothes

So many days when the day would be cold
They would car' me out in the rain and cold
I wonder how long
Before I can change my clothes?
I wonder how long
'Fore I can change my clothes?

So many days when the day would be cold
You can stand and look at these convict toes
I wonder how long
Before I can change my clothes?
I wonder how long
'Fore I can change my clothes?

So many days I would be
Walkin' down the road
I can hardly walk for lookin' down on my clothes
I wonder how long
Before I can change my clothes?
I wonder how long
'Fore I can change my clothes
Never will forget that day
When they taken my clothes
Taken my citizen's clothes
And throwed them away

Wonder how long
Before I can change my clothes?
I wonder how long
'Fore I can change my clothes


半径5メートル以内の空間

前回見たように、ロバート・ジョンソンは、視点の移動によって、当時最新のメディアであった映画のような広がりのある空間を演出した。それに対し、本来ブルースの持ち味であったパーソナルな空間にこだわったのが、今回取り上げるブッカ・ホワイトであると言えるかもしれない。一人の人間の能力をこえて、自由に動き回るろばじょんカメラの表現は魅力的だが、少々絵空事的な感じもする。前回の最後に書いたけれど、動きの少ないブルースにも、それなりの魅力があり、ブルースを動かしてきたのは、むしろ、そうした「半径5メートル以内」の空間を通じた世界観であった。

この、「半径5メートル以内」の空間という言葉、若い人の表現を批判するときに、オーバー・フォーティーの大人たちによって批判的な意味で使われることが多い。「半径5メートル以内のことを描くのには長けているが、その外のことを表現する想像力がない」とか。しかし、以前から、そうした批判には疑問があった。ぼく自身もアマチュア・ミュージシャンとして音楽をつくり、歌詞を書くなかで、むしろ「半径5メートル以内」のことがいちばんたいせつであると感じている。卑近なものごとをスキップして、大きな話を空回りさせることの愚かさは、井上陽水が「傘がない」(1972年)でと半世紀も前に俎上にあげたことではなかったか。5メートル以内のことを語るとき、それより外の現実の重みはその当然の背景として、迫ってくる。ちょうど、ブルースが恋愛やセックスについて語るとき、人種差別の過酷な現実は当然その背景にあるが、むしろ語られないことが多いのと同じように。

早く服を着替えたい

この歌の視点は一貫して、「パーチマン監獄」に収監された男のそれであり、ロバート・ジョンソンの「むなしき愛」のように突然移動することもないし、視線の落ち着く先も、たった今着ている、汚れた、汗まみれの自分のシャツである。半径5メートルどころか、半径50センチほどの狭い視覚空間である。それ以外のこともすべてこの「汚れたシャツ」という卑近なものごとに関連づけられているので、語りは常にこの男の目とシャツの間にある。あまりに執拗に、いつ着替えられるのかという言葉がくり返されるので、リスナーは土埃と汗が混じり合った汚れたシャツの臭い、男が今すぐにでも解放されたいと思っているその悪臭を現実のものとして感じ始める。さらに、"citizen clothes"(平服)という言葉と、服を取りあげられたというエピソードから、男が求めているのが清潔さだけではなく、自分の服を自分で管理するという人間として当然の権利、さらに、"citizen"という言葉にほのめかされた、アメリカ市民としての権利であることに思い至るのだ。しかし、多くのブルース・マンはここまで歌わないかもしれない。なぜなら、これが自分の持ち物を自分で管理するというアメリカ市民が持つ当然の権利についての歌であるということは、アフリカ系アメリカ人にとっては、歌いこむまでもない当たり前のことであるからだ。そのことを理解せず、ブルースを表面的な「半径5メートルの歌」であるというやつがいたら、そいつはのぼせ上ったアホ野郎でしかない。現代の日本の若者が、現代のことを歌っている場合も、歌われていないことは、それに気づいていなかったり、それを表現する能力がないのではなく、あまりにも当たり前だから歌われない可能性もある。

「パーチマン農場」と刑務所による強制労働

ブッカ・ホワイトが歌っているのは、刑務所による強制労働という忌むべき現実である。「パーチマン農場」こと「ミシシッピ州立刑務所」は、1901年に設立された農場併設型の刑務所である。それ以前から、南北戦争後のミシシッピ州では、民間の農場に囚人を貸し出しだしてきた。それによって州当局は自らの囚人に対する責任を軽減する一方、囚人の貸し出しを受けた農場主たちは、ただ同然の労働力を手に入れ、農場経営を有利に進めることができたのだ。このたくらみを軌道にのせるために、軽微な罪の者が捕らえられ、奴隷同然に働かされるということが起こった。こうした不正や汚職を隠蔽するため、ミシシッピ州はこうした制度をまるごと飲み込んだ刑務所を作った。それが「ミシシッピ州刑務所」、通称「パーチマン農場」である。ちなみに、ブッカ・ホワイトの他、サン・ハウスなど「パーチマン農場」での生活を経験したブルースマンは少なくない。しかし、すでに述べたように、ホワイトがこの問題を直接語ることはない。もちろん、刑務所における強制労働という問題を知らないわけではない。ホワイトは指をさして問題を指摘するよりも、汚れたシャツを変えたいという卑近な願いを通じて、背後にある大きな問題を、リアリティを持ってリスナーに意識させる。

わたくしごとながら

わたくし事ながら、1993年に自ら書いた青臭い詩に、最近になって曲をつけ録音してアルバム化したのだが、そのなかの「パンクとは何か?」いう曲に、「ぼくのシャツの臭いをかいでごらん。それがきみの臭いなのさ」という歌詞が出てくる。このころはまだブッカ・ホワイトなんか聞いたことなかったはずだが・・・よかったら、ま、聞いてください。


「パーチマン農場ブルース」

ちなみに、ブッカ・ホワイトにはもう一曲、このトピックで、その名も「パーチマン農場ブルース」”Parchman Farm Blues”というブルースがある。冒頭の歌詞は・・・

Judge gimme life this mornin' down on Parchman farm(×2)
But I wouldn’thate it so bad, I left my wife in mourn
判事はオレにパーチマン農場での終身刑を食らわせた
まあ、大したことじゃないが、泣いてる女房残してきたのがね

CD『パーチマン・ファーム』の訳では、「終身刑を食らわせた」の部分が「かつを入れてくれ」になっている(なんじゃそりゃ?)。命に関することで判事がくれるものと言ったら、「終身刑」というありがたくないプレゼントをおいてほかにないじゃないですか。同じくパーチマン農場のことを歌ったサン・ハウスの「郡立農場ブルース」"County Farm Blues"の歌詞「6か月の者もいれば1年の者もいる。だが、哀れなオレはここで終身刑」と比較してみても、これが"life sentence"(終身刑の判決)であることは明らかだ。3行目後半は「女房と家が恋しいよ」"I let my wife and home"となっていて、聞き取りから違っている。自分の終身刑は「大したことじゃない」といいながら妻を気遣うブッカ・ホワイトらしい無骨な優しさが出ているところなのでこの誤訳は見逃せません。

ちなみに、モーズ・アリソンの同名曲は、歌詞も違うし、違う曲と言っていいと思うが、同じ構造、同じテーマのブルースがどこまで「別曲」言い切れるのかは疑問。とにかく、こちらの系統は、クラプトン在籍時のジョン・メイオール&ザ・ブルース・ブレイカーズがカバーしたのもこちら(もっとも、メイオールによるブルース・ハープの独壇場で、クラプトンは何もしていないが)。

ブッカ・ホワイトの系統はずっとあとになって、ジェフ・バックリーが、オリジナルの演奏を忠実に再現していて、なかなか聞かせる。


おぅううううなんて歌い方もブッカっぽくって、好きだったんだなっていうのが伝わって来る。すごくいい。カバーということで言えば、「いつになったら着替えられる」も「パーチマン農場」も元にはワークソングの伝統があって、そのメロディーやリズムがバックリーのような若い世代(生きていれば、55歳でもう若くもないが)のシンガーをも惹きつけるのだろう。



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