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「まっする5」インサイドリポート(鈴木健.txt) 稲田徹と村田晴郎と酒井一圭、 3つの点が紡いだ一生モノのリアル

「まっする5」に稲田徹さんが“客演”で出演すると聞いた時、反射的に村田晴郎さんも絡むだろうなと思った。声優としてのポテンシャルを最大限に生かせる対戦相手としては、同じく声を生業とする者同士の方が描きやすい。

村田さんは2008年10月6日の新木場1stRING「マッスル坂井自主興行」にて、闘いながら自分の試合を実況するという体でしれっとデビュー。その日のうちにヒールターンし、初代IMGP世界6人タッグ王座決定トーナメントに趙雲子龍&パイレーツ・オブ・カリビアンcomとのトリオで出場したものの、わずか2試合で惜しまれつつも引退。

だが2009年11月29日、後楽園ホールで開催された「監獄島プレゼンツ運営権が欲しければ、殺せ!バトルロイヤル」でカムバック。高木三四郎にオーバー・ザ・トップロープで勝つという微妙な戦績を残している。そうした“免疫”がある方だから、スーパー・ササダンゴ・マシンも当たり前のように考えると思ったわけだが、稲田さんとの絡みが決まったのは公演数日前のギリギリだったという。

「数ヵ月前にDDTさんから『稲田さん、まっするに出ませんか? 事務所にはまだ通していないですけど、まずは稲田さんがやりたいか、やりたくないか個人の考えをお聞きしたいんです』という連絡がありました。自分でもビックリするぐらいの即答で『やります!』って言ったんですけど、その時点ではプロレスをやるとは思っていなかったんです。たとえば煽りVのナレーションをその場でやるとか、悪いやつに『これを読め!』と強要されるとか、あくまで読み手として関わると思っていたら(マッスル)坂井さんと顔を合わせた時に『稲田さんのファイトスタイルは、体が大きいから受け身は取らなくていいと思うんです」というようなことを言われて。ファイトスタイル? 僕、闘う方ですか!?』と聞いたら、食い気味に『はい』と言われました。

それで稽古が始まって初日あたりはササダンゴさんから『稲田さんと小池袋百合子都知事が闘って、稲田さんが勝って一件落着』みたいなことを言われていたんです。納谷(幸男)さんと向かい合うのは怖いな、でも声優の中ではデカい自分よりも大きな人に向かっていって、やられながらも頑張る姿を見せるのもありかなと覚悟を決めたら、後楽園の4日前に『稲田さんは村田さんと闘います』と言われて。道場を使った稽古の初日に、実況のみで参加する予定だった村田さんに試合のオファーを出したらやりますとなって、翌々日に合流してもらったんです」

プロレスは、点と点が線で結ばれることにより物語が紡がれる。本番のリング上で村田さんが言っていた通り、2人はプライベートでもつきあいがありそこで語り合っていたことが今回、形となった。ガンダム好きの村田さんにとって『∀ガンダム』のハリー・オード役として「ユニバース!」と叫ぶ稲田さんはせん望の対象であり、またZERO-ONE旗揚げ戦の実況から「逃げた」稲田さんからすれば、その道の第一線で活躍する村田さんは尊敬すべき同じ声による表現者だった。

「村田さんがレッスルユニバースにつなげてくれた部分もあるんです。『いつか稲田さんにレッスルユニバースで“ユニバース!”と叫んでもらいたいですね』と焼き肉を食べながら言っていて。それで去年、コロナで全然仕事がなくなって2ヵ月ぶりに来た仕事がレッスルユニバースのナレーションだったんです。村田さんが推してくれたかはわからないけど、そういう話を誰かが聞いてユニバースは稲田さんとなったのかもしれない。このつながりの根っこに、村田さんがいるのは間違いない。

そんな人と闘うのは、最初はワクワクしたんです。でも、村田さんと僕は闘う理由があるんだなと。僕は実況から逃げた人間で、村田さんはそれで飯を食っている。敗北感というか、俺は逃げた人間だと常に劣等感で生きているわけじゃないけど、逃げたところで立派にやっている人と闘って勝てたら自信にもつながるんじゃないか。そう気持ちを切り替えて、闘う動機ができたんです。だから、自分でもよくできた物語だと思います」

ササダンゴは、そんな2人の関係性を聞いていた。自身もラジオへ携わり、何人かのアナウンサーと仕事する中で気づいたことがあった。

「アナウンサーの人が一番冷静でうまいんですよ。状況に応じて勝手に言葉を埋めていく。見られ方が違うというか、どう聞かれたら見えるのかがわかっている。TBSラジオに出た時も、ラジオのスタッフの方こそプロレスが見えている。音の人たちといろいろ話して、音がこれからの重要なコンテンツになると思ったんです」

そこから導き出されたのが稲田さんの出演であり、稽古を進めていく中で生じた村田さんというひらめきだった。やはり、まっするはナマモノ。その時点でササダンゴに何が引っかかるか、そしてピンときたらそれまでの流れをドラスティックに変えられる姿勢も持っている。

今回、結ばれた点は稲田さんと村田さんだけではない。そもそも稲田さんは「マッスル」が後楽園ホールに初進出した2005年10月2日からずっと見続けていた。きっかけとなったのは酒井一圭のプロレスデビュー。

特撮俳優時代の代表作『百獣戦隊ガオレンジャー』に、声で共演(悪の大ボス・シュテン役)した稲田さんを「今度プロレスラーとしてデビューするんだ。見に来てよ」と酒井は誘った。正直、コミカルなプロレスは苦手だったのが、たちまちマッスルにハマってしまう。

「オモシロ方向へ完全に振り切っていて、なんて面白いんだろうと一圭さんが出なくなってからもずっと見ていました。20年後の再会という最終回(2010年10月6日)まで見て、そのあと両国国技館で復活したのも見にいきましたし。プロレスを題材にして面白い方向を伸ばしながら、生々しいぐらいの生き様を乗せるじゃないですか。スローモーションにしてもギャグなのかと思ったら、その人のパーソナルな部分をガツンと入れてくる。そこへ強烈に惹かれましたね。僕が体験してきたプロレスを題材にした表現の中で、ああいうのは初めてでした。プロレスに関係ない部分も見せて、それがあるからリング上で負けられないという見せ方も、今まで見てきたものと全然違っていた。

僕らの仕事は役を与えられて演じる部分だけですけど、エンターテインメントとしての自由さ…自分の中で枠を決めずに面白いと思ったことはやった方がいいという姿勢に影響を与えられたと思います。僕は、全然関係ない役にキン肉マンのアドリブを入れたりするんですけど、そういう部分とちょっと共通するものを感じていました」

ササダンゴいわく(https://www.samurai-tv.com/jougai_full/2109.html)、声優としてデカすぎると売れないと考え、人間味のある184cm、105kgのスペックにしている稲田さんは、じっさいのところ「どう見ても187cm、125kgはある」らしい。そんなケンドー・ナガサキばりのビジュアルでありながら、誰もあの稲田徹が通い続けていたことに現場で気づかなかった。

8月1日より和歌山マリーナシティにて開催中の「機界戦隊ゼンカイジャーvs百獣戦隊ガオレンジャースペシャルバトルステージ」では酒井が総合プロデューサーを務め、CMナレーションとして稲田さんを指名している。そんな関係性があるから、自身の実家であるマッスル/まっするに稲田さんが出ることは酒井にとっても感慨があったはず。

もっとも、稲田さん的にはマッスルにドハマりしたからといって、自分がそのリングに上がるとは思っていなかった。それは、プロレスファンならば誰もが線引きをする神聖なる場との思いがあったからだ。

「一圭さんがやっていましたけど、そこにいくまでにはネームバリューであったり真剣味であったり、人とのつながりが大事だと思っていたので、僕はたどりつけないと思っていました。プロレスは僕にとって神聖すぎて、素人が入ってやっちゃいけないというものだった。一圭さんがやっていたのはそういう場だからいいとして、自分はないなと。

清水愛ちゃんがプロレスをやるって言った時、ようやるなあ、俺はできないと思った。でも見たら場外に飛んだりとか、すごいことをやっていて思い切りがいいなと感心させられたんですけど、自分はずっと運動していたわけじゃないんで、リングの中に入ることは考えていなかったですね。ただ、正直言うとあこがれはずっとありました。プロレスにもマッスルにも」

ほかのどのプロレスでもなく、心を揺さぶられ続けてきたまっするだったことが、迷うたびに背中を押し続けた。それでも…怖かった。技を受けることよりも、かける時の方がどうしようもなく怖くて怖くて、仕方がなかった。

「技をかけることになって、プロレスラーの方々の受け身は信じていましたけど万が一はあるじゃないですか。アフレコで失敗しても死なないけど、プロレスで失敗したら死ぬ。死の可能性がある仕事なんですよ。ラリアット合戦のシーンで村田さんが転びましたけど、あれで筋がいっちゃったり、ラリアットを変なやり方してヒジが曲がっちゃって明日から台本が持てなくなったりするかもしれない。そういう危険と背中合わせに立つことが本当に怖かった。今までやったことがない表現もたくさんあって、ツイッターに泣き言を書いて吐き出さないと自分を保てなかったですよね」

そんな思いを背負いながら稲田さんは多くのセリフをこなし、ダンスも踊り、肉体表現を続けて「まっする5」のクライマックスシーンを迎える。ここで村田さんが語りかけたことは、もちろん台本にはなかった。

これまでのように、ササダンゴは公演の肝となる部分を演者に託した。そして、稽古の場でも村田さんはその内容を口にしなかった。その場でリアルを描くならば、ぶっつけ本番の不意打ち以外にない。

そこで語られたのは稲田さんの物語であり、かつ自身と稲田さんの物語でもあった。混じりけのない本当の話だからその場へいた者にも響いた。あんなにザクザクと音を立てるかのように突き刺さる言葉を当事者として至近距離で浴びるのだから、稲田さんとしてはたまらない。

「ただただ泣くのを耐えていました、泣いてはいましたけど。しゃくりあげたらセリフを言えなくなるから、途中からぎゅっと受け取りすぎないよう眉間にしわを寄せて耐えたんですけど、熱い言葉だから届くんですよ。あんなことを言われると闘う理由がなくなっちゃうじゃないですか。その場で抱擁して終わりですよ。でもね、お互いあこがれたリングに立てたんだから、その場を用意してもらったんだからやろうという方に持っていきました」

もう、誰の目もはばかることなく抱き合いたかっただろう。でも、これはまっするなのだ。そのあとにやらなければならない場面へ移る役目があった。稽古で何度もやったテツラリアット(仮)とムラタリアット(仮)の相打ちシーンは、3度目で両者大の字となるはずだったが1発目で村田さんが倒れてしまい、両者ダウンのさいも村田さんが足を滑らせかすった程度となってしまう。

リングに土足で上がりたくないとの思いから、村田さんは靴を脱いでロープをまたいだ。それが裏目に出てしまった。でも、そこで「当たってないじゃん」などとは誰も思わない。そんなことを超越したリアルなやり合いが繰り広げられていたからだ。見れば、本職のプロレスラーたちが素人同士のしょっぱい攻防に身を乗り出し、声援を送っていた。

「練習もしましたけど練習通りにいかないですね。村田さん(の動き)が追いつかなかったのもわかります。1発目で倒れちゃったからヤベエと。互角の闘いのはずが、僕の方が体重あるから倒れちゃって。でもあそこにあったもののすべてがリアルだったんですよ」

リアルだからうまくいかない。それでよかったのだと思う。後楽園を踏まえて追加公演の9・11北沢タウンホール昼の部では、村田さんはシューズを履いたままリングへ上がった。にもかかわらず、今度は前につんのめる形でまた倒れてしまった。

昼の部と夜の部の休憩時間、村田さんは普段ならば絶対にやらないが自発的に無人のリングへ上がりロープワークを練習し始めた。すると、休んでいた選手が一人、また一人と中へ入りレクチャーを始めた。技をかけることへ対する恐怖に押し潰されそうになった稲田さんを支えたのも、プロレスラーたちだった。

「皆さんが安全になるよう尽力してくれました。みんなが助けてくれるんだな、ハートがやさしいんだなと。本当にみんな、やさしかった。一人ぐらい感じの悪い人がいるかと思ったけどいなかったです。(2人の攻防をレスラーが見守っていた)あれ、横目に入るんですけどすげえ泣きそうになりました。見るまでもないものを見てくれているんですから。

舞台や殺陣はやったことがありますけど、ここまでシンドくないし痛くもない。プロレスは痛いしシンドいし、ロープに飛ぶだけで背中が痛い。最初にロープへ飛ぶ練習をして一日置いて、もう一度やったら骨が折れるんじゃないかというぐらいだった。樋口(和貞)さんも相撲からプロレス転向して最初の頃は痛かったって言っていて、それまで鍛えていた人でも痛いのかと驚きました」

村田さんとの闘いがなぜラリアット合戦なのか。それも、リモートプロレスのシーンで自分のナレーションをつけた樋口が出したという伏線だった。そして、乱入してきた翔太に「ユニバース!」と叫びながらラストライドを放った時も、プロレスの神様がそこにいて事故にならぬよう力を貸してくれた。

「僕のつたないラストライドを受けてくださった翔太さん、ありがとうございました!」

北沢で3公演をやりきった稲田さんはそう言って涙した。2006年、WWE殿堂入りを果たしたさいにブレット・ハートがスピーチで言った「プロレスは信頼によって描かれる芸術である」のセリフを思い起こした。

初日の後楽園、そして千穐楽の北沢夜の部もササダンゴは涙でマスクをびしょびしょにした。作り手の想像を超えるものを生み出すのは演者のパーソナルな力と、それを引き出す一座としての力。

「シンプルに言います。メッチャ気持ちよかったです! でもね、これが最初で最後です。やっぱり素人がやるもんじゃない。49歳のおじさんが子どもの頃に持っていた夢を全員でかなえてくれた。アニメ頑張ってきてよかったです。エンデヴァーやほかの作品を見ていましたと、少年のように目をキラキラさせてみんなが言ってきて、俺がやってきたことってちゃんと俺が尊敬するレスラーに届いているんだなと、お互いから影響を受けて頑張っていることを感じられた。あこがれの世界だけど、俺の仕事も彼らの力になれているのかもしれないって思えました。

今後もDDTのために何かできるならば力になりたい。しばらくは煽りVのナレーションだけど、まっするに出ろと言われたら……また『やります!』と即答しちゃうんでしょうね、ハハハ」

この3公演とそこまでの稽古で、稲田さんは10年分の汗を流したと思われる。そして村田さんにとってはそんな稲田さんに報いることが今回の理由づけとなり、本物のハリー・オードが繰り出す技をその場で実況するという一生モノの瞬間へとつながったのだった。

後楽園公演の翌日、純烈は東京お台場 大江戸温泉物語における最後のライブへ臨んだ。同所では定期的にコンサートを開催しており、グループとそのファンにとって聖地と呼べるかけがえのない場所だったが、9月5日をもって閉館を迎えることが決まっていた。

最後のライブを終え、すべての取材もこなし一息ついた酒井一圭に前夜の報告をする。そして稲田さんと村田さんのやり合いを動画で見せた。それはもう、嬉しそうな笑顔が浮かんだ。お二人とササダンゴに見せたかった。

「稲田さんもよかったし、その相手が村田さんというのもね。マッスル(坂井)はこんなすごいものを作り出しちゃったんだ」

稲田さんだけでなく、酒井にとっては村田さんもマッスル時代の盟友である。従来のプロレスのように、歴史を重ねてきたことでまっするも点と点がつながる舞台となっていくのだろう。

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