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まっする4大阪昼夜公演レビュー(鈴木健.txt) 回を重ねるごとに高まる満足感 仕切り直しの年の追加公演という実験

「まっする4」大阪昼夜公演に見たライブの強み

昨年9月21日、品川ザ・グランドホールにて開催された「まっする3」は、11・9後楽園ホールに向けての公開稽古と銘打たれていた。だが、じっさいはまったく違う内容に。スーパー・ササダンゴ・マシンいわく「8割ぐらいは同じものを後楽園でやるつもりでした。でも、そこから1ヵ月半経った自分たちをちゃんと見せないといけないと思ったんです」とのことだったが、平田一喜の物語をメインに据えたあの作品は2度見せる性質のものではなく、正しい判断と言えた。

ただ、その一方で「いつかは再演という形で見たい」との思いが本人の中に残ったのも事実。一話完結であると同時に、回を重ねることによってクオリティーを上げられる可能性があるものであれば、そのような願望が頭をもたげてくるのも作り手としての性だろう。

演劇の舞台も初日より最終日の方が慣れてきて呼吸や間合いもつかめる分、いいモノになるケースは多い。何よりも「マッスル」の時代からササダンゴの頭には“追加公演”の概念があった。

同じものを見せるのが演劇であるのに対し、通常プロレスの興行は同じになることがない。たとえ第1試合からメインまで同一カードを並べても、試合内容は違ってくる。だから2016年9月29&30日に初めて2日間公演をおこなったさいに、マッスル坂井は「同じ内容になったら、それは奇跡です」と言った。

ただ、まったく同じようでいてところどころに違いは生じる。2007年5・4後楽園&5・5Zepp Nagoyaの「マッスルハウス4」でもそうだった。当時は、どちらかというと追加公演における再現度がポイントで、そこが通常のプロレスにはないマッスルの持ち味とされたが、あれから10年以上が経過しひらがなまっするとなった今回は、純演劇の中にプロレスの要素が入ることによる“違い”をいかに描けるか、それでいて1回目より2回目、2回目より3回目と高められるかがササダンゴの目指したところだった。

「追加公演という形は以前もやったんですけど、プロレス業界におけるDDTの立ち位置も変わってきている状況の中で追加公演を面白いものとしてお客さんが受け入れてくれるかどうか。同じ台本、同じ演出の作品を、細かいところは変わりますけど大筋は変わらないものを試合の結果とかも含めてやるというのは、チャレンジであると思うんです。

それができることによって、プロレスのよさとか面白さとか、もちろん勝ち負けの結果も大事ですけどそういうもの以前の出来不出来とか面白さの再発見。強さも大きな物差しだと思うけれども、別のプロレスの面白さの価値みたいなもの。結果がわかっていても楽しめるコンテンツかどうか試されると思うんです。そこに関しては今回の大阪における真剣勝負でした」

まっするの本体であるDDTの業界内における立ち位置は、初めて追加公演を試みた当時と違うものになっている。一度やって受け入れられたのだから…と楽観視してしまうものだが、ササダンゴはむしろ現在の方が楽しんでもらえるかどうかのハードルが高くなっていると感じた。

確かにあれから10年以上も経てばファンは入れ変わるし、DDTのパブリックイメージも少しずつ違ったものになってきた。ましてや9日前に後楽園で開催され、WRESTLE UNIVERSEやサムライTVで生中継されその全容が“ネタバレ”している作品を楽しんでもらえるのか。

結論からいうと大阪は昼夜とも(昼が「追加公演」で夜が通常公演とされたのは、先に夜の日程が決まっていたため)、選手たちの姿勢や気持ちによって違う作品を見たという実感が得られた。たとえばユウキロックと鶴見亜門による「ハリガネ姉妹」の漫才は東京とまったく違うネタに挑み、夜の部では「てのりタイホー」の渡瀬瑞基が打ち合わせになかった「納谷の家の話」をぶっこみ、キョドった相方の納谷幸男が無意識にツッコんで骨折している渡瀬の左手を叩くという“ライブ性”を生み出した。

「まっするだから同じものになる」という先入観があるからこそ、夜の部でみなみかわが青木真也を丸め込んで3カウントを奪った瞬間のドッカーン!っぷりはすさまじかった。それが演劇であろうと格闘技であろうと、人間は意表を突かれれば驚く。

3度のミックスド・システマ・マーシャル・アーツ戦でみなみかわが経験した痛みや苦しさはリアルなもの。わずか3公演であったとしても、そこに積み重ねがあったから観客は通常の試合を見たかのように心からの拍手を送ったのだ。

また、ラッパーと化した愛息を見るべく来場した“大阪のゴッドマザー”こと竹下恵子さんが昼の部のてのりタイホーを「全然おもろうないわ」と断罪。これに発奮し「絶対に竹下さんとこのおかんを笑わせる」と息巻いたため、渡瀬が飛び道具を出してきたというのが識者の一致した見解だった。

その甲斐あって、夜の部では恵子嬢もスタンディングオベーションで二人を絶賛。勢いに任せて関係ないことまで長々と喋ろうとしたため、ササダンゴが「次いきましょう」とコメントをブッチ切ったほどで、こうしたところも大阪ならではの味つけとなった。

後楽園は稽古したことを忠実に演じるのがマストで、大阪昼はそこで生じた課題と各自が向き合いブラッシュアップされ、そして夜は最終公演ということで自由度が格段に増した。それこそが、プロレスというナマモノに携わるプロレスラーたちに染みついたライブ性だった。

そうした中、誰よりも“千穐楽ハイ”になったのはアントーニオ本多。今回のまっするは『俺の家の話』を叩き台としたが、3公演目は西田敏行でもなんでもなく、その枠から解き放たれ“75歳のお爺さん”を大開放する表現者としての姿があった。

チョロ漏れするアドリブのセリフ一つひとつが、ご老人がいるとしか思えない言い回しで繰り出され、そのたびに笑い死にさせられそうになった。アントンがすごいのは、そうした流れの中でプロレスの技を出す時はキレッキレの動きを見せること。最後のバイオニックエルボーだけでなく、静から動に転じるエルボードロップの“タメ”による美しさはある意味、ザ・ロックのピープルズエルボーを凌駕するほどのものだったし、竹下幸之介とのパンチによる会話も、まっするがプロレスであることを再認識させる重要な場面と言えた。

「同じものという前提の上での変化を描きたかったですし、描けるだろう、描けるに違いないと。ちゃんと3回見られるものにしたくて、それを見ても楽しめる部分は変わらないという感情が一緒であればいいなと。3回目が1回目よりよかったという感想があったとしたら、それって本当に素晴らしいことだと思いませんか? 僕らがやっている普段のプロレスの興行のよさが、そこから逆算されてあぶり出されるんじゃないかと思います。プロレスがほかのジャンルと比べて圧倒的に強い部分がここなんじゃないかって、僕は思う。

本道、邪道、王道といろいろあるけど本質の一端があった。それほど全選手がすごいと思った。アントンは神懸かっていたし、竹下との物語をまっするで描けたのもよかったし。今のDDTが突きつけられているテーマみたいなものもちょっとずつ描けている。だからまっするは、DDTにとってなきゃならないものだと思うんです。こういう時間は絶対必要。みんなが普段の闘いやストーリーから離れて、まっするという作品と向かい合うのは、それこそ深呼吸しているようなもの。今年は仕切り直しのタイミングだと思うんで、そこで流されるがままやっちゃうとダメ。落ち着いてしっかりやらないとダメなんで、自分の普段の仕事とかプロレスとかも含めて大事な時期だと思っています」

あくまでも観客がどう感じたかが答えとしつつも、作り手としての手応えを聞くと「今回の実験はうまくいった。僕の考えるDDTらしさの一つの形であり、DDTとしても大きな一歩になった」としたササダンゴ。その口ぶりに、思うところがあった。

ササダンゴは『俺の家の話』のプロレス版などではなく、それを超えるエンターテインメントを描きたかったのではないか。マッスル時代は何かをモチーフにしてそれを膨らまし、プロレスならではの味つけによるバカバカしさでウヒャウヒャしていれば楽しめた。

でも、今のまっするはそこに頼らなくても見る者の心に響く作品を創れる。なぜなら、仲間たちに恵まれているから。

常人にはない肉体を誇り、プロレスの技や動きは本格的、その上でセリフを覚えてダンスも踊れ、ラップもこなせる。一概に横へ並べて比較はできずとも、まっする一座には本職の俳優にはないスペックがある(その逆もしかり)。

ただでさえ自分の人生と被る作品に対し、模倣して満足するのではなくそれをライブでやることによってより見る者の心に届くものを生み出したい――クリエイターとして、本気でそう思っても不思議ではない。

民放テレビのドラマと、プロレスの枠内にある一公演では世間的な認知度は遥かに違う。それでもササダンゴはこの座組に胸を張れるはず。プロレスだからこそ描けるライブ性に、絶対的な自信を持っているのだ。

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