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noteは腎臓であり記事はアラである。
noteをずっと続けている事を「すごいですね」と褒めてもらえることがあります。まず、続けている事自体を褒められることが多く、もう1つはアウトプットしていることを褒められます。
でも、私から言わせると「またnote書いちゃった…」なんです。比べるとすれば「また酒飲んじゃった…」に近いんです。あるいは「またスイーツ食べちゃった…」「またカツ丼食べちゃった…」にも近いんです。要するにnoteを書くことは自分に負けていることである、という自覚があるんです。
私がnoteを書いて後悔する理由はいくつかあるんですが、一番大きいのは「やった気になる」ということです。何かクリエイティブなモノを仕上げたかのような、作品を1本書き上げたかのような勘違いが生まれるんです。ノルマにしている1投稿2000文字を超えた文章を書き終えると、とてつもない事をやり遂げた気になってしまうのです。午前中に書き終えたとしたら「今日はこんなものかな…」と思って、午後サボってしまうのです。たかだか自分がいま思っている事を、校正もせずに乱暴に投稿しているだけなのにです。
私は作品と作品でないものの違いをハッキリ持っていまして、私が作品だと思っているものは、たくさん作ってきた短編映画と長編映画の『Shell and Joint』だけです。クライアントの意向が少しでも入った「短編映画的なモノ」も私にとっては作品ではないんです。この自分のHPにあるものだけが作品なんです。
分かりやすく言うと、自分で0から1以上を生み出したものということになります。
そして、自分の意志で「これで完成!」と制作を終えたものでもあります。誰かにチェックされて、最終的な誰かのOKによって完成するものは作品ではないんです。だから当たり前ですが広告の仕事は1本も作品ではありません。自分の意志で完成させられませんから。
短編映画や長編映画の制作過程で、スタッフやプロデューサーと議論をしたとしても、最終的には監督である自分が「これで完成!」と決断するんです。そうやって出来たものが私にとっての作品なんです。
noteの投稿は、そうやって生み出された作品を作ったかのような気にさせられるのです。自分1人で書いていることによって、大いなる勘違いをさせられるのです。イカンのです。遺憾なのです。イ・カン(1623年〜1684年)なのです。チョ・マテヨ(1772年〜1823年)なのです。
もう1つの後悔は、noteを書いてる時間がもったいない事です。私がnoteを書くのは体内に溜まってきた不純物を腎臓で濾して排出している様なもので、何かを生み出しているものではありません。頭の中に湧き上がってきたどうでもいい考えを、文字にして外に排出しているだけなんです。noteは腎臓で、記事は尿なのです。だから「どうでもいい日記」なのです。
もしこうやってnoteを書いてる時間、小説でも書いていたら、今ごろ何本の小説が「作品」として生み出されていたことかと思うのです。クオリティの高い低いや売れる売れないは関係なく「作品」という名義の文章が残されていたはずなんです。
でも私がこうやって書いてる文章は、未来への種まきをしている訳でもなく、最終的に本にまとめられる内容でもなく、単なるアウトプットなんです。「いや、毎日のようにアウトプットが出来て、それが続けられるなんて素晴らしいじゃないですか!」と言ってくれる人がいるかも知れませんが、全然素晴らしくないんです。魚のアラを店頭に並べてるようなものなんです。キレイに柵取りされた刺身じゃないんです。
そして驚くべきは、この魚のアラをサブスクで買ってくれる方々がいるのです。現代の資本主義社会は大丈夫でしょうか。心配になってきます。
いやしかし!
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