見出し画像

元高校球児の視点で読む『夏、イエー』桑山千雪

はじめまして。きあまいあーです。名前は中学生の時にYouTubeで好プレー集を見て以来、憧れの選手である現トロント・ブルージェイズのケビン・キアマイアーから取りました。小中高と9年間野球をしていましたが、全くもってヘタクソでした。かなしいね

 本記事は、2021年9月の箱イベの報酬カードの『夏、イエ-』桑山千雪のコミュを「元高校球児の視点から読んでみよう」というそのままの内容です。私はシャニマスのコミュの中でトップクラスに『夏、イエー』の世界観が好きなのですが、「あれ、このコミュって野球部の人間にしか通じないこと多くね?」と思うことが結構ありました。なので、元野球部という一応の「当事者」の立場としてどのようにコミュを読んだかっていう指針があれば便利なんじゃなかな~という気持ちとただひたすら『夏、イエ-』の良さを語りたいという理由で、この記事の執筆にいたりました。

本記事が、コミュの解釈の一つの支えになれば幸いです。

(注:タイトルでは『夏、イエー』の解釈としているが、野球に関連するコミュはその中でもイベント『最高だぜー』にほとんど集約されているため、今回は『最高だぜー』のみの解釈としている。



「最高だった」彼ら

それでは早速、「夏、イエー」のコミュを読んでいこう。場面は何かの撮影に備えて、プロデューサーと千雪が真夏の公園でキャッチボールをしているシーンから始まる。そして休憩をする間に、美術部員だった千雪から見た野球部の姿が回想される。

この中で描かれるのは、具体的に誰だとか、どれくらい強かったかなんて話題のない、ただありふれた野球部の話だ。高校時代の千雪にとって、野球部は「窓の外から見たり聞いたりするもの」であったという。その後も、桑山千雪から見た野球部の回想が続く。


その中で千雪に耳に残っているのは、野球部たちの「最高だぜ!」という声だった。しかし、実際にはそれは「さー行こうぜ!」の掛け声の空耳だった。それでも、千雪はその言葉の中に、確かに「最高」な彼らの青春を感じていたのだ。

このコミュの上手いところは、そんな「野球部のわけ分かんない掛け声の空耳」から、コミュのストーリーを展開させいていくところだ。自分も高校の3年間、いや確か中学校に入ってからずっと周りからしたら何を言っているか全く聞き取れないような声を出し続けてきた。当時は全くそれが変だとは思わなかったし、当たり前のものだと思ってた。多分野球部のほとんどは、あの掛け声について何もおかしいものはないと思っているのではないだろか。
千雪はそんなかけ声の音を「最高だぜ」と聞こえた通りに受け取り、さらに意味もそのままの通りに受け取って、「最高だぜって叫びたくなるくらいに最高な彼らなんだろうな」と考えていたのだ。

「一球で夏が終わる」の意味

 そして、野球部のかけ声について話ている中で、プロデューサーの「一球で、夏が終わったりするんだもな」という台詞で、二人の会話の温度が若干変わる。

 ここの「一球で、夏が終わったりする」という台詞はまさしく「高校野球」と言わんばかりの台詞であるが、それ故に野球にあまり詳しくない人にとっては何を言っているのか全く分からないという事になるかもしれないので、説明を入れておく。野球には「先攻」と「後攻」があり、九回以降に後攻のチームが逆転したり、勝ち越したりすると「サヨナラ勝ち」となり、その時点で試合が終わる。まだ仮に1アウトしか取っていなくて、3アウトを取り切っていなくても、まだランナーが残っていても後攻のチームが先攻のチームよりも点数を多く取った時点で試合が終わるのだ。つまり、先攻チームにとっては、試合終了ないしは自分の高校野球人生の終わりが突然前触れもなくやってくることになる。

 実際、自分の夏も一球で終わった。延長の11回、同点から最後は力尽きてサヨナラ負けだった。だから「一球で、夏が終わったりするんだもんな」という言葉にはめちゃくちゃ頷きたくなるし、お前そのセリフよく俺の担当の台詞に持ってきたな〜ありがとう〜〜ってなってる。

 話を戻そう。このことを踏まえると、この台詞においてプロデューサーが強調しているのは「夏は、予想もつかない時に突然終わる時だってある。そんな先の見えない中だからこそ、その時その時の一瞬が最高でなくてはいけない」というメッセージである。さらに、何かが終わること、それまでをどう過ごすかということを何気ない台詞の中に入れてくるあたりに、”シャニマス”を感じられずにはいられない。


桑山千雪の始める「夏」とは


そして、コミュの終盤は2人が休憩を終えた後、千雪が「夏、はじめますから」「この一球から」と言いながら、ずっしりとしたボールをプロデューサーに投げる場面で終わる。
 ここで桑山千雪が始める「夏」とは一体何なのだろか。
それは、千雪がこの一球を投げる(=野球に触れる)ことによって、最高の瞬間を過ごし続けた「彼ら」の気持ちを感じることではないのではないか。
勝ち負け、強さは関係なく、彼らなりに最高だった野球部達。千雪はそんな彼らを、美術部員として外から見るだけの存在だった。

 そんな野球部達の「最高」な経験を、この一球を投げることによって始める。そんな事を最後のシーンでは意味しているのではないだろうか。


終わりと感想、雑記

 本コミュでは、野球部という存在が一貫して当事者、もしくは主人公としてではなく、桑山千雪という一人のアイドルから傍観される側として語られる。しかも、メインに話しているのは彼らから聞こえてくる声であり、具体的にどうのこうのを語るわけでもない。
それでも、桑山千雪にとって、そんな野球部───強豪校で勝ち進んだ訳でも、ドラフト指名される選手がいるわけでもない。ただその瞬間に声を出していだけの、ある意味で「何でもない」野球部───は「最高な彼ら」として記憶に刻まれているのだ。

 つまり、千雪的には「勝つことだけじゃなくて、野球をしていたことに意味がある」と考えていることが分かる。これは、「勝者」になれなかったすべての野球部に対するある種のエールにもなっている。

 ここからは一般論というよりも個人の感覚の話だが、野球部という部活は比較的他の部活に比べて、その競技自体を「楽しむ」ということよりも、「勝つ」ということを求められることが多いスポーツだったのではと思う時がある。(少なくとも、個人の体感として中学⇒高校に上がる段階で野球を続ける人が大きく減るのはここの要素が大きく関わっていると考えている)

 それが故に多くの選手は勝つことに対するハングリー精神とか、負けることに対する恥の意識なんかを無意識的に内包していく。

 しかし、すべての人間が勝者になれる訳ではない。勝者がいれば、必然的に敗者が生まれるし。しかも、最後まで勝者として残れるのはわずか一握りの中の一握りだ。多くの場合は敗者で終わる。
 だから、「勝てなかった」という後悔や悔しさ、恥の気持ちだったりを高校を卒業した後もずっと持ち続け、今でもどこか引きずっている人間というのはかなりの数がいると思う。

そんな中での「勝ちではなく、野球をしていたことそれ自体が最高なんだ」という千雪の視点は、最後に煮え切らない夏を送り、常に心の隅で悔い続けている彼らに、そっと寄り添うものになっていると考える。