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【極私的】近鉄バファローズの球団創設期のお話

実はふくしまは数年前、とあるwebサイトにプロ野球チームの球団史を書くというお仕事をしていました。

このサイトとは某まとめサイトで、あんまり深堀しすぎるとよろしくないというスタイルだったのでサラッとしたことしか書かなかったのですが…このテのネタが好きな人間としてはやる必要もないのについつい深堀りしちゃったんですよね。

で、書くトコがないので居酒屋で野球の話になった時にしゃべるネタとして数年放っておいたのですが…近鉄のロゴが岡本太郎デザインというのを意外と知られていないということを知ったので、ちょろっと書きたくなっちゃったんですよ。

ただ、近鉄バファローズの原稿を書くのに必要不可欠な佐野正幸さんとは面識がないため、数年前に図書館にあるプロ野球史をまとめた本や当時のスポーツ新聞を読んだ時に得た知識と、当時の時代背景とか主観を混ぜつつ、書いていこうかなと。

ということで、近鉄バファローズのお話。

なんで「パール」なの?

まず、近鉄球団の創設は1949年のことで「近鉄パールス」というチーム名で誕生しました。

ちなみに名前の由来は近鉄沿線の伊勢志摩地方の名物である真珠(パール)の養殖から。他のチームがタイガー(虎)とかドラゴン(竜)とか獰猛な肉食系の動物の名前を付けて強そうなチームにしている中でパールって…とは思うけれど、まあここは置いておきましょうか。広島だってカープ(鯉)なわけだし。

ただこのパールス、球団ができたのはいいものの、ホントに弱かった。というのも、関西を拠点とした鉄道会社が母体のチームは他に阪神、阪急、南海とすでに3つもあるところに食傷気味に加入しちゃったもんだから、この中で最も後発である近鉄にはいい選手はもちろん、名のある指導者も入ってこないし。

というのも、当時のプロ野球界にはドラフト制度がなかったため、新人選手の獲得はコネorカネの2択。だから戦前から豊富な資金力を備えていた巨人は相変わらず強かったし、その巨人出身の三原脩が監督になった西鉄は三原のコネで中西太らを獲得するなどして黄金時代を築いていった。

そんな時代だからこそ、カネもコネもない近鉄がいきなり各球団に太刀打ちしようなんてのはさすがにムチャな話というわけで。

ということで、近鉄は球団創立から4年連続で最下位に低迷。5年目の1954年に勝率5割を超えてやっとAクラス入りを果たしたものの、そのあとは5位→5位→6位(7チーム中)と低迷。しかも1958年には勝率.238でブッチギリの最下位に転落。球団が創立して9年間で優勝はおろかAクラスも一度きり。その一方で5回も最下位に落ちている。

…さすがにこれはマズいということで近鉄もとうとう血の入れ替えを決行することに。そこで白羽の矢が立ったのが元巨人のスター選手、千葉茂でした。

カツカレーだけじゃない!千葉茂の近鉄監督エピソード

千葉茂と言えば、巨人時代に行きつけのレストラン「グリルスイス」でカツカレーを考案したことで知られる人物ですが、当時の球界では人望が厚いキャラとして知られる全国区のスター選手。今で言えばDeNAの初年度監督に中畑清が来たような感じだったんじゃないかと思います。

地味なチームを盛り上げるにはこれ以上ない人選だったことでしょう。うまくいけば千葉のコネで有望な選手がガンガン入るようになるかもしれないし、チームが強くなれば、観客も増えて売り上げも上がるし…と、球団関係者はそろばんをパチパチやっていたんじゃないかなと思います。

「元巨人のスターが監督になった」のがよほどうれしかったのか、近鉄は千葉の監督就任と同時にチームの看板である「パールス」という球団名を変更することを決断。スポーツ紙4社を使って一般投稿を募るという大キャンペーンを敷いた結果、最も多かったのが千葉の愛称だった「猛牛」を英語にした「バファロー」。これでチーム名は近鉄バファローに改名することに。

とはいえ、三原や水原茂(当時の巨人監督)みたいに実績のある監督ならまだしも、いくらスター選手だからとはいえ、指導者経験ゼロの千葉が監督になったらどうなるかわからないというのに、チームの看板である名前まで変えちゃうというこの当時のノリが面白いですね。

さて、冷遇されていた巨人の二軍監督時代とは異なり、監督就任しただけでここまで歓迎してくれた近鉄に対して千葉は大いに喜び、チームのロゴを友人である岡本太郎に依頼。その結果、あの猛牛マークが生まれたわけで。

ちなみにこのデザイン、当時のファンにもめちゃめちゃ刺さったようで、近鉄バファロー初年度である1959年の球団帽の売り上げが12球団中、巨人に次いで第2位だったとか。

外面だけでなく、千葉は近鉄の内部も徐々に変えることに。就任初年度は巨人の選手を3人、さらに翌年は5人と常勝球団・巨人の血を入れることで弱小チームを強いチームへと変貌させようとしたけれど…ハッキリ言ってこれが裏目に出ちゃいました。

いくら当時の近鉄の選手たちのレベルがイマイチだったからとはいえ、彼らだって曲がりなりにもプロの世界にまでやってきた選手たち。自分たちを使わずに気心の知れた元巨人の選手やコーチばかりを重用した千葉のやり方はさすがに選手たちからの反発を生むことに。

中でもひどかったのが鈴木武。1954年には盗塁王を獲得した俊足選手でしたが、千葉が監督に就任した後の鈴木はベンチを温めることが増加。何かというと「巨人の野球」を押し付けてくる千葉やコーチ陣にも反発した結果、鈴木は二軍に幽閉され、冷や飯を食わされるハメに。

そこまでしてかたくなに「巨人の野球」をゴリ押しした千葉でしたが、肝心の成績はいきなり2年連続最下位と低迷。さらに反発分子だった鈴木は1960年のシーズン途中に大洋にトレードされると、正遊撃手としてチームを支える存在となり、結果、大洋は球団創立初の日本一に輝くなど、立場は完全に逆転しちゃいました。

これが堪えたのか、翌1961年の近鉄はプロ野球史上最多となるシーズン103敗を記録。就任当時あれだけ期待された千葉は「地上最低の監督」とボロクソに叩かれてたった3年で辞任することに。残ったのはバファローのチーム名とあのロゴだけになってしまいました。

まあ、千葉を擁護すると当時の近鉄は球団を強くするために必要なお金をあまり出してくれなかったらしく、「大金を払ってでもいい選手を獲って!」とお願いしたり、チームの遠征で使う電車の席を3等席からせめて2等席に上げるよう求めたりとチームの体質改善に努めたんだとか。

もっとも、千葉の在籍中に大型補強と言えるようなものはなかったし、移動の際の席も選手全員ではなく、「2等席は監督・コーチ含めて15名までにして」とあしらわれるなど、あまり聞いてもらった感じはないけれど。

なんで「バファローズ」?「バファロー」であってるじゃん!

さて、近鉄バファロー。ここまでボコボコにやられたのなら、いっそチーム名も変えちゃえとなりそうなところですが、そうならなかったのはおそらく人気が高かった岡本太郎のデザインのロゴのおかげかと。なんせ球団帽は12球団中2位の売り上げを誇ったわけだしね。

でも、この時近鉄はいちおー、チーム名を変えたんですよ。「近鉄バファロー」から「近鉄バファローズ」に。

というのも、最初の「バファロー」は千葉のみを表してのもの。球団としては当時はそれでもよかったけれど、やっぱり主役になるのは選手たちという考えに戻り、「全員が猛牛になろう」という意味を込めてバファローズに変わったという話なのですが…まあ苦しい言い訳というかなんというか。

ってか、広島カープがそうだけど、群れで生活する動物は単複同数形なので、文法的にはバファローであっているはずなのに、わざわざ間違ったほうにするとは…当時の球団関係者に会えたら、この辺りを詳しく聞きたいですね。

多分、球団名は変えたいけど、岡本太郎デザインを捨てるのは惜しい…という苦肉の策な気がします。だからですかね、ユニフォームはちょいちょいモデルチェンジしましたが、ロゴだけは絶対いじらなかったのって。

この後は土井正博が18歳の4番打者として台頭し、1965年のドラフト会議で鈴木啓示が入団して、その10年後くらいに西本幸雄が監督になって、79年にには「江夏の21球」があって、それからまた10年後くらいに10.19が起きて、次の年に加藤哲郎が巨人に対して「ロッテより弱い」って言っちゃって、野茂英雄が入団したと思ったらアメリカに行っちゃって、ローズが55本塁打打って、岩隈久志が開幕から勝ちまくってたら球団が消滅して…

という流れになるのですが、この辺りはかなり詳しく書かれた本がすでに世の中にあるので、詳しくはそっちを読んでもらったほうがいいかなと思います。それこそ佐野正幸さんの著作とかね。


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