見出し画像

「~すぎる」は本当に溢れているか

いろんなところで見る「~すぎる」や「~すぎた」という表現につい引いてしまう。
身近な人の話の中で、同じ表現があってもなんとも思わないので、
「見ず知らずの他人の価値観から溢れたレベルを教えられてもな」という気持ちになってしまうんだと思う。

でも、「どのくらいすぎるんだろう」と、ついそのレベルを確認したくなる人の気持ちもわかるため、
【釣り】の手法としては、とても優秀なのだろう。
どの程度ならtoo much なのか、皆が知りたいのだ。
そして、たしかにこれは・・w、と言いたいし、こんなんじゃ大したことない!、と言いたいのだ。
自分の感覚、価値観、を他人と照らし合わせたい、と人は常に考えているらしい。

自分の感覚が信用できない、他人はどう感じるか知りたい、出来ればみんなと同じ感性で居たい、と思うらしい。
自分の感情を信頼していない社会で育った結果だ。

面白くない。


一方、それを知ってか知らずか
「~すぎた」として誰かの目に留まりやすい文章を書く人の
その時の感情は本当に

(うっわ・・まじか、いや、ちょっとまって!これ○○すぎる!!)

と思っていたかどうか、
瞳孔は開き汗が吹き出し口は閉じることを忘れ脈拍数は急激に増加、していたかどうか。

そんなことは、本当に どうでもよすぎる。
気持ちを共有したい人たちの、遊び方の一つだと思って
あまり考えないことにしていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?