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もうひとつのライナーノーツ —ケンドリック・ラマー『Mr. Morale & The Big Steppers』日本盤発売に寄せて—

誰にでもそれぞれの「The Art of Peer Pressure」があるのと同様に、誰にでもそれぞれの「Father Time」や「Mother I Sober」があると思う。これを読んでいるあなたにあなたなりの「Father Time」や「Mother I Sober」が無いというのであれば、それはそれは素晴らしいことだと思うけれども、僕はきっとあなたを信用できないだろう。ごめん、「信用できない」は言いすぎた。でも、たぶん、そういうペインボディを持たない人間、あるいはペインボディに自覚的になる機会を持ってこなかった人間に、僕はどこか違う生き物を見るような視線を向けてしまうと思う。こればっかりはしょうがない。

「Father Time」と「Mother I Sober」、特に後者で語られる内容はあまりにショッキングであるし、安易に「共感した」などとは言うべきではないし、言えないというのが常識的な感覚だと思う。ただ、それは別に相手がコンプトン出身の黒人=ケンドリック・ラマー(Kendrick Lamar)だから、ではないことも確認しておきたい。そもそも誰かの体験というのはその人に固有のものであって、近しい境遇の人のそれであっても慎重な態度で向き合うべき、というのが僕の考えだ。たしかにケンドリックは曲中で“Black families”という言葉を用いているし、黒人コミュニティにおいて特に言及が避けられがちな話題を提起したことには意味があると思う。でも、だから「これは米国の黒人の話であって、そうでない自分には理解が及ばない」などと言って距離を置くべきなのかというと、そうは思わない。そのようにいわばラベルを貼る行為は、ともすれば〈個〉としてのケンドリックを無視し、何か重要なものを見落とし、自分の抱える問題をunderestimateしてしまうことにつながりかねないからだ。

今一度『Mr. Morale & The Big Steppers』を聴き返してみる。同作を貫く大きなテーマの一つは、ペインボディの発露と、そこへの気づきと、カウンセリングや瞑想を通じた、世代を超えて連綿と受け継がれるペインボディの克服という、一定程度の普遍性を有したものであった。少なくとも僕はそう捉えている。そこで、ケンドリックを「コンプトン出身」や「米国の黒人」でなく「ペインボディを抱えた存在」と捉え直してみる。すると、我々との共通項が見出せる。ならば本作を、我々一人ひとりがペインボディに向き合い、enlightenmentを目指す契機にしてもよいのではないか? 胸に手を当ててみると、思い出すのは小学校時代のことだ。

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