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幸せの核に近づくための自分メモ #3

◆ 数ヶ月に1回程度、Instagramで #ポケットいっぱいの涙 #サウスセントラル #ボーイズンザフッド #ポエティックジャスティス などを検索し、片っ端からLikeしていくというのをやっている。音楽に関して趣味が合う or 近しい人から発せられる情報はTwitter上で十分に得られている(というか消化しきれていない)ので、その周辺の映画だったり書籍だったりについて誰かが何か言っているのをサラッと見たいなと思い、気が向いたタイミングでこうするのだ。ちなみに、検索に用いているのはこの投稿(↓)のキャプション部分。『ポップ・ガン』、涙が出るほど笑えるのに、Netflixで観れなくなって残念。Prime Videoにあるにはあるが、観れないっぽい。

◆ 「○○に行った」なんていうのは人に吹聴するようなことではなく、自分の中に思い出として持っていればいいと考えるようになってから、コンプトンやクレンショーで撮った写真はIGのフィードから消した。それでも #サウスセントラル で検索して出てくる投稿を見ると、今でも心が躍る。自分と同じ〈人種〉と思しき人が、ワッツ塔やニプシーの壁画の前でドヤ顔で写真に収まっているのを見ると、「そうだよな、嬉しいよな」とニヤニヤしながらダブル・タップしてしまう。

◆ 例えば、スヌープの『Doggystyle』でもいいし、ケンドリックの『good kid, m.A.A.d city』でもいい。それらの作品を聴いて、各曲の音楽的構造に興味を持って深掘りしたくなる人もいれば、アルバムとしてのストーリー展開に興味を持ってGeniusを読み漁る人もいるだろう。彼らの思想に興味を持つ人もいるかもしれない。僕の場合、それらを聴いて最も興味を持ったのは〈土地〉だった。だから、そうした土地が舞台になっている映画を観ることも、実際にそこに足を運ぶことも、自分にとっては必然だった。そして足を運ぶたびに、自分の好きな要素が詰まったその場所からエナジーを吸収しているような感覚さえあった。当たり前といえば当たり前のことだが、コロナでそれができないことが自分にとっていかに大きな打撃かを、#サウスセントラル で検索して出てくるIG投稿を見るたびに痛感するのだ。

◆ 人生において成し遂げたいことって、実は無いんじゃないか? あるとしても、これまで思い描いてきたようなことではないんじゃないか? そう考え始めたのは昨年のことだった。そんな今でも明確にバケット・リストに入っている事項が2つある。「最低1年はLAに住む」「ベンチプレスで100kg挙げる」だ。もっとも、後者は今からでも始められるはずなのに着手していないわけだから、実はこれもそんなにやりたいことではないのかもしれない。でも、前者はかなりの確からしさを持って本当にやりたいことだと言える。

◆ 昨年、「そもそもなぜ自分はLAに住みたいんだ?」と思ったタイミングで、『マイ・ブロック』のアブエリータの言葉に出会って、考えるのをやめた。人生における大きな目的(purpose)があって、そのために次の行動を決するのではない。その時々の目的地(destination)にたどり着くことを目指す。その繰り返しでいいのだ、と。

◆ それでもあえて前述の問いに答えるならば、結局は「見栄っ張りだから」なんだと思う。それは、世間一般に対する見栄ではない。ワッツ塔やニプシーの壁画の前でドヤ顔で写真に収まっている、自分と同じ〈人種〉の人たちに対する見栄だ。より正確にいえば、そうした見栄が半分、あとは単純に「LAに住んだことがあるかどうか」が自分の中でmatterするというのが半分。どこに住んだことがあるかなど人の価値を決定する要素たりえない、などと正論を返されたら、仰るとおりとしか言いようがない。しかし、少なくとも今の自分は、そうした経験を持っているか否かがmatterする程度には小さな人間なのだと思う。Tupacの壁画の前でドヤ顔の自分の写真をフィードから削除するには、まだちょっと早かったのかもしれない。しかし同時に、その時々のdestinationに到着することを繰り返していけば、いつかはそうした執着を手放せるはずだという、根拠のない自信もある。

◆ ちなみに、そのTupacの壁画、今では隣にニプシーも追加されているみたい。Pacが上手すぎるだけに、ニップの似てなさが際立つ。。

まずはこれを自分の目で確かめるのが次のdestinationかな。いつになることやら…。

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