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『小鳥ことり、サクラヤマのぼれ』19

 【雨の一夜】
 
 サクラヤマまで戻ってきたは良かったが、ヒワは、その中、少しだけ高くなった場所に小山をみつけ、「え?」とつい声を出して立ち止まった。
 小山のまん中あたりから、ルリコがぴょこんと起き上がる。
「よかった。誰かに会えた?」
 すでにいつものルリコの声音に戻っている。
「うん……」脇の少女を抱きかかえるようにして、桜の木々の間をくぐる。
「ひとりだけ、連れて来た」
「そう」
 救えなかったの? と責めるわけでも、恐いよ、と震えるわけでもなくルリコはさもないように続ける。
「まあ、一人でも多い方がいいかも、こうして押しくらまんじゅうで、寒さをしのごうか、ってことになってさ」
「いいかも、わかった」
 ルリコが、連れられてきた少女を小山の内側に招く。ケンイチはすっかり、敷物の代わりに底辺に寝かされていた。
「ヒワちゃん、外側でだいじょうぶ?」
「大丈夫だよ」
 ルリコに重なるようにうつぶせになる。いったん起き上がり、ルリコに
「待っててくれてありがとう」改めて礼を言った。
 ルリコの右手がそっと、ヒワの腕に触れた。
 
 まだ暑い季節だというのに、身体の芯まで冷えていく。
 冷たい雨がどんどん体温を奪い、体力を削り取っていくのだ。
 レジャーシートはルリコと自分とでそれぞれ一枚ずつ持って来ていたが、それを頭からかぶっても全員の上には賄えない。どうしてもっと大きな、ブルーシートみたいなものを持ってこなかったんだろう、とヒワはくちびるをかんだ。
 それでもできるだけ、一番小さなツヨシと次に小さなサエが濡れにくいよう、その上をそれぞれのシートで覆ってやる。レジャーシートに描かれたスヌーピーの大きな鼻がツヨシの頭に寄り添うように当たっていた。
 
 ビニールで少しは暖かい空気が保たれているせいか、雨が直接当たるのが少ないせいか少しだけ寒いのに耐えられるようになってきていた。
 しかし、湿った土と踏みつけた草が絡まり合う匂いが思いのほか強くて、そこに人間の体臭が混じり、ヒワは頭がガンガンしてきた。小さな子どもからはスナック菓子を湿らせた匂いと駄目になった牛乳の混じり合った匂いとが胃をかき回し、思春期の子には甘く饐えた香りが沁みついていて、それらすべてがごたごたにかき混ぜられ、恐怖が臭気として表されているかのようだった。
 そしてどこかずっと鼻の奥にこびりついている、血と腐肉のにおい。
 これは自分たちからではない、この地、足もとの地面からじわじわとにじみ出ているように、ヒワには思えてならなかった。
―― ちりーん
 金具が鳴る、かすかな音がした気がして、ヒワは、はっと我にかえる。 
 いつの間にか、うとうとしていたようだ。
 ―― ちりーん
 確かに、また鳴った。
 すぐ隣にいたルリコも、気づいたように身を起こす。
「何?」
 ルリコはもうろうとしていたようだ。「何?」また口に出している。
「聴こえたよね」
 ヒワもゆっくりと上体を起こし、耳を澄ます。
―― ちりーん
―― かーん
 どこかで確かに聴いた音だった。
 スガオやサエちゃんも気づいたようで、もぞもぞしながらも起き上がる。
―― ちりーん
 懐かしい音。ヒワには確かに覚えがあった。
 しかし……思い出せない。
―― かーん
―― ちりーん
 ゆっくりと、しわがれた女声が鈴の音に乗って、歌い出す。
 耳元を吹き過ぎる風よりもまだ、かすかだがそれは確かに抑揚をつけてヒワのところにまで届いていた。
―― ●●●●そわかぁぁ
―― ●●たまえぇ、●●たまえぇぇ
「これ……」
 ルリコが夢うつつにつぶやいている。
「おばあちゃんがよく、やってたヤツだ」
 ヒワも急に思い出した。
 祖父よりもずいぶん前に、祖母は亡くなっていた。
 しかしヒワが幼い頃、時おり、祖母が鳴らす鈴と鐘の音を確かに聴いていたのだった。
「オショウヤ、だよね……」
「うん」
―― ……の国の出の 黒衆の はじめの九人 ここにまつりて
 拝むひとこえ
 山八つ 谷は九つ 身は一つ 我が行く末は 鳥の里
 みな人の 悪しき病を 救はんと ちかいの船に のるぞうれしき
  ヒワがずっと以前に聴いた、御詠歌ごえいかの一節が、途切れ途切れに耳に届く。
 
 オショウヤ、と地元で呼びならわされていたその歌は、代々女性たちに受け継がれていた。
 仏事の折りに、そしてたまには神事の後にも女たちはそれぞれの御鈴おりんと鐘とを持って集い、夜通し謡っていた。
 すでに元白鳥では御詠歌の風習は廃れていたようだ。
 祖母が亡くなった時、御詠歌の用具一式が出てきて、誰が相続するかで親戚一同がもめたことがあった。
 いわく、すでに村から出ている人間には全く意味がない道具だ、
 いわく、すでにこの地区でも『オショウヤ』など、どこでもやる人は残っていない……
 煌めく小さな鐘と、持ち手に紫の立派な房がついた鈴と、小さな槌と、わずかな経本の束、それを見つめて、幼いヒワは大人たちの会話をただぽんやりと聞いていた。
―― こんなにきれいな楽器なのに、もう、ムヨウノチョウブツ、なんだ。
 でも、ムヨウノチョウブツ、ってなんだろ?
 
 すっかり忘れ果てていたその歌声が、高く低く、雨音に混じってどこからともなく響いてくる。 
―― ちりーん
―― かーん
「やだ」サエちゃんが耳を押さえる。「こわい」
 スガオも、ツヨシも半泣きになっていた。
「何この歌」
「キモい、どっから流れてるんだよ」
「こわい」
「こわいよ」
 御詠歌は、確かに何かに捧げるための歌のはずなのに、聴けばきくほど、ヒワは落ち着かない気分になる。
「みんな、耳を押さえて」
 そう言って自分も耳を押さえたが
「止まない!」
 スガオがついに叫び出す。「耳を押さえても、中から聴こえてくる!」
 わぁぁぁ、スガオの叫びが闇を切り裂く。
「オレたちやっぱりここで死ぬんだ、だから聴こえるんだ、やっぱここから出ないと死ぬ、オレたちみんな死ぬよヤバイよ、しぬんだ、もう帰る、ここを出」
 ぱん、と乾いた音が響く。
 スガオが立ちすくんでいた。
 頬を押さえて。
 その前に立ちふさがるように、ルリコが片手を振り上げたままスガオを睨んでいた。
「ルリコ……」スガオが笛の鳴るようなかすかな声を出す。
「なんで叩くんだよ」
「誰もここから出ちゃ駄目だよ」ルリコの声はあくまで冷静だ。
 そうだよ、とヒワも加勢する。
「雨が止むまで、出ちゃならん、だからね」
 スガオが崩れ落ちる。
「だってさ」もう自我もすっかり崩れ落ちているようだ。
「あ、あ、雨が止まなきゃ、出られないんだろ? 雨が止まなきゃ」
「うん」ヒワは、スガオが言いたいことが痛いほどわかる。
「雨、いつ止むんだよぉぉぉ」すでに彼は号泣している。
「だいじょうぶだよ」ヒワの言葉には全く説得力はない。
「明けない夜はない、止まない雨もないんだから」
「そうそう」ルリコの相槌すら、闇の中に空虚にひびいた。
 
「どうしよう」
 ヒワは声に出さずに唇だけでつぶやいていた。
 夜明けまで耐えられないかもしれない。
 しかも、夜明けに雨が止んでなかったら、更にここにいなければならないのだ。
 いてもたってもいられぬ焦燥感に、ヒワはつい立ち上がろうと足を動かし、そして気づいた。
 ヒワはそのまま動作を止める。
 踏んでいた草のすぐ根元に、何かがうごめいたのだ。
 手に持っていたライトで照らしてみると、大きなムカデが青白い光の中に浮かび上がった。
 最初は丸まっていたので、誰かのリュックの紐か飾りなのかも、と思ったがそれは確かにぞろりと動き、ヒワは声にならない悲鳴をあげる。
 黒光りする胴体は指の太さよりも少し大きく、並んだ足が鮮やかなオレンジ色だった。虫は今まさにヒワの足先から逃れ、人がいちばん重なっている中心部分に潜り込もうとしていた。大きな鋏のついた顎先が、片足をたて膝にしたルリコの右膝元三センチまで迫っている。
「う、ルリちゃん」
 刺激しないようにルリコをつつく。目だけこちらを向いたルリコに、
「静かに。動かさないで、足。そのままそっと見て、右の膝のところ……」
 つられるように、ルリコが目線を下げる。ヒワが照らした時、ムカデは更に数ミリほど膝がしらに近づいていた。
 ルリコはそこに視線をくぎ付けにしたままだ。表情は全く変わらない。
 ムカデは出方をうかがうように短い触角を振り、ルリコの膝の前をこするように迂回していった。ヒワはゆっくりと、まともに照らさないようライトで追う。
 ムカデの向うすぐ先に、地面につけているツヨシの小さな手が照らし出された。
 と、動きは突然だった。ヒワにも何が起こったのか分からなかった。
 ルリコは土についていた膝を立てて中腰になったはずみに、そのかかとで思い切りムカデの頭を踏みつけた。まわりはどちらかと言えばぬかるんでいたが、下にちょうど石でもあったのか、ムカデはがっちりとかかとに挟みこまれたようで、ぐねりと胴体をうねらせた。
 ルリコによりかかるようにしていたツヨシがバランスを崩して前につんのめる。そこに左手を伸ばしルリコはツヨシの野球帽をかっさらった。
 すぐに右手に持ち替え、上からうねる胴体にかぶせ、ぐるりと器用に丸めこみツバを無理やり折り曲げてさらに丸め、そのまま真後ろ、桜の大木の並ぶ方へ思いっきり投げ捨てた。
 あっという間のお手並みで、数秒もかからないほどだったろう。
 ツヨシは虫には気づいていなかったせいで、自分の帽子になされた圧倒的な暴力行為に、終始唖然としている。
 そこにルリコはすかさず言った。
「ツヨシ、アンタがあんなふうになるのはイヤでしょ? だったらガマンして」
 その剣幕に、ツヨシは事情も分からないまま、泣き声すら飲みこんでまたうつむいた。
「すごいね……」
 ヒワは純粋に感動していた。「さすがだよ、ルリちゃん」
 何も答えないので、怒っているのかと横目でみたら、ルリコはひとり、肩を震わせている。本当は、かなり怖かったのだと今更ながらヒワも気づいた。
 ルリコの肩をそっと抱き寄せ、震えが止まるまでヒワは抱きとめていた。

 あたりがとっぷりと暮れたが、ケンイチにはまだ動きがない。もしかしたら死んでしまったのか、とそっと近くにきていたケンイチの口元に手を持って行くが、息のあたる様子もない。背中の、胸のあたりを強く押さえてみると、ようやく、とくんとくん、と速いペースだったがかすかに心拍が伝わってきた。
「さむい」
 一番小さいツヨシがそうつぶやくと、息が白く立ち上がった。
 姉のミチエは、弟にスヌーピーのシートを固く巻きつけ直して、上からギュッと抱きよせた。「はい、海苔巻き一丁」ちょっぴりふざけて言ってみせたミチエの声も、かすかに震えている。
 残った子どもたちは、しぜんとひと塊りになっていた……倒れたままのケンイチの周りに。
 
 低く垂れこめているだろう雲の中、ゴオゴオと低い爆音が轟いている。
 いつもは聞き慣れている、飛行機のエンジン音のようだ。
 この村の上空は、地域的にも長距離旅客機の通り道になっているらしく、こうして夜になってもよく飛行機がゆっくりと横切っていくのを、ヒワも知っていた。
 ヒワはぼんやりと上空を見上げる。
 大きく育った木々のせいで、空はあまりのぞめない。それでも、飛行機の音はいつもとあまり変わりなく、地上にまでしっかりと届いていた。
 気づくとルリコも、空を見上げている。
 雨の夜、妙に地に響くその同じ音に耳を澄ませているようだ。
 ふと、ヒワと目が合った。ふたりはしばし見つめあい、だんだんと音が小さくなってやがて、消えたのに気づいた時にそろって小さく息を吐いていた。
「おかしいよね」
 たずねられもしなかったのに、ヒワはそうつぶやいてかすかに笑う。
 まだ笑みが残っていたのが不思議だった。 
「こんな切羽詰まった状況なのにさ……」
 ルリコも同じことを思っていたようだ。
「うん」やはり、かすかに笑みを浮かべて続ける。
「飛行機に乗った人たちって、私たちのことなんて何も知らずに、この上を通り過ぎて行くんだろうね」
「お土産何買ってこよう、とかね」
 声に出さずに二人は笑う、束の間だけ、ヒワの身体に温かみが戻ったようだった。少しして、
「ねえヒワちゃん」
 ルリコはこの間と同じ口調で、また尋ねた。
「ここに住んで、後悔してる?」
「してない」
 今度はすぐに、そう答えた。そして続ける。
「恐ろしいことも、訳わかんないことも一杯だけど……結局、どこにいても私たちはいつも何かにおびえて暮らさなければならないのかも、って」
「そう?」
「手をつないで助け合える人たちがそばにいるから、ここに住んで後悔はない、今は」
 ならよかった、とルリコは息を吐きながらそうつぶやいてまた頭を落とした。
 
 恐怖と不安とでもうろうとした中、なぜかいつの間にかヒワはおかしな格好で風呂に入っていた。
 風呂桶に覆いかぶさるようにして、服も靴も身に付けたまま、しかもその風呂場は妙に寒かった。水は生ぬるく、空気はカビ臭さと饐えた泥の匂いに冒されていた。
 風呂に入っているのに、どうしてこんなに疲れが抜けないのか、どうして寒さが増すのか、そしてどうしてこんなに、恐ろしいのか。
 気づいたら、辺りは白い靄に覆われていた。身体はじっとりと濡れて、細かく白い湯気が立ち上っている。
 うつらうつらしていて、変な夢を見ていたようだ。
 少しでも眠ろう、ヒワはまた無理やり目を閉じた。
 

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