#政治
「教育勅語を教えたら日本はよくなる」という発想が生まれてくるのは、要するにニヒリズムがないからでしょう。
ホイジンガは「遊び」が「厳粛さ」と「あほらしさ」の間でゆれ動くことを指摘した。政治という真剣な遊戯に対するメタ的な目線や諦念が、そういう主張をする人間には皆無。主知主義的。
Twitterは郵便的不安に満ち満ちている。この状況を見れば、ポリティカルコレクトネスが新たな同一性を仮構する運動と化していくのも当然だなと感じる。
抽象的な言説に何らかの具体例を与えることで、観念的に浮ついた議論ではなく、一定の強度を帯びるようになる。
こういった意味合いにおいては、床屋の政治談議を馬鹿にできない。
思想の歴史的根拠とは、そういった具象と抽象の葛藤から立ち現れてくる。