4/27 役に立たないから価値がある

zoomで落研部員たちと話す機会があった。いつも通りとはいかないが、新しい試みをしたり、部員を勧誘したりと、なにかが進んでいることは確かである。

 それは就職活動についても同じようで、絶賛就活中のとある先輩はオンラインで面接を受けたという。落研部員であると伝えると、「ちょっとここでやってみてよ」といったことを言われたらしい。彼は持ちネタの冒頭を披露したそうだ。聞けば数名の落研部員が同じように「ちょっとやってみてよ」をされた経験があるという。

その場では「合唱や演劇だとそういうことはない」「お笑いというものはどこか下に見られているのでは」「まあ、落語は一人でできるからね」などと言って終わった。確かに落語は即興でやってなんぼみたいなイメージもあるし(プロの落語家さんは高座に上がってから演目を決めるそうだ)一人でできるし、現に先輩もできたわけだし、サッとやれそうな感じはする。(サッとやって笑ってもらえたら最高。難しいけど)しかし、部員の一人が言ったように、「お笑い」というもの、そのものが軽く見られている風潮があることも否めない。面接官がどう思って発言したのかはわからないが、広く、特にお笑いをあまり見ない人にはそういう考えが少なからずある気がする。

しかし、zoomを退出した後、ふと思った。それが笑いのカッコいい姿なのではないか、と。笑いを生むものというのは、感動したり胸を打つものだったり、考えさせるものに比べれば軽く見える。バカバカしくて、生きていくのに役立つものではない。いうなれば無駄。

でも、役に立たない、というところに価値があるんだと思う。なにも考えずに笑えた時間は役には立たないけれど、きっとそれがなければ生きていけない。バカバカしいからこそ、軽く見られてこそ笑いが起きるし、そういう時にお笑いの真価が発揮されるような気がする。

だから何が言いたいのかというと、ええと、無茶振りされた先輩は演者としてカッコ良かったのかもしれない。内定がもらえたら一番良かったけれど。








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