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宗教二世がフランスで考えた中上健次と社会物語学のこと:「中上健次」ができるまで

(連載の続きになります。これまでの記事はこちら。)

 中上健次のいう物語とは何だろうか。前回まではこの問いを扱うための枠組み作りとして、物語という語にまつわる日本語ならではの問題や、物語をめぐる日本語圏や英語圏での議論を取りあげた。そして、物語の力というものを問題にしつづけた中上の物語論は「社会物語学的」とでも呼べるような特徴がある、という作業仮説を立てた。
 この仮説を検証するためにこれから中上の議論に立ち入ってゆくのだけど、あらためて留意しておかなければならないことがある。中上が端的に物語それ自体について論じるということは稀で、むしろ別のなにかを物語として/物語をとおして語ることが多く、素朴に字面を追っているだけではそもそも何のための物語論なのかが見過ごされるおそれがある、ということだ。中上はしばしば、ある種の連想ゲームにも似たレトリックを弄する。比喩や換喩を梃子にして発想を飛躍させる。まさにそのようなレトリックをとおして可能になっているような思考のあり方にも着目していきたい。
 そこで、中上の物語論を便宜的に二つの時代に分けた上で、はじめに、そもそも何のための物語論なのかということを明らかにしておくことにしよう。さいわいなことに、中上の物語論は物語というものへのむきあい方という点から前期と後期の二つに分けられる。ひとことでいえば、前期においては物語への敵意、後期においては物語への畏怖が中上の議論の基調をなしている。
 まず、前期においては、中上は物語との闘争とでも呼べるような何か、独り相撲にも似た何かにとり組むことになる。発端は1977年に朝日ジャーナルの企画した鼎談「市民にひそむ差別心理」でのことだった。そこで中上は、自分がいわゆる部落の生まれであることを打ち明け、部落差別の問題にはじめて言及をした。そのとき、物語との闘争が「ついに始まったなという意識があった」(Œ21)という。中上はその後「紀州」というルポルタージュを通して、部落差別というものを物語や文化という観点から読みかえようとする。さらに、翌年の1978年には「部落青年文化会」という組織を立ちあげ、「開かれた豊かな文学」という連続講演会を故郷の部落で行ったり、蓮實の仕事に触発されつつ「物語の系譜」という連載エッセイをはじめるなどして、自分なりの物語論の形を探ってゆこうとする。しかし、その過程でさまざまな挫折を経験してもいる。ちょうどそのころ環境改善の名目で故郷の部落の町並みの取り壊しがはじまり、それに反旗を翻すものの、地元の人間にはむしろ疎まれ、孤立する。その結果「亡命」と称して渡米することになり、そのままなし崩し的に物語論の試みを中断してしまう。その後、世界各地を転々としながら『地の果て至上の時』という長編小説に取り組み、それを1983年に書きあげることで、新たな動きが芽生えてくるのだけれど、ここではさしあたり、この期間に物語をめぐって語られたものを前期の物語論と呼ぶことにしよう。
 物語を論じる中上健次の態度にはっきりした変化が見られるのは、渡米中に頓挫した連載エッセイ「物語の系譜」が1983年に再開されてからのことである。『地の果て至上の時』の書きおろしによって何かが吹っ切れたのか、それまでとは違った声色で物語について語りはじめる。物語が敵なのかどうかはもはやわからない。味方かもしれない。いずれにしても非常におそろしいものである。はっきり「神」と呼んでもいい、とさえいう。やや気負いながら物語との闘争を試みていたときとは対照的に、目の前で謎めく何かに怯えたような実に奇妙な様子を見せる。その一方で、当時の天皇の不調とともに昭和という時代の終わりが予感されるようになると、国家とは何かという問いや、人はどう生きるべきかという問いに関心がむくようになり、中上はそれまでとは違った思考の試みを模索しはじめる。そこで、三島由紀夫の楯の会にならって隈ノ会という文化組織を立ちあげ、新しい闘争のための「檄文」を発表したりするのだけれど、それから間もないうちに唐突に出鼻を挫かれるようにして腎臓癌にかかる。そして、1992年に46歳の若さで亡くなってしまうのだった。それまでに中上が物語に関して語ったことを後期の物語論と呼んでおくことにしよう。
 以上の時代区分はあくまでも便宜的なものに過ぎない。しかし、このように段階を踏んで前期と後期の議論を扱うことによって、そもそも何のための物語論なのかということが明確になり、その後の中上の議論のかけ金の所在を見失うこともなくなる。ここではそれら二つの時代に加え、1977年に前期の物語が始まるまでの中上健次の来歴にも触れておくことにしよう。

三つの苗字と作家名

 中上健次の物語論は、物語に関する一般論とはほど遠い。中上は基本的に、自身の人生という個人的な物語や、自身が作家として紡いできた物語と、自身の物語論とを区別しない。それらをきれいに腑分けして、一般論としての物語論を抽出することは不可能である。結局のところ、中上の物語論もまた物語のひとつにすぎない。中上は身をもってその物語を生きていた。アーサー・フランク風に言えば、それは中上にとってのマテリアル=セミオティックな伴侶であり、生の片割れだった。そのため、そもそも何のための物語論なのかということを明らかにするためには、中上健次という作家の来歴についてもある程度踏まえておく必要がある。
 中上の伝記的な情報に関しては、高澤秀次の『評伝 中上健次』(1997)や『中上健次事典』(2002)、高山文彦の『中上健次の生涯』(2007)といったすぐれた仕事がすでにある。特に『中上健次電子全集』(2017)の21巻に収められた高澤秀次の「中上健次 年譜」は中上研究の基本資料として欠かすことができない。ここではそれらの先駆的な仕事によりつつ、作家としての「中上健次」ができあがってゆく初期のいきさつ、特にその名前の来歴を押さえておきたい。というのも、中上の物語論には「物語をするこの自分は、誰なのか」という問いが通奏低音のようにつねに息づいていて、元をたどれば、それは中上自身の名前をめぐるやや複雑な経験にも結びついているからだ。
 中上健次はもともと、ナカガミケンジと呼ばれていたわけではなかった。地元の新宮市ではナカウエ家に身を寄せていたし、本人もそのように名乗っていた。本人がナカガミという筆名を使いはじめたのは、1965年に上京後、たまたま苗字をそのように読まれたことがきっかけだったようだ。『文藝首都』1968年7月号に「あなたを愛撫するユビ」という短編小説が掲載されたときにはすでにみずからそう名乗るようになっていた。高澤(1998)によれば、タイトルの肩に「またまた登場・ハナのテンサイナカガミケンジがおくる傑作喜劇」の一文があったという。わざわざカタカナで表記されているからには、そう呼ばれたいという本人の意向があったのだろう。
 ここでは今「中上健次」の来歴が問題になっている。しかし、その名が多様な読みに開かれていて同時にナカウエとでもナカガミでもあること、そのため実名とも筆名ともつかないような宙吊り状態を生みだしているということは、中上の物語論を理解する上でも示唆的である。「中上健次」は当時の新宮市で土木工事を請け負っていたナカウエ家の養子でもあるとともに、戦後の日本語文学史上にナカガミとして登場する人物でもあり、一群のテクストをひとりの作者の著作物として束ねる機能を担った権力装置でもある。
 これら複数の「中上」は、それぞれどこで繋がり、どこで切れているのだろう。中上健次とは、誰のことなのか。あるいは、中上健次とは、何なのか。これらの問いは「中上健次」が表記のレベルで同一性の危機にさらされて揺らいでいるという点で、すでに問題含みである。そこに、状況をいっそう複雑にするような伝記的な事情が加わる。1977年のエッセイ「天王寺」なかで、中上健次という筆名を名乗る「私」という語り手が、自身には複数の姓がある、という。

天王寺にいると昔を思い出す。私は天王寺を歩き廻りながら、自分がナカガミという性ではなく、中学卒業するまでキノシタ姓だったのを思い出し、体がしびれる気持ちになる。実父はスズキと言い、母の私生児としてキノシタ姓に入り、高校の時からナカウエになった。十八歳で東京に出て、私はナカガミと呼ばれ自分でもナカガミと名のった。正直、私に、ナカウエという姓は縁遠かった。義父のナカウエが、母の連れ子である私を可愛がり、私は実子と何らわけへだてなく何不自由なく育てられたが、私にナカウエという姓は妙に重い。漢字で名前を書けばナカウエでもナカガミでも一緒だが、自分の事にこだわるが、ナカガミとは私には抽象的な感じを与え安堵させる。私には冠する苗字がないのだ。(Œ7)

 複数の名や複数の素性があり、そのうちのどれが本物ともつかない。中上健次という作家名のもとで、このように複数の過去を振りかえり、それらを束ねようとするこの「私」のこと、中上健次を騙るこの「私」のことを、ここでは便宜上「健次」とだけ呼んでおくことにしよう。
 年譜によれば、健次は母親の木下ちさとの第六子として1946年8月2日に生まれたという。木下ちさとが当時暮らしていたのが和歌山県新宮市にある春日という集落だった。いわゆる部落として知られてきたところでもある。部落とは、かつて賤民の居住区だったということから差別を受けてきた地域のことで、春日の場合は賤業とされる生業を営んでいた者たちが17世紀ごろから集住していたようだ。
 ちさと自身は、部落の出身ではなかった。1917年に紀伊半島の南端にある西向村というところに生まれた。幼くして父をなくし、私生児として育った。そして十代のうちから年季奉公のために新宮に出された。新宮は熊野川に面した河口の町ということもあって古くから林業が盛んだったけれど、とりわけ1923年の関東大震災以降は空前の好景気に湧き、出稼ぎの者が大挙して押し寄せていた。ちさともそのうちのひとりだった。
 ちさとはそこで木下勝太郎という地元の男に出会い、木下家に嫁ぐことになった。春日に古くからある家だった。1934年に長男の郁平(行平)を授かったのを皮切りにして、あわせて二男三女の子に恵まれた。ところが、1944年に夫と次男を病気で立て続けになくし、ひとりで四人の子を養っていかなければならなくなった。そんななか、戦後の闇市で出会ったのが鈴木留造だった。三重県熊野市の有馬町という部落出身の男だった。ちさとと同じ私生児でもあった。ちさとはそれからすぐに子を身ごもった。ところが、男はそのときほかに二人の女との関係も持っており、さらにそのうちの一人は妊娠をしていた。そのことを聞き知ったちさとは激怒して、男との縁を切った。そうして、木下の血を引かない私生児が春日に生まれることになったのだった。それが健次だった。
 健次という名は、ちさとが思いついたわけではなかったようだ。出産前に、男子であれば健次と名付けてほしいという鈴木留造からの願い出が人づてにあったという。ちさとはもともと字が読めなかった。そんなちさとにとってはケンジはなによりもケンジというひびき以外の何物でもなかったはずだ。それとは対照的に、男のほうは「健次」という二文字を知っていたのだろう。そして、そこには次男坊として健やかに育ってほしいという願い、戦後の焼け野原においてはきっと切実だったはずの願いがこめられていた。そして、それをちさとが聞きいれたということだったのかもしれない。
 いずれにしても健次は、何重にも周縁的な存在として生を受けた。まず、紀伊半島という場所、とりわけその南部にあって吉野の裏手に広がる熊野という場がそもそも歴史的に辺境の地とみなされてきた。つづいて、そんな熊野の外れにある新宮という町の内部においても、賤民の居住区とされた春日は町外れの山の裏手の斜面沿いに位置していた。さらに、そんな春日の内部にも「微細な排除のシステム」(Œ8)が働き、階層的な内輪空間を形作っていた。高澤(1998)によれば、 春日の共同体の本流には中本という古参の家があり、ちさとの夫となる勝太郎も中本家の生まれではあったが、木下という傍流の家の養子に出され、春日の外れにあたる山の麓で暮らすことになった。そして、そんな木下家の内部においては、田舎から嫁いできたちさとがもっとも周縁的な存在であり、そんなちさとがどこの馬の骨ともしれない男との間に儲けた私生児こそが健次だった。
 このように寄るべない境遇のためでもあったのか、ちさとはその後、中上七郎という男と世帯を持ちなおしたとき、健次だけを連れて春日を出て、隣の野田地区にあるナカウエ家に移った。つまり、健次だけがナカウケ家の養子になることを許され、木下の子たちは春日に置いていかれた。裏を返せば、もともと異物のような存在だった健次は、春日という世界からさらにいっそう疎外され、隔てられたということでもある。健次は、このときから急激に太りはじめたらしい。また、春日への懐かしさにも似た何かが芽生えたのもこのときだった。「祖母の芋」と題された1978年のエッセイでは、次のように語られている。

春日町の、汽車が通る度に汽笛が家の中にいっぱいに飛び込んでくる線路そばに生れ、そこできょうだいらと小学二年生まで住んだので、春日という土地がなつかしくてたまらぬ。 愛おしくてならぬ。小説家としてデビューしていらい、小説のことごとくをこの春日と覚しき路地を舞台に取って書いてきたが、いまこの新宮に来て、愛おしさの熱病のようなものにかかっているのに気づく。小学二年の時、現在の私の姓氏である中上の男と内縁状態になった母に連れられ、春日を出たのが、その春日という土地への熱病の第一の原因だ[…]。(Œ4)

 春日を出てナカウエ家の一員になるということは、後ろめたさにも似たなにかを呼び起こしもしたようだ。というのも、この出来事は当時20歳だった兄の郁平の人生を大きく左右した。木下の家を捨てて新しい男との暮らしをはじめた母親を兄は逆恨みした。あるときには酔い任せて斧を手にとり、ナカウエ家に乗りこんできたこともあったという。「あの時、兄が、あと一息、憎悪を持続していれば、ふりあげた斧で、母とその子供のぼくは、殺されていたはずだった」(Œ4)と中上健次を騙る「ぼく」はふりかえる。
 しかし「ぼく」は死ななかった。まるでその代わりのように「兄」のほうが死んだ。1959年3月3日のひな祭りの日の朝、首を吊っているところが発見された。兄はそのとき、24歳だった。健次は12歳で、小学六年生だった。小学校では、ナカウエ家に移ってからも、兄と同じ木下姓を名乗っていたようだ。そして、そのことに対して羞恥にも似た気持ちを抱くようになっていた。

イマカラ考エテモ不思議ナ記憶ダッタ。ダガソノ時ノ気持ヲ私ハ覚エテイル。ソノ頃ハ私モ私ノ母モ義父ノ戸籍ニ入ッテイズ私生児トシテ届ケラレテアッタ私ハ、木下トイウ兄ラノ姓氏ヲ名乗ッテイタガ、三月三日ニ自殺シタ木下郁平ト木下健次ガ兄弟デアルコトヲ知ラレルカモシレナイ、知ラレタト思ッタノダッタ。トイウノモ私ニハ兄ガ自殺スル過程ガワカッテイタ。自殺ハ兄ノ自暴自棄ノ果ニ起コッタノダ。兄ノ葬儀デ三日学校ヲ休ミ、出テ行クト先生ガ私ヲ呼ンデ、自殺シタト新聞ニ出テイタノハ君ノ親戚カ? ト訊イタ。私ハ違ウト首ヲ振ッタノダッタ。知ラン、トサエ言ッタ。(Œ7)

 ちょうど折よく、といっていいものか、健次はその後すぐに小学校を卒業し、中学校ではナカウエの姓を名乗るようになり、春日という土地の記憶と結びついた木下姓から逃れた。さらに高校入学の年になると、母親と養父が正式に籍を入れたことで、行政的にも中上健次が自身の本名になった。とはいえ、いずれの姓に対しても「違う」と言いたくなるような思いを持ちつづけていたことには変わりないのだろう。生物学上の父親の姓は、鈴木である。かといって、鈴木を名乗るわけにもいかない。だからこそ、東京という匿名的な場所で偶然にも与えられたナカガミという名が「抽象的な感じを与え安堵させる」ことになったのかもしれない。
 漢字の読み書きに慣れ親しんだ者からすれば、ナカガミもナカウエも同じ「中上」の一種に見える。発音の仕方が異なっているだけで「中上」であることには変わりはない。しかし、木下ちさとのように文字の世界から隔てられた者にとっては、両者は根本的に違っていただろう。そんなちさとを母親に持つ健次にとっても、単なる発音上の違いを超えたものだったのかもしれない。
 日本の戸籍には普通、氏名の読み方が記載されていない。したがって、行政的には、中上はナカガミでもナカウエでもありえるので、どちらを本名と考えるかは、本人の意向次第ということになる。ただ、健次がすくなくとも新宮市のナカウエ家の者ではなくなった時期は、はっきりしている。上京してから五年後の1970年に、健次は自分自身の独立した戸籍を持った。その年の7月に「文藝首都」の同人だった山口かすみといわゆる授かり婚をして、それを機に本籍を東京都に移したのだった。そのころには生まれてはじめて定職についてもいる。親や姉たちの仕送りに頼ることをやめて、経済的にもナカガミ家の戸主として独立しようという気持ちがあったのかもしれない。
 健次はそのとき23歳だった。ひな祭りの日に死んだ兄は24歳だった。そして、健次には自分の年齢だけではなく、他人の年齢、特に死亡時の年齢に異常な執着を見せるところがあった。1970年の3月ごろに身ごもったはずの子である中上紀(2004)は次のように回想している。

中上健次は、自分は確実に二十四歳で死ぬのだと思い込んでいたふしがある。数々のエッセイの中でも語られているし、娘である私にもそう言っていた。何度も何度も包丁を持って脅しに来、挙句の果てには柿の木に首を吊った兄のことが、トラウマだった。兄はその時、二十四歳だった。しかし、実際には健次がその年齢になると、女の腹に子どもが宿った。これで、生きられる。(中上紀 2004)

 結局、24歳を迎えてからも、死ななかった。ちょうどその年の11月には三島由紀夫が奇妙な「檄文」を遺して自殺するということがあったものの、健次は生きのびた。それゆえに作家としての「中上健次」がいまもこうして生きのびている。柄谷行人(1996)が1992年の中上健次の死に際して述べたとおり「作品は今後も読まれつづける」。作曲家が死んでも、その楽曲は残り、繰りかえし演奏されるように。しかし、それはもちろん文字の世界のなかでの話である。
 いまここでさしあたり問題になっている健次は、文字の外の世界にも同時に身をおいている。そして、音というものの多様性のなかで、絶えずアイデンティティの危機にさらされている。文字の世界においては「中上」はあくまでも「中上」であり、つねに「中上」として安定した同一性を保っているけれど、ナカガミやナカウエという音にはそれを揺さぶるような力がある。ある楽曲の音符をなぞってゆく楽器や声の音色が、演奏のたびごとに違うように、中上健次を騙る「私」や「僕」の声も揺らいでは謎めきはじめるということがある。
 これから明らかになってゆくように、中上の物語論は、音というものをめぐる議論でもあった。中上の物語論は、音とともにあった。たとえば、1987年に「超物語論」というきわめて重要な講演を行った折にも、それに先立って演歌歌手の都はるみと酒を交えながらの公開対談をしており、そこで何曲かの歌をデュエットで披露をしてもいる。その記録は文字情報としては残っていない。残っているのは、活字の列に形を変えた発言の記録だけである。しかし、だからといって、残らなかった歌のほうが中上の物語論にとって副次的なわけではない。歌が残らなかったのは、いわば飛翔して大気を震わせ、中空にかき消えることができたからではないだろうか。中上はまさにそのような「モノ」と呼ぶほかないものへの特別にすぐれた感性を持っていて、それこそが中上の物語論の尽きることないみずみずしさの源泉になっているのかもしれない。

音の人、中上健次

 中上健次の幼いころの夢はオペラ歌手になることだった。健次には音楽の才能があった。中学と高校では合唱部に所属し、テナーとしてラテン語のミサ曲などを歌っていた。中学校の教師が東京での専門的な音楽教育をすすめるためにナカウエ家をたずねてきたほどの素質があったようだ。しかし結局、親の理解を得ることはできなかった。健次が家のラジオでクラシック音楽を聴いてばかりいることに対して「わけのわからんものを聴くな」とたしなめられることもあったという。健次はやがてオペラ歌手になる夢をあきらめ、そのかわりに文学にのめりこんでゆくようになる。しかし、音楽が健次にとってなくてはならないものであることには変わりはなかった。
 健次がジャズに出会ったのは、1965年2月に東京に出てきたときのことである。上京の初日に新宿三丁目にある「DIG」(現在はDUG)というジャズ喫茶に連れていかれて、衝撃を受けた。翌日には歌舞伎町の「ジャズ・ヴィレッジ」というジャズ喫茶にたまたま足を踏み入れ、そこでジョン・コルトレーンやアルバート・アイラーらによるフリージャズのことを知った。故郷のしがらみから逃れてきたばかりの健次の耳には、上京によって手に入れた自由というものをそのまま音の粒立ちとして結晶化したもののように聞こえたにちがいない。1976年のエッセイ「作家と肉体」のなかには次の記述がある。

東京という都市に出てくることが、風土や、切っても切れない血の関係から自由になる、ということを意味するなら、ジャズは実際、ぼくの、体の真中、心臓の真中をさし貫き、流れ込み、響いた。その日から、二十二の終りまで、丸五年間、ジャズを聴いていた。(Œ4)

 上京後、授かり婚を機にナカガミ家の戸主として自立するまでの五年間は、同人『文藝首都』での作家修業の時代でもあり、ジャズとドラッグに強く彩られた時代でもあった。そして、中上はフリージャズの奏者たちから小説家として多くのことを学びとった。中上にとっては、小説もジャズも強い愛着の対象としてあったが、自身の思い描く短編小説の理想とフリージャズとは、いわばたがいにとってのメタファーのようなものだった。もっと短絡的な言い方をすれば、短編小説=フリージャズだった。そして、ひとたびこのような類比関係が中上の思考をとらえると、さらに別の連想が呼びこまれて、奇妙な連想の体系を形作りはじめる。そして、まさにそれこそが後の物語論の原型となってゆく。
 ここではまず「短編小説=フリージャズ」という連想が「説経節=ブルース」というさらに別の類比的な愛着の対象との対比をなすことで、中上が作家としてのみずからの方法論を探ってゆく上での一助となっていることを確認しておこう。
 説経節というのは中世から庶民の間で受けつがれてきた語り物芸能の一つで、苅萱、俊徳丸、小栗判官、三荘太夫、梵天国をはじめとする様々な演目がある。中上には幼少期からの馴染みがあった。というのも「字も読めないし、子供に絵本を買いあたえる金の余裕などない母」(Œ4)が繰りかえし語り聞かせてくれたのだという。「本が読め、字が書ける息子のぼくには、『かるかや』も『しんとく丸』も、活字でしかない。過去の、民衆の文学ととらえ読むしかない」。しかし、母にとっては「ささらの音が入り、手の動き、顔の動きが入り、生きた人間の声によって語られるものとしてあった」という。つまり、文字の世界の外にある音の世界の豊かさに満ちていた。そして、それとブルースが似ているのだという。1976年のエッセイ「土のコード」に次の一節がある。

ブルースは、説経節に似ている。序があり、破があり、急がある。物語としての進行の型がある。ジャズの言葉で言えば、コードがある。(Œ4)

 中上の思考のあり方を凝縮したような一節である。第一に、ここには語の短絡的な「換用」(Œ12)しかない。ブルース=説経節=序破急=進行の型=コードである。そして、第二に「物語」という語が、たとえば音楽や文学のように本来は異なっているはずの複数の次元の仲介をして同一の遡上にあげることを可能にしている。ブルースはもちろん、言葉によっているという点で文学の一種と考えられる。しかしさらに、たとえば歌の伴わないジャズの演奏までも、中上は同じ地平で論じようとしている。そこで文学や音楽といったボーダーを無化するものとして呼び出されているのが「物語」である。
 ここではさらに、中上がジャズ用語として引きあいにだした「コード」という言い方にも同様の働きがあることに注意したい。中上がどこまで自覚的だったのかはともかく、ニューアカデミズムの文脈で用いられていた語でもある。当時すでに1965年と1971年の二度にわたって翻訳されていたロラン・バルトの『エクリチュールの零度』(1953)のなかにも登場する。もともと掟や法律、記号体系を意味する「code」をカタカナで表記したものである。しかし日本語の「コード」にはほかにも様々な意味がある。電気コードなどを指す「cord」にも、和音を意味する「chord」にもなりえる。
 ここでの中上は、ある種の法としての「コード」と、たとえばC→F→Gのように展開する楽曲の流れとしての「コード進行」とを重ねあわせているのだろう。特に蓮實重彦の物語論に触発された1979年には、法としてのコードのことをしきりに問題にするようになる。たとえば、1979年のエッセイ「破壊せよ、とアイラーは行った。」では、サックスプレーヤーのジョン・コルトレーンにことよせて、次のような主張をしている。

コルトレーンが幾多の作品で問題にしたのは、つまるところジャズの中にしっかり根を張ったコードに関してである。コルトレーンのジャズは、コードという音楽規制をいかにして無化するかというところで成り立っている。[…]ブルースを演奏したデビスには、ジャズが暗黙のうちに孕んでしまう法や制度への苛立ちはなく、むしろ法や制度に身をすり寄せているのである。だがコルトレーンは違う。ジャズが他のジャンルの音楽とは異り、アメリカへ渡ってきた黒人の作り上げた音楽であるのはジャズの抱えた法・制度(コード etc.)によるが、その法や制度がまたモダンジャズという自由さのあふれるジャンルの内側にある発展や変転を抑圧する装置ともなっているのに気づき、苛立っている。[…]私の眼にコルトレーンの作品の軌跡は、ブルースという基本的には動かない土のコードから発生した発展、変成するモダンジャズの軌跡でもある気がする。いや人間の法・制度との闘いである。/コード、あるいは法・制度を“自然”と名づけてみれば、ジョン・コルトレーンのコード無化の闘いが理解してもらえるかも分からない。(Œ14)

 中上はこのようにフリージャズというものをコード=法との戦いとして理解しつつ、自身も短編小説において同様の試みをしようとする。中上にとっての「短篇とは、西欧の、コントでもレシでも、ノベルでもない。型のない型、コードのないコードと言える」(Œ4)。そこでさらに、ジャズがもともとブルースの伝統に端を発しているのだとしたら、自分自身の文学にもルーツがあるはずだ、というふうに連想が働く。そして、それこそが説経節であるとした上で、金鶴泳という同時代の小説家の影響を受けつつ「土のコード」というものを思いつく。短編=フリージャズの発生源になるような始原の音のひびきである。この土のコードについての思考を展開するにあたり、1976年のエッセイ「土のコード」のなかで、中上は唐突にブルースの話題から自身の母親のことに話を転じる。

そもそも、母の名を、千里という。母の父、祖父が、母の誕生すぐに海で死んだから、母と父親を異にする母の兄、伯父が、そう名づけた。千里という名は、説経節「苅萱」から、取ったという。だから説経「苅萱」いわゆる「石童丸」は、なにやら親しい。その名前が石童丸というものでなく、健次という名前に変ったにすぎない気がする。説経、語りものは、自分の身にもともとある芸と言えばよいか。[…]それを、土のコードと呼ぼうか? どの現代作家にもなければならぬ一等低い音である。(Œ4)

 ここでの議論の補助線として「苅萱」のあらすじを紹介しておこう。昔、妻子を捨てて出家した男がいた。男は高野山で苅萱道心と名乗った。子の石童丸は私生児として育てられたが、やがて大きくなると、母とともに父親探しの旅に出る。高野山の麓まで来たところで、母と別れて山に登った。そして、自分の父とは知らず苅萱道心に出会ったものの、父親はすでに死んだと聞かされる。失意のうちに下山すると、母は旅の疲れで死んでいた。石童丸はそこで出家を決意して再び山に登り、苅萱道心の弟子になる、というような話である。
 この石道丸の母の名を、千里という。そして、この「石童丸」という物語を健次に語り聞かせる母の名も、ちさとである。だからこそ、石童丸と同じ私生児の健次は、この自分こそが「石童丸」の筋書きをたどる主人公であってもふしぎではない、というような感慨に包まれる。
 アーサー・フランクであれば、このような物語の働きのことを「キャスティング」と呼んだことだろう。聞き手として耳を傾けていたはずなのに、気づけば物語に呼びかけられて、登場人物と同じ役回りを引き受けてしまう。ちょうど「inform」という動詞には「知らせる」という意味のほかに「かたどる」という意味があったように「物を語る」ことは「者を騙る」ことでもあった。このようにしてトリックスターとしての物語は複数の次元を仲介したり、その区別を錯乱させたりする。ちさとが千里を騙るなかで、では、石童丸/健次とは誰のことなのか、という問いは湧くが、どの名も匿名性を帯びたまま宙吊りにされる。
 私生児であるということは、健次が生まれたときから決まっていた。しかし、物語の魔力に触れた途端、その素性がふしぎと謎めいてくる。自分が別の何者かであってもふしぎではないような気がしてくる。「中上健次」の来歴はそんな無数の謎、無数の物語の束として形作られていたはずだ。フランクであれば、それをナラティブ・ハビトゥスと呼んだことだろう。それを中上風に表現したものが「土のコード」ということだったのかもしれない。

物語あるいはジャズの、進行の型がコードではあるが、土のコードでは、形式のみならず、内容までを含めたい。スウィングまでを含めたい。出家したまだみぬ父をたずね高野山にむかう石童丸[…]の、自分が一体だれであるのか、身元確認、アイデンティティというやつへの熱意と、用意された大団円までをである。[…]説経節は、ことごとく、関係というものを追っている。[…]その人間関係の幅までを、土のコードと、ぼくは呼びたいのである。(Œ4)

 はじめの「物語あるいはジャズ」という短絡的な言い方にも如実に示されているように、中上にとっては、音楽について語ることも物語について語ることも、根本的には同じことだった。音楽としての物語と物語としての音楽との間にさしたる差はない。とはいえ、文字の世界と音の世界との間には、いたましいほどの亀裂があるのも事実である。音楽も物語も音の側にあり、母親のちさとが語る説経節もブルースもジャズも音の側にあるが「中上健次」はあくまでも文字の世界にいる。ちさとによって私生児としての来歴を吹きこまれてできたはずの「中上健次」の物語に、ちさとは触れることができない。目を閉じたまま写真の表面をなぜても色や形が浮かびあがってくることはないように、文字を知らないちさとの前では、活字の列になった物語が音として立ちあがり空気を震わせることはない。ある意味「中上健次」は、自身の物語論において、そのことばかりを考えつづけてきたと言っていい。音の世界は、小学二年生のときに捨ててきた故郷の春日と重なりながら、愛の対象でありつづけた。
 しかし、同時に、音は恐怖の対象でもあった。音は「決定的な受動的な器官」(Œ8)である健次の耳を満たすことで、「中上健次」として文字の世界に安住していたはずの素性を揺さぶるような力を発揮する。1975年のエッセイ「文学における私とは誰れか」には、次のように書かれている。

あまりに切羽つまりすぎる。いったいこの問いの声はどこからきこえるのだろう。それが右の耳から聴える時は、手で右の耳をふたぎ、左の耳から聴える時は左の耳をふたぎ、空いている方の手で小説を書いてきた。なぜなら、まず書く、なんでもいいから、一行でも書くというのは、作家の、習性でもあるのだから。それがまた〝私〟を表わす方法でもあったのだから。だが、いったい、この書く手をもったおれとはなんだろう。おれは書く、と彼は書く、と彼は書く、と彼は書く……永遠に句点はつけられまい。(Œ4)

 中上はここで、中上健次である「私」とは誰なのか、ということを自問しているわけではない。むしろ「私」は中上健次なのか、ということが中上にとっては問題だった。中上は耳から侵入してくる音の暴力によって、声が無数であることによって、「私」というものが匿名性を帯びて謎めいてゆくのを感じる。小説家である中上、さまざまな声を騙ったり、さまざまな声を文字に書き起こすことを生業とする中上には、答えがない。しかし、そのかわり、この問いを自身の物語論のなかで具体的に掘りさげることには成功している。そしてまさに、答えを見出すのではなく、問いを掘りさげることができた、という点にこそ、これから読みすすめてゆく中上の物語論の尽きることない魅力がある。


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