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漢字のトメハネハライについて


   こんにちは、大山です。「漢字のトメハネハライ」を意識して勉強すべきかどうか、についてお話ししたいと思います。ちょっとこの話題が最近目に入ったので、いろんな意見が出ることではあるかなと思いまして、受験指導している講師の目線から私見を述べさせていただきたいなと思います。

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 「トメハネハライで減点はおかしい」という意見を耳にすることがありますが、「トメハネハライ」もちろん練習の段階ではきちんと書けるように意識した方がいいです。僕は普段の漢字テストでも「トメハネハライ」を意識するように生徒さんに伝え、できていないときは減点しています

 これ、「本来漢字というものはどうであるか」と「受験というフィールドでどのようにふるまうのがいいか」は切り分けて考えてください。本来的な部分で言ったら「漢字の形」って厳密ではない部分が確かにあります。そもそも漢字が生まれてから書道の流派によって字体が分岐してきて、今で言ったらゴシック体、明朝体などの印刷の字体によってによって「トメハネハライ」っていうのは変わる部分があることは事実です。ただ、それだと教える側も教わる側も何を基準にしたらいいか見えにくいから「教科書体」という学校現場で使う字体を作って、それをスタンダードな形として学校現場とかでは教える形を作った。

 そのうちに現場の方とか漢字ドリルではいつしか「教科書体」の形が絶対視されるようになって、どんどん厳密化されていってしまった、という経緯は確かにあるんです。で、文化庁が出している「平成28年の常用漢字表の自体・字形に関する指針」でも「字の細部に違いがあっても、その漢字の骨組みが同じであれば、誤っているとはみなされない」と明言して、今の行き過ぎたトメハネハライ厳格指導に対する修正をしている流れであることは間違いないです。


 ただ、じゃぁなんでもありかっていうとそうでもなくて、「どの部分が細部で、どこまでが骨組みなのかって基準を決める」って難しいんですよね。 

 子供の字ってなかなか我々の常識を超えてくるので「なんでもあり」にしちゃうとマジでわけわかんないエキセントリックな字が出来上がっちゃうんですよ。その中で基準を設けずに「これはアウト」「これはセーフ」の判断を下そうとすると、どうあがいても採点者の主観的な部分が入りがちになります。そこで「トメハネハライ」に関してはある程度客観性、ないし公平性を持つから、そこを基準に採点してきた学校現場サイドの事情、とかテストを採点する側の事情も、個人的にはある程度理解できる部分があるなと思うんです。さすがに国語の先生でも全部の字のどこまでがOKでどの部分はアウトなのか、を確実に把握、ないし毎回常用漢字表と照らし合わせることってできないので。

 さらに「本来的にはどうか」を求めすぎると実は送り仮名でさえ本来は曖昧でいい部分ってあったりするんです。だから「本来○○である。」を求めていくとこれはこれでキリがなくなる。その部分まで考えた上で「基準をもって採点する」って実は相当難しいんですよ。
 で、肝心の入試においては「どのような人が採点者であるか。」を知る術はない。どの学校でどのような基準で漢字が採点されるかっていうのは完全なブラックボックスなんです。ってなると、仮にどのような採点者であっても減点されないものを書くのが結局はいいんですよ。

 当然入試本番で、「あー、これトメかなハネかな」って悩んでる時間はないです。そう悩んでる時間があるなら次行けって感じです。だからこそ、普段の練習から「トメハネハライ」意識をする習慣があった方が、結果的には得をします。だから、今、漢字を練習していてそこまで細かく意識が向けられている人、その意識は決して無駄ではないです。その調子でやった方がいいです。
 実際採点する時には、僕も状況に応じて基準を変えたりしてます。例えば、漢字テストの勉強まったくやってなかった子が、ちょっと勉強やり始めた。けど、トメハネハライできてねぇなぁ、けどこれ✕にして0点にしたら、やる気なくなっちゃうよなーって時は甘めに採点して、けど慣れてきたところで「よっしゃ次は形まで意識しようぜ」って段階的に厳しくしていったりします。
 だから、基準が曖昧だから迷うんじゃなくて、逆に基準が曖昧だからお子さんの状況を見て基準を段階的に変えてもいい、ぐらいの感覚がいいのかなと思います。ただ最終的には客観的に見てきちんとした字がかけた方が何かと得なのは間違いないので、そこを目指していくという意識は必要でしょう。

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