晴らしや陰陽師 〜あなたの心、晴らします〜

(あらすじ)
 現代に残る陰陽師。それは人の心の内面世界「隠世(かくりよ)」に入り、孤独な心を解きほぐすことで祓う秘匿された存在である。
 晴可(はるか)はある日、謎の国家公務員たちと出会う。


光のさす会議室に、青年の明朗な声が響き渡る。

「——そして私は心理の資格を取りつつ民間企業の経験も積んでおきたいと思い、業界大手の占星術提供社でインターンの経験を積み、現代の陰陽師ともいえるプロ占い師の方々と触れあう機会に恵まれ——」

 国家公務員、このご時世に破格の初任給。その最終面接に、やはり自分は漕ぎ着けてみせた。昔からのらりくらりと何だかんだ、やってのける性質なのだ。

 職種は「心身保安技官」。しかし、精神科医や心理士はもちろん保健師や看護師といった応募に必要な資格はなく、ただ「適性が認められる者」とされている。

 漠然としつつあまりにも説明のないその職種は、厚生労務省の採用ページでも浮くかと思いきや、むしろ数分経てば忘れてしまう、比喩ではなく実際に意識から抜け落ちてしまうほどに存在感がなかった。そのため、採用試験の攻略情報を探すにも随分苦労したものだ。

 しかし、度重なるリサーチの末、どうやらその実態は「陰陽師」であるらしいという情報を掴み取った。

 陰陽師。

 都市伝説じみている。いや、なんだそれ。この令和の大科学推進時代に? 陰陽師? 安倍晴明だって「本当にいいの?」と首相に訊くんじゃないのか。普通なら詐欺だと疑ってかかるところだが、確かにこれは国の、厚生労務省の職種なのである。現にこの会議室だって、霞ヶ関の本省の一角にある。

 だから、この胡散臭い仕事を信じてみることにしたのだ。ここでなら俺は、心理職と占いという己の関心を追求しつつ、食いっぱぐれずに済む。自然と声には力がみなぎり、この目にも強い光が宿っていることだろう。

「うんうん、いいですね。そんなご経験が」

 しかしこの面接官、さっきから話を聞いているのだろうか。相槌に、特に隠すつもりもない無関心が滲んでいるように思う。そもそも最終面接って、国家公務員ならどの職種も複数名でやるものじゃないのか。なぜ一人、しかもぼんやりとした……そう、この面接官はぼんやりとしすぎている、人としての輪郭が。

 会議室には光が射しているのだが、いささか光が強過ぎていて、面接官の顔が見えない。白飛びの激しいデジタル写真みたいだ。容貌が一向に掴めない。肉眼でこんなことってあるのか。いや年恰好や顔立ちなんてどうでもよいのだが、表情が窺えないのは問題だ。やりにくいったらありゃしない。

「ありがとうございます。あなたの想いの強さはよく分かりましたよ。それでは今までのお話を踏まえつつ、実技試験に移りたいのですけど」

 実技試験?

「つかぬことで申し訳ないのですけど——」

 ついぞ違和感を覚えるほど強い日射しの向こう、面接官の雰囲気が変わった。はっとするほど、鋭くなったような。ああ、今から自分はようやく見極められるのだと、その時悟った。

「怪談と水は平気ですか?」


 *


「えーっ、なあほんまに行くのお?」

「いや逆に、ここまで来て帰るとかないやろ!」

 夏の夜、入居者がいなくなり取り壊しが決まっている団地の敷地の入り口で、派手な声音を出す男と女がくんずほぐれつ歩く後ろを、それより1、2段低いテンションの男女もう1ペアがついて行く。いや、こちらはペアというほどではない。先を行く派手な男女が二人だけで親密になっているので、余ったもう二人が必然並ぶ形になっているだけだ。

「あかん、ウチほんまに怖い」

「大丈夫やって。俺親戚に神主おるから。そういう血引いとるねん、何かあったらお前くらい守ったるわ……」

「ほんま……?」

 ベタにベタベタすぎる二人へついに、地味なほうの男が口を開く。

「あの、俺らは残って車見とこうか」

「なんでやねん、来いよ。この辺人も来へんし停めとっても何も言われへんやろ。四人の方がなんか、強いやろ」

 すげなく派手なほうの男が一蹴するも、男は食い下がる。

「けどほら……、邪魔かなって俺ら」

 核心に迫る発言に、地味なほうの女がぎくりとする。今度は派手なほうの女が声をあげた。

「ええねん、来てもらわなウチら二人きりになっちゃうやろ。そんなんアタシ彼氏に怒られるわー。ただでさえコイツとのこと疑われてんのに!」

 疑いではなく事実だろ、と地味な二人は内心苦笑する。

 そのような会話を交わしているあいだにも、一同は団地の一階、その廊下への入り口へたどり着いてしまう。

 これまで歩いてきた敷地内の草むらから部屋のドアが並ぶ廊下までは、短い階段があった。狭いので必然、一列になる。派手な男は、自らの勇気を示すような勢いで一番近いドアへ向け進んでいく。派手な女もそろそろとついて行ったが、ここで一つ事件が起きる。

「きゃあっ」

 響き渡る可憐な悲鳴に皆足が止まる。

 脱げたミュールの、派手な色をした鋭利なヒール部分が天を突いて転がっていた。傍の、ヴェールのように垂れるウェービーロングの茶髪の隙間からはうめき声が聞こえてくる。体制を崩し、ノースリーブのカットソーから覗く腕は階段脇の錆びた手すりに縋り付いていた。

「痛い、いった〜い」

 階段の段にある割に深い溝と高いヒールにより、足を挫いたようだった。派手な男よりも地味な男のほうがその時、派手な女には近い位置にいた。地味な男は駆け寄って、ヒールを拾い上げた。

「大丈夫?」

 優しい声を出しながらヒールを手渡そうとする地味な男と派手な女を、少しだけ離れたところに立つ派手な男が、無表情に見ている。

 派手な女は顔を歪めて何度も首を振りながら、「ごめんちょっとだけ待って」と懇願した。痛みに耐えるため力を逃すように、ぎゅっと地味な男の腕を握っている。

 しばし、4人は落ち着かない時間を過ごし、やがて派手な女の表情が和らいできた。

「あ〜ほんま痛かったあ」

「立てるん?」

 やはりそんなに面白くはないのが滲み出てしまった顔で、それでも声は気遣わしげに、派手な男は尋ねる。派手な女は頷いて、地味な男に支えられながらよろよろと立ち上がった。そして指を差す。まだ痛みに震えた声だった。

「履かしてほしい」

 ちょんと、裸のつま先を少し上げた。

 一瞬、密かに時は止まる。しかしゆっくりと地味な男は膝をついて、女の足にミュールを履かせた。

「ほんまありがとう〜。おかげで歩けるわ」

 感謝の気持ちを示すようにそっと撫でるような動きで、派手な女は地味な男の肩に触れた。地味な男は視線を上げなかったが、派手な男の持つ懐中電灯の光を受け、きらきらと潤んでいた。

「ほな、行くで」

 派手な男はついと踵を返し、ドアの前に立って、勢いよくドアノブを回した。

 少なくとも地味な女(と、そのときまだ少しホワホワしていた男)はギョッとした。

「くそ、開いてへんか〜。次!」

「勢いよすぎやろ。そんなふうに肝試しするやつおらへんて、ウケる」

 男はまた勢いよく隣のドアへ向かっていく。

「ほ、本当に? 本当に入る?」

 ここでようやく地味なほうの女が口を開いた。今日あまり聞いていない声、ひいては音だったので、無意識的な物珍しさに皆そちらを振り向く。

「ユミちゃん何か感じる?」

 やはり少しだけ愉快さを含んだ、派手な女の問いかけがある。ユミちゃんと呼ばれた地味なほうの女は怯えるように視線を揺らして、ひたすら相手の機嫌を損ねないよう気遣う声音で尋ね返した。

「何かって?」

「なんか、霊感とかありそうだなと思って」

「あ〜確かに、ユミちゃん感受性豊かやもんな」

「ええ? 感受性豊かやとユーレイのことも分かるん?」

「お前が言い出したんやろが」

 派手な二人はけらけらと笑う。

「いやっ、いや、霊感なんてないよ……。でもあのこれ、不法侵入になるかなって。そうやってドアノブ掴んだら、指紋も残っちゃうやろし……」

 不法侵入、という強い言葉に、一同にわずかな緊張が走る。

 やや罰が悪そうに派手な男を見上げた派手な女はまた、茶化すように笑った。

「ユミちゃんあんたのこと心配してくれとるで?」

「ありがと〜マジ嬉しいで。けど常識的に考えてみて今の状況。こんなとこに人の目が入るん、何年先か分からん取り壊しの時にクレーンが来るくらいやわ。それか俺らみたいに暇つぶしに冷やかすアホ。な、だから今一番いらへんのって! 正〜〜論なんよ!」

 派手な男も目一杯茶化して喋った。しかし隠しきれないにわかな苛立ちに、地味な女は固まってしまう。

 しんどい空気やなあ、と地味な男は逃れるように、あらぬ方を見る。それは偶然、ドアとは反対、建物の外側。そして、思わず小首をかしげた。

「どうしたん、お前も何か言いたいことある?」

 派手な男がついに声を尖らせて、地味な男は慌てて捲し立てた。

「いや違う違う。そうじゃなくてなんか……」

 勢いざまに、外側を指差してしまう。

「何―?」

 派手な女はひょいと地味な男の隣に並び、バルコニーの外側を覗いた。

「えっ、あれ?」

 派手な女も素っ頓狂な声を上げる。

「何やねん」

 派手な男がやや呆れて問いかける。

 地味な男は、ようやく自身の疑問をあらわす言葉を捕まえたという様子で、ぎこちない笑みを浮かべた。

「俺ら、こんな上の階まで来とったっけ?」

「は?」

 そこでようやく派手な男もそちらを見た。

 バルコニーの向こう側には、先ほどと同じ、隣の棟とそのあいだに横たわる草むらが見える。しかし、その草むらが明らかに遠く見えた。ぞっとするには、十分なほどに。

「ここ……4階?」

 派手な女の声からは、さっきまでの明るさがすっかり消えていた。

「上がってない」

 地味な女は目を見開いて叫んだ。

「私ら一つも、フロアを上がってなかった。そうやんね……?」

 派手な女がついに悲鳴を上げ、派手な男に縋りついた。

「ちょっと、怖がらせんといたってー? 忘れたん? 俺らずっと喋りながら上ってきとったやん、階段!」

 地味な男も思わず、「えっ」と派手な男を振り向いてしまった。階段を上ったのは、この建物に入る時のあの数段だけだ。派手な女が足を挫いてしまった時だけ。あの調子だと、階段を上るたび皆意識せざるを得なかったはずだ。話しながらだったとしても、忘れているはずはない。

 派手な女も納得できないらしく、目に涙を溜めてふるふるとかぶりを振っていた。

 派手な男の顔はやや強張っていても、まだ普段どおりに見えた。しかしそもそも、それぞれが持っている懐中電灯の明かりしかないので判然とせず、地味な男は不安になった。おそらくは派手な女を落ち着かせたいというだけなのだろうが、彼自身がそのように思い込みたいようにも見える。

つまりは、冷静さを失いつつあるということだ。このメンツにおいてはリーダーである彼でさえ。

「もう、帰ろう」

 地味な男は覚悟を決めて、ゆっくりと強く言い聞かせた。

 案の定、派手な男が弾かれたように眉尻を上げ、地味な男を睨む。睨まれた男は耐えるように目を閉じた。

「こんな気色悪い感じになって、このまま帰れるわけないやろ」

「けど、みんなパニックになってきとるやんか」

「誰のせいやと思とるねん! お前が、こんな上がってきたっけ言うからやぞ!」

「そ、それはごめん。申し訳ない。だから帰ろう」

「そやからお前が、そんな偉そうに指図すな言うねん!」

「やめて! うちも騒いだん悪かったんよ、ごめん。だからもうほんま帰ろ!」

 派手な女が派手な男を抑え込むように抱きついた時、大きな打撃音が響き渡った。

「いやっ! もういや……」

 すすり泣く派手な女のわななきを残響として耳にしながら、皆、一つのドアを見つめていた。

 先程の衝撃は、鉄の板を打つような音だった。鉄の板なんてここには一種類しかない。

ドア。

 廊下は長い。音がしたドアがどれかなんて、見当がつかないはずだった。

 けれども、皆あのドアから目が離せない。いや、あるいはもうそちらを見ることができない。

 4人がいる場所からそう遠くない、二つほどのドアを隔てた先。そのドアは、まるで内側から何か巨大なものが飛び出そうとしているかのように、歪に張り出していた。

「……分かった」

 派手な男が静かに言った。派手な女は、すぐ頭上にある彼の喉元に一筋の汗が通るのを見た。ぎゅ、と派手な女の手が掴まれる。

「帰ろう」

 男の胸の中にいた派手な女はほっと安堵の息をついた。ようやく彼もこの事態の異常さを認めてくれた。これから、彼はこの手を引いて階段を降りてくれるだろう。派手な男はこちらに背を向け、階段のある方へ進んでいく。そして、その背中が遠ざかっていった。

「え?」

 派手な女の手は掴まれたままである。ほぼ駆け足で行く派手な男は、もう随分離れている。

 ならば、この手を掴んでいるのは誰なのか?

 派手な女は、反射的に振り向いてしまった。

 その目に飛び込んだのは、地味な女の背中だ。黒く長い髪が垂れる、冴えないワンピース。彼女の手はやはり、しっかりと派手な女の手を掴んでいる。

「ユミちゃん、どうしたん?」

 その声は幸い男たちにも届いたらしく、「どうした?」と伺う声が聞こえる。

 怖くて動けないのだろうか。そんなの、派手な女だって怖い。もう身震いするほど怖い。

早く帰って、この場にはいない恋人に慰めてもらいたい。だから早くこの場を離れなければ。

「がんばろユミちゃんっ、帰ろ!」

 派手な女は励ますように、そして乱暴に、掴まれた手を引っ張った。

その途端、それまで身じろぎもしなかった地味な女が、もの凄い力と勢いで歩き始めた。そう、あの恐ろしいドアへ向かって。無論、誰もそんなほうへ行きたいはずはない。派手な女は足を踏み出すどころか足に力を込めたが、腕を引っ張る地味な女の力は、まるで一人の女のそれではない。抗えず、派手な女はびたーんと胸や尻を地につけた。倒れたまま、ずるずると引き摺られていく。

「おい!」

 恐怖に塗れた男たちの叫びが聞こえる。それが近づいてくることだけが希望だった。

「たすけて!」

 もはや言葉にならぬ悲鳴も洩らしながら、なんとか女も金切声を上げた。

 やがて、痛みを伴う引き摺りが、止まる。

 派手な女はそっと顔を上げた。

 地味な女と自身は、あのドアの前に立っていた。

 どっ、どっ、という音とともに、視界が揺れる。それほどまでに激しく心臓が脈打っているのを、派手な女は自覚した。必死に何ごとかを口走りながら、首を振って地味な女に懇願する。その懸命さも虚しく、地味な女はドアノブに手をかけた。

 この尋常ではない事態において、頭のどこかで、派手な女も派手な男も地味な男も、予想していたように思う。

 そのドアが、開いてしまうことは。

 ぎいぃぃぃゃぁああ、と、まるで大勢の慟哭のように軋んで、ぽっかりと部屋の入り口がひらけた。

 むっ、と何とも言えぬ嫌な空気が鼻をつき肌に纏わりつく。

 地味な女は躊躇う様子もなく中へ進む、派手な女を引き摺って。

 派手な女は身に余る恐怖と混乱で、3人が聞いたことのない断末魔のような怒声を上げる。

「なんで!? なんであんた一人だけこんな、こんなとこ入ろう思えるんよ! だからあんただけ、いつも一人なんよ!」

 ぴたり、地味な女は動きを止めた。派手な女も、部屋の入り口に立つ男二人も固唾を飲んだ。

「私だけやないよ」

 身の毛がよだつほど低い声で、地味な女は言った。いっそ見ず知らずの人間の声が聴こえたならよかった。そうではなかった。限りなく低い音だけれども、それが紛れもなく地味な女の声だと認識できてしまったことが、なまじ彼女を知る3人にとってはより空恐ろしく感じられた。

「私らみぃんな、ほんまはずっと独りぼっちやん」

 その言葉に、なぜか深い水底に突き落とされた心地がした。息苦しくて喘げども水面が見当たらない、こういった感情の名前を彼らは知っている。

 絶望、というのだ。誰も、ものを言うことも体を動かすこともできない。

 静けさの中、暫し経ってから、「ね」と、短く言い聞かせるようで奇妙に淋しげな声音を出して、地味な女は突然、派手な女の腕を離した、元より引っ張られて浮き上がっていた派手な女の上体は、べち、と床に落ちる。

 地味な女は一人、部屋の奥へ進んでいく。

 彼女が遠ざかるごとに、3人は水圧のような苦しみが和らいでいくのを感じた。その背中は台所のあるダイニングを抜け、その奥の和室へと進む。呆然と眺めながらも必死に息を吸い、吐く、繰り返し。ほんの少しずつ、冷静さが帰ってくる。暗がりの中懐中電灯をつけるのも忘れて、地味な女の行く先を見つめる。何もない暗闇に向かっているのだと、その時は思っていた。

 ゆうらりと、わずかに白っぽいものが天井付近に蠢くのが見えた。十字の模様、いやあれは格子だ。そんなもの、無機的で怖くない。

 いや、待て。違う。違う違う違う違う。何を言っているんだ、白に黒の格子模様に見えるのは障子だ。和室だから窓に障子がある。なぜ、この目とこの部屋を隔てるものは地味な女の背中だけなのに障子があれだけしか見えない? また、障子が見えなくなった。揺らいでいるのではない。蠢くものに遮られて見えなくなっているだけ。

 ああ。

巨大で醜悪な何かが、そこにいる。

やがて地味な女の背中も何やら見えなくなってきた。

彼女に何か絡み付いている。それは腕だ。腕だけじゃない。足だ。それも一人分じゃない。何本も——その中にやはり幾らか紛れている、あの短くてずんぐりしたのは何だ?

その短い幾つかが、くるっとこちらを向く。え、“向く”?

「あっ」

 派手な男が口を開けた。

 そう、こちらを向いたのは、顔だ。手や足に紛れて地味な女を抱き締めているのは、巨大な何かから、有り得ない姿勢で乗り出してきた、人の頭だ。

 3人は狂おしい咆哮を上げた。無我夢中で玄関へ引き返す。

 ドアは閉まっていた。鍵はもちろんチェーンまで掛かり、どちらも錆び付いている。まるで長い間、開けられたこともないという様だった。

 3人は涙やら汗やら鼻水やら涎やらあらゆるものを垂れ流し、錆びた突起に手や腕を傷つけながらチェーンを引っぺがし、最後は派手な男が鍵を回して、倒れ込むように部屋を出た。

 そこからはもうほとんど覚えていない。ある意味では、何もなく過ごせたことの裏返しでもあるのだろう。

 車で団地を離れ、それぞれに解散し、その夜を乗り越えて数日経つまでの間は。

 この平穏なわずか数日間、3人はそれぞれ興奮気味に自身の体験について周囲の人たちに話したという。

 派手な女の腕にはもちろん、くっきりと赤い手形が残っていた。憔悴した女はもちろん仕事も休み療養していた。友人数名にはまくし立てるように語ったくせに、何となく詳細を伝えられなかった家族も心配し、念のため病院へと向かっていた最中のことだ。

 昼下がりの田舎道を、家族の運転する自家用車で走っている。

 晴れた明るい田畑を眺めていた。

 ふと影が差すように、視界が暗くなった。驚いて辺りを見返す。違う。目が見えなくなったのではない。辺りが暗いのだ。何故だ。何故一瞬のうちに、夜になってしまった?

 むっ、と何とも言えぬ嫌な空気が鼻をつき肌に纏わりつく。

 派手な女は目を見開いた。

「ちょっと?」

 そして目を瞬く。運転席の母が心配そうにこちらを振り向いていた。

「あ、ああ……、夢?」

 安堵の笑みを浮かべ終わる前に光は失われ、目の前にドアが現れる。

 鍵とチェーンがかかり、錆びついている。

「なんで……?」

 洩れ出す声にはすでに恐怖が絡みついていた。

 まるで、自分だけを取り残して、世界が忙しなくすり替えられ続けているみたいだ。

 腕を振り上げ、ドアを叩く。

「ちょっと! どないしたんあんた!」

 母の声がつんざいて、また昼間の明るい陽射しが目に突き刺さる。運転席の背中を殴ってしまったようだった。母がまっすぐこちらを振り向いている。安堵はもうやって来ない。必死に運転席越し、母に縋りつこうとする。大きく息を吸って口を開く。

「いや! 連れていかんといて連れていかせんといてお願いお願いお願い」

 懸命に喚きながら母に顔を寄せる。

 やめて、危ない、やめてという母の叫び。母の戸惑い苦しむ顔がすぐ目の前にあり、そこから「大丈夫、大丈夫」とたしなめている。

 なぜだ? 

なぜ同じ方向を向いて運転している母の顔が、私と真っ直ぐ向かい合っている?

妙に一部冷静になった脳裏が、派手な女の目を運転席用のバックミラーに向かわせる。

そこには母の目元が写っていた。それは、フロントガラスの方に顔を向けていないと有り得ない。つまり、母は後部座席を振り返ってなどいない。

派手な女はそっと、自分と向かい合っていた顔の方へ視線を戻した。

母の肩口から、顔を出している。母に向かい合わせしなだれかかる形で、こちらへ顔を覗かせている。

「大丈夫」

それは地味な女の顔だった。全く感情の見えない唇が、また開く。身の毛がよだつほど低い声だった。

「ほんまはずぅっと独りぼっちやん」

 地味な女がどさあと倒れ込むように覆い被さり、真の暗闇が訪れた。

 引きつれるように目を割り開く。つう、つう、と両こめかみに二筋、冷や汗が流れた。

 ああ、もう逃げられない。

 白に黒の格子。それはほとんど見えない。前に、巨大で醜悪な何かがいるからだ。

 派手な女の眦にみるみる、もはや感情によらず生理的な涙が盛り上がる。呼吸が荒くなり、まるで深い水底にいるかのような苦しみが襲う。

 これは、フラッシュバックではない。

 まさに今、彼女は、暗澹たるあの部屋にいる。

 どうして。逃げ切れたはずなのにどうして。そんなこと分かるはずがない。でも、これが幻でも何でもなく今この身をとりまく現実であるのだという絶望的な実感だけがあった。

 派手な女は咽び泣きながら踵を返し、ドアを開けようとする懸命に指や爪を立ててもびくともしない。

 そこで派手な女は、本当の意味で絶望した。

 男二人がいない。恋人でも何でもないけれど、日々感じる何かぞっとするほど虚しいものはいっとき埋められるような心地がした、しかしやはり上っ面の友だち。それすらいない。

 ああ、今私、この部屋に独りぼっち。

 嗚咽し、己の骨も砕きながら、彼女は暗い部屋で、巨大な何かが近づく確信を背に、朽ちても開くことのないドアを打ちつづけた。


 *


「——で、地味な女の人未だに見つかってないし、他3人も今は入院してるんやってー!」

「ええ、待って待って、その終わり方するには怖すぎるっていうか謎多すぎる」

「そんなことないやろ?」

「ありまくりやねん。派手な女……いや噂にしても呼び方雑過ぎへん? 地味な女とか失礼すぎて笑うし。でその、派手な女……の人、実際どないなっとるわけ?」

「だから入院しとる。心神喪失? とかで」

「ああ。じゃあ、その部屋に独りとかいうのは女の人の妄想?」

「そうなんかなって思うやん。でも、他の2人も同じような感じやねんて。泣き喚いて「連れていかれる助けて、あの部屋にまた独りぼっちで閉じ込められる」って周りの人に縋りついたかと思ったら、目見開いたまま時間止まったみたいに棒立ちになったり、その繰り返しやって。だから、その時間止まったみたいになっとる間に、連れていかれとるんちゃうかって噂」

「その、化け物のおる団地に?」

「そーう」

「……」

「怖かった? これ、それぞれ3人が話して広まったらしいねんけど、まあ互いに見てた感じとか、その話を聞いた3人を知る人らが、いろんな予想やイメージをつけ足して、より詳しくなったのがこちらというわけです」

「田舎の怖さがよく伝わってきた。誰が当事者なんかもすぐ分かりそうやん、嫌やわ生々しい」

「けどなあ、この話には、怖い続きがあってさ」

「まだあんの?」

「その後、同じように肝試し行ったような子らが、やっぱり何人かは失踪して、残った子らも心神喪失やねんて。しかも、療養しててもある日突然行方不明になったりして!」

「あれ? ちょっと待って。その団地って北浦?」

「え、うんそう」

「こないだ、営業のヒロキらそこに肝試し行ってなかった?」

「あー。気づいた?」

「おい。あいつらピンピンしとるやんけ今も! ほんまうるっさいねんいつも、週末の東京のオタクイベント楽しみにしよったで」

「いや、そういうケースもあるんやって」

「社内の身近すぎる生存ケースあったら一気に眉唾っぽいちゅうねん」

「あっ。やばい、もう59分」

「もー。またトイレで昼休み終わってもたやん」

「顔も作り直せたしよかったやろ。貴重な情報共有の場ですやーん」

 化粧品を慌ただしくポーチに詰め込み、ヒールを鳴らし立ち去っていく音を聞いてから、日下 晴可(くさか・はるか)は個室のドアを開けた。そそくさと——さっきの話に当てはめると“派手な”——二人のあとを、出来る限り気配を消して歩く。午後勤務の始まる13時ちょうどには席に座っていなければならないのは彼女も同じだ。

 小さな会社なので、車も持っていないと昼休みを過ごせる場所が圧倒的に無いのが悩みだ。社内の悪口7割、恋バナ2割、怖い話1割。週3回の電話当番でトイレに張り込まない日があるとはいえ、月に1、2回は怖い話がある計算になるが、こんなに舞台が近いのはあまりない。まあ年に数回はあるが。

 大体の話のオチが失踪だ。実際、国の発表でも行方不明者が年間15万人をくだらないそうなので、そう非現実的でない。ただこれが捜索願いを出された件数だから、実際はそのあと一定見つかっているんだろうけども。

 さっきの話に出てきた地味な女の人だって、もう全部嫌になっちゃって、どこかに逃げ出しただけなんじゃないのか。

 窓の向こうの青空をちらと見上げながら細く息を吐き出して、すごいな、と思う。失踪するには勇気がいるし、仕事もお金も必要だ。だって逃げ出したままでいるには、戻らずに済む理由が必要なのだ。そこじゃないどこかで生活し続けていけるだけの基盤が要る。そんなものを用意するなんて、簡単にできることじゃないと思う。

 逃げ出すなんてお前には到底無理なのだから、大人しく皆の顔色を伺っていたらいい。一番正しい、それに楽だ。

 午後勤務開始のチャイムが鳴ったか否かというところで、係長が私の後ろを足早に通りざま、「茶」と唸った。晴可は慌てて立ち上がり、給湯室へ向かいがてら廊下の窓にしゃがみ込み、ファインダーから外を見下ろす。この仕草、フィクションで見かける滑稽な探偵みたいで少し気に入っていた。茶の令が下った時、ちょうど正面玄関が見えるのだ。

 黒いアルファードから、3人のスーツの男が降りてくる。一人白金に近い金髪がおり、スーツとのアンバランスに何だかギョッとしてしまった。

 とりあえず客人の人数は分かったので、給湯室へ飛び込む。

 急須に湯を注いでいると、エレベーターの方がやはり騒がしくなり、こちらへと足音が向かってきた。

「いやーごめんなさいね。そうなんですよ僕京都出身なもんで。東京から来とるのやから標準語期待しますよねえ? ほんま新鮮味のうて。その辺はこの人に期待してくださいよ」

 足音に混じり、和楽器の弦を震わせるようにどこか雅な、それでいて一切の重厚さが感じられない男の声が響く。

ぱっ、と、晴可は廊下を振り返った。

今、誰かが私を見た。誰とも目が合っていないのに、そう確信するほど射抜くような視線だった。こんな感覚はもちろん、初めてだ。

スーツの男たちの背中が見える。あの中にいたのだろう。

 応接室の扉が閉まる。

 気のせいかもしれない。

 いいや。気をつけろ。

 入れ替わるように、トイレで喋っていた女性二人が給湯室にきゃあきゃあと小声で騒ぎながらやって来た。先ほどのように個室で仕切られていないので、とても気まずい。なお気まずく感じているのは

 若手の女が3人しかいないので、お茶出し一つにしても、晴可が準備と片付け、残り2人が表へ出てお茶を提供するという役割分担が不文律で決まっている。まあ今回こちら側の人間を足しても5人程度だと思うので表へ出るにしても一人で十分なのだが、もちろん女子トーク会場として給湯室が選ばれたのである。

「みた? 顔みた?」

「どっちも割とイケとう。ていうかな、ぶっちゃけもうこの辺とは身のこなしがちゃう」

「そうやんなあ!」

「私金髪好きー。んふ」

「えっちょっとあたしも!」

「でもあの人ら国家公務員らしいで。ええの? あの色」

「マジ? 警察?」

「いや。あの運転してきたん保健所の人やわ。友達の旦那さんやから知ってるねん。だから労基とか厚労省みたいな……? なんかヒロキら呼ばれとったで」

「ええ、聞き取り調査? こんな風にやんの? 別にぜんぜん残業もしてへんのにな」

「もはやあいつらが社内で一番ホワイトやろ」

 晴可は湯気の立つ茶を盆に並べ終え、口角を上げて振り返った。

「はい、じゃあこれお願いします」

1人で十分なところではあるが、そりゃ2人ともその国家公務員メンズの前に再び立ちたいのだろうから、あえて2つの盆に分けてやった。と言う配慮は晴可からすればサービスのつもりだが、二人から言わせてみれば必須業務である。こういった必須業務を一つでも怠れば危うくなるのが、狭い狭い女子社会における晴可の立ち位置だった。

 二人はトークの歩みを止めないまま、盆を持ってそそくさと応接室へ向かった。


 *


 いつも通り要らぬ考え事ばかり過ぎって遅々として進まぬ事務仕事、その合間合間に邪魔をしてくる電話対応を終えてから、晴可は立ち上がった。ちょうど14時である。毎日、14時になったらゴミ袋を集めて出しに行くと決めていた。時間を決めておかないと忘れて、また怒られてしまう。怒られないためと考えると憂鬱だが、外の空気に少しでも触れられるので、晴可にとってそう嫌な仕事ではなかった。

 台車にいくつものゴミ袋を乗せ、1階の裏口を出るところで、ギョッとした。

 来客の一人である、金髪の男が立っていた。彼が手に持っているものを見て口をポカンと開けてしまう。電子煙草。まさに今吸おうとしている。

 信じられない。せめて数歩出れば屋外なのだから、そこで吸えばいいだろう。ただでさえ、この社内は屋外敷地も含め完全禁煙である。田舎にしてはやや珍しいかもしれないが、社長がかなりの嫌煙家なのだ。だから皆、自身の車でこっそり吸っている。

来客とはいえ、まさか館内で吸う奴がいたなんてなんらかの形で耳に入ってしまえば不機嫌は避けられない。それが回り回って下っ端の晴可たちに影響を及ぼすことは確信できた。

 いずれにせよ裏口のドアまで狭い通路であるので、彼にどいてもらわねばこの台車は通れない。

 やめておこう。何も今ゴミ出ししなくていい、帰れ。席へ戻ろう。あいつは怪しいから近づくな。いつも通り過ごそう。

 いやそんな言い方はさすがに失礼だ。ここまで来たのに引き返すのもおかしい。

 晴可は迷いに迷って、少し離れたところから声を張った。

「あのうすみません、ここ、禁煙なんです。あの、そのドアの外でなら、まあ」

 スイと男は晴可を見た。すごい、絵に描いたようにつり上がった切長の目だ。これはもしや、

「ごめんなあ」

 やはりそうだ、笑うと完全な狐目になる。

 電子タバコの吸口を咥えたまま器用にニタっと白い歯を見せている。ああチャラい。言われる前から分かりきっていたという態度。とんだ不良。公務員でもないのにキ真面目に服務している自分がバカらしくなる。

体の奥底から湧き出す苛立ちをまるで見透かすかのように、金髪は電子煙草を口から離してドアを開けた。そのままの姿勢で立っている。暫し呆気に取られて、晴可のためにドアを開けているのだとようやく気づいた。

「す、すみませんすみません」

 慌てたおして台車で突っ込む。

「すご、チョロQみたい」

 懸命のスピードに金髪が吹き出す。ああ小馬鹿にされた。誰からもこうだ。

 ドアが閉まる音がする。そっと振り返ったが、やはり金髪はそこにいた。そりゃそうだよね、今から喫煙するんだもんね。

 気まずい。史上最速を意識してゴミをゴミ捨て場に放り投げる。

「日下さんてね」

 耳を疑った。今、この金髪は晴可の名前を呼んだのか?

 ぎ、ぎ、とポンコツロボットのように晴可は振り向いた。すでにお楽しみ中の金髪はスパーと煙を吐き出して、笑いながら指さした。

「いやいや、名札名札」

 胸元に下がっているネームホルダー。

 そんなことは知っている。そりゃ、例えば向き合っていて、金髪がネームホルダーを覗きこみながらそう言ったのなら、晴可だって驚きはしない。

 しかし今、晴可は金髪に背中を向けていた。ということはつまり、遠くから晴可が声をかけ、その後チョロQランニングをかました僅かの間に、名札を確認していたことになる。それだってかなり見づらいだろう。まるで、初めから把握するつもりであったかのようだ。

そもそも、今時館内禁煙なんて常識である。首都東京なら尚のことではないのか。注意されるのが分かりきっていたなんだか全て白々しく思えてくる。

待たれていた?

 まさか。

「お〜い」

 でも、晴可をということではなく、誰でもよかったんだとしたら。

 何のために?

「取って食ったりしやんよ〜」

 返事して〜と情けない声と共に、筋張った白い手がにゅっと伸びてきて、台車に残っていたゴミ袋をゴミ捨て場へ置いた。スーツの袖から、手首に小ぶりの数珠が覗く。その光景の馴染みのなさが天元突破して、晴可は目を見開く。

 金髪は、晴可のすぐ隣に並んでいた。

 晴可はもう我慢できなかった。

「ぎゃあ」

「傷つく! 傷つくねん僕かって!」

 晴可の叫びはすぐさま、金髪の悲鳴に超越された。確かに悲壮感が負けていた。その実感を得た晴可はなんだか、スンと落ち着いてしまった。

 金髪は色々仕切り直すように、電子煙草を吸って、吐いた。晴可の緊張を誘わないためなのか自身の心を守るためなのか、晴可の方は向かず、カウンターバーのように横並びで、目の前のゴミ捨て場を見つめていた。その目尻が少しだけ赤くなっていて、晴可はやおら申し訳なくなる。

 煙を吐ききった金髪が口火を切った。

「質問してもよろしいですか?」

「……はい」

 晴可は素直に頷いた。金髪にならってゴミ捨て場に視線を置きながら。

「日下さんて、この職場は長いの?」

 もう質問の意味など勘繰らないように、晴可は気をつけた。どうせ分かりはしないし、存外繊細な金髪を無駄に傷つけるだけのようだから。

「長いということは……。4年目です」

「4年目かあ。頑張っとるねえ」

「いえ、そんなことはないです」

 金髪がこちらを見た気配がして、晴可はしくじったと思った。純粋な否定は悪目立つ。慌てて「ありがとうございます」と連打しておく。

「生まれた時からこの町?」

「そうですね。大学でいっとき離れましたけど、それ以外はずっと……20年くらい」

「そうかそうか。しんどくない?」

「しんどいのは……仕事なら皆そうかなと思って」

「まあ、それはそうよなあ」

「………………」

「…………占いとか好き?」

 晴可は顔を顰めた。なんだ、ただの雑談がしたかったのだろうか。だとしたら、晴可が気を遣ってここで応じる必要はない。何か余人には測れない業務上の理由があって、金髪が必死になっているのだと思っていた。そうではないなら早く戻らなければ、怠けていると怒られるぞ。お前はただでさえ仕事の進みが悪いのに。

 興味ないですとはっきり拒絶しようとした時、

「気悪うせんといてな。僕らふざけた仕事やけど、ふざけとる訳やあらへんの」

 金髪はいつの間にか電子煙草を仕舞い、何も持たずに晴可に向き直っていた。困ったようにヘラッとするその口元にはあまりに飾りがなくて、やはり晴可には眩しく、彼の胸元に目をやることでやり過ごした。ふと、そのスーツの襟元につけられているピンバッジに気がついた。なんだか、行政とか専門職っぽい。その模様が妙に見覚えがあるように思えて、不思議だった。

「日下さんに気張ってほしくなかったんよ。だってもうすでに、ガチガチに強張ってはるからさ」

 強張っている。それは、そうだろう。きっと社会人みんなそうなんだと思っている。というか晴可にとっては、集団の中にいる時はいつもそうだ。

「申し訳ないです。日下さんには不快な思いをさせてしまって」

「い、いえ……」

 さっきまでへにゃへにゃしていた言葉までやや背筋を伸ばさせてしまい、晴可は反省した。何も言っていないのに、すべて金髪に伝わってしまっている。

「こちらこそお役に立てず、申し訳ないです」

 晴可は心から頭を下げ、台車を掴んだ。足早に台車を建物のドアへ運ぶ。何分経っただろう。何も言われないといいけれど。

「小綴(こつづり)通りの、自転車屋の隣」

手を伸ばしたドアノブを、先に掴まれている。金髪はこのやりとりの冒頭と同じようにドアを開けて、晴可を促した。

「そこに、有名な占いの先生来てはるんですよ、今日。占いって少しやけど、孤独が紛れてね。気い楽になるかもしれへんから、もしよかったら」

 晴可はやはり、慌てて開けられたドアをくぐった。

 孤独が紛れるからと占いを勧めるなんて、聞いたことがない。

「……私って」

 ドアを開けたまま、もう建物に入ってこようとはしない金髪を振り返って、晴可は尋ねた。

「私ってやっぱり、そんな孤独ですか」

 金髪は笑った。

「まあ、みんな孤独は孤独ですからね」

 そうして笑顔を消し、糸目が切長の眼差しに変わる。

「でも、日下さんが自分の孤独に苦しんでるなら、それは助けられるべきモンですよ」

 とても優しい声を残して、ドアは閉められた。

 私が苦しんでいるかどうか。

 それが分からないから、私はずっと動けないでいたんだな、と、台車を押しながら晴可は腑に落ちた。

 晴可がついぞその優しさを受け取りきれなかったからだろう、寂しげにさえ聞こえた金髪の声を思い出しながら、そういえば狐だけでなく兎も、糸のようにつり目を細めることがあるなと気づいた。


 *


 ドアを閉めてから、金髪は深く長い息をつき、胸ポケットから一枚短冊のような、何やら筆で文字の書かれた紙を取り出し、ドアに押し当てる。その手首の数珠、一粒だけ赤い石が微かに光った。

「この一帯5メートル領域において、陰陽関係者以外の立ち入りおよび一切の見聞きを禁ず」

 短冊は金髪の言葉に呼応するように瓦解し、金髪の周囲5メートル、ちょうど裏口ドアを出てすぐの直径5メートルエリアほどにつむじ風のごとく吹き散らばって、滲み入るように消えた。

ゴミ捨て場のそばにある手洗い場に近づいた。割と新しいタライがあり、ラッキーだなと手のひらを擦り合わせた。

 蛇口を捻って丹念に洗い、水を張る。

 タライを地面に置き、金髪は水面を覗き込んだ。

 ざばっ、と水音がした。節くれだった手がタライのふちを掴んでいる。金髪はシャツを捲った腕を突っ込み、水の中からその人物を持ち上げた。

「お疲れ様です」

 水の中から這い出てきたのは老婆だった。着物のような狩衣のようなものを着ている。

「はい、ご苦労さん」

「めちゃくちゃガード硬いですよね」

「硬いなんてもんやない。ありゃあんたも運が悪いわ。ま、占いって形でいくんはええんちゃうか。神秘も保たれとるし、ほどようカジュアルで」

 老婆は腰の巾着のようなものから短冊のような紙を取り出し、何事か呟きながら胸元に当てた。途端、全身に滴っていた水分が、まるで自然に乾いていく光景を早回ししているかのようにカラリと乾く。

 金髪は申し訳なさそうに眉根を寄せた。

「そしたらすみません興津(おきつ)さん、お手数おかけします。プランBで」

「プランビーやらズィーやら知らんけども。あんたいい加減仕事で関わる老婆をババア呼ばわりはやめ、よ」

「……正式名称、「プランババア」やなくて「プランばあば」やのに」

「まあどっちにしても。こんだけ大ごとになったら老獪が出なしゃない(※仕方がない)。療養中やった子もまた2人隠世に落ちたいうて」

「うわ、ほんますか」

「ことの発端の一組目で顕世(げんせ)に残っとんのはもう神主の親類のチャラ男だけやわ。腐っても血は裏切らんな」

「ああ、怒ってはりますねえ」

「団地の周りはもう人払いしとるんやろ?」

「はい。規制柵立てて警察のパトロールもしてもろてます」

「うん。あとは日が沈む前に、札も撒いとかんとな」

 裏口のドアが開いた。大男が歩いてくる。

「因幡さん。面談、終わりました」

「お疲れ様ー。最後の子どうやった?」

「彼があのグループのキーマンですね。かなりバランサーで。3人の関係性をかなり対等に、健全に保っているという感じでしたね」

「ははあ。そら珍しいね。えーっと鈴原くんやったっけ、あの小柄なメガネくん。その子はそんなんで疲れへんの?」

「懇意にしている女性が、かなり聞き上手らしいです。そのひとが支えているようですね」

「なんやあ。羨ましい話やねえ」

「そうですね。お互いにそう思えていれば」

「……なるほど」

「そちらはどうでしたか」

「いや、うーん、……渡貫(わたぬき)い、多分人選失敗やったぞう」

「どうして? 因幡さんの方がずっと彼女も話しやすいでしょう」

「チャラって言われた」

 すかさず老婆が口を挟む。

「口で言われてへんやろ。顔に書いてあっただけや」

「言われたんと同じやないですか!」

 因幡と呼ばれた金髪はひときわ嘆いてから、タライを軽くすすいで、元あった流し台に置いた。

「ほんまにあんな普通の子が、たった一人で?」

「間違いない。渡貫はやっぱり良え目を持っとう。隠世のあの子を追うとったけど、ひどいもんやった。もう、輪郭が見えん。何百人と乗っかって、全員好き勝手に喋りよる。あの子に内側から何や指図でもしよらんかったらええけど」

「何百人、ですか」

 大男は思わず声を上げた。

 隠世は、この世と瓜二つでありながら、一切を飾ることのできない本質の世界、水面の向こう側だ。その人間一人一人の魂の在り方そのものが見える。そんな世界で、何百人もに押し潰されている。到底、尋常ではない。

 金髪もふるふると頭を振りながら、呆れたような笑い声をあげた。

「信じられへん。依代なんて一人を背負ってるだけでも療養しなあかんでしょう。それをあの子、しっかり顕世の僕を見て会話してましたよ。そりゃ時々ぼーっとしとったけど、別段違和感あるほどでのうて……」

「そうや。なかなかあることと違う。大阪部署の二人がやられる事態やで。そやからわざわざ東京から呼ばれとんや、あんたら。あとOB、やないOG(※自分を指差しながら)も!」

「そうですね、淡路島から呼ばれたOG。どうも。まあ、近畿圏は大阪部署に二人しか正規の陰陽職おらん事態がまずもってヤバいっすけどね。人手不足のレベル超えとるでしょ」

「なんにしても」

 にわかに間の抜けた空気が切り裂かれ、金髪と老婆は大男——渡貫を振り返った。大きな手を組み合わせ、握り込んでいる指先には、力がこもっていた。

「日下さんを解放しなければなりませんね」

 興津はあぐらをかいた膝に肘をついて、目の前の会社のビルを見上げた。その手首にもやはり、小ぶりな数珠を通している。

「そうや。それがあの子にとってどれだけつらくとも」


 *


「ああ、ラーメン屋」

晴可は、夜道で顔をブルーライトに照らされながらそう呟いた。もう片方の手には、手書きのメモを持っている。何だか気になって、記憶に起こして描いてみたのだ。

金髪男の襟についていたピンバッジ。桜の花の形をしていたのはおそらく国家だから。でも菊の方じゃないのも少し意外だ。その中心で二つの白と黒の勾玉が向かい合って、一つの円を成している。その円の模様は太極図というらしく、見覚えがあったのは、中国由来だからだろうか、ラーメン屋のモチーフとして昔見かけたことがあったからだ。まあ、それだけなんだけど、なぜそんなものが国の職員の徽章になっているのかはやはり不思議だ。

今日もやはり随分遅くなってしまった。もうすぐ零時になる。相変わらず仕事がやってもやっても終わらないのだから、仕方ない。

金髪男と大男、そして二人を案内してきた保健所の職員は、営業部の川田ヒロキ、新見シンゴ、鈴原カイタを30分ずつほど呼び出して、あっさりと帰った。ちなみにこれなぜ下の名前がカタカナなのかというと、たんに晴可が思い出せないからだ。

そう、まるで忘れてしまったかのようだった、あの、国から来たという奇妙な男たちのことも、誰もが。夕方の定時を迎える頃には、その話題を口にする者はいなくなっていた。

「ほん〜まええ男おらん」

「もう見るだけでええからさ、なんかっ、感じさせて欲しいよなぁ洗練された感じをさあ」

「あんたやばいでそれ。飢えすぎ」

 若手の二人から聞こえてきた会話のあまりの「いつも通り」が、無性に不気味だった。

 関わるな。お前もあの男どものことはすぐ忘れてしまえ、その方が楽に生きられる。

 そうだね。きっとそうだろう。胸のうちにいつも通り頷いてみせる。

ふと顔を上げて、小綴通りに差し掛かっていたことに気づいた。

有名な占いの先生。

やめろ行くな。

いや、だって、さすがにこんな時間にはいないだろう。自分が歩く道の直線上、自転車屋の辺りに目を凝らした。

 何やら、屋台のような灯りがついている。簡単な間接照明のような。

 半信半疑でそちらへ歩き進める。ああ、行くな。行ってはいけない行かないで行かないほうがいいのに。

 どうして? 気になるじゃないか。占いなんてしたことない。

 したことないことなんてしないほうがいい。

 そうかな。したことないことをしてみないと、何も変わらないんじゃないかな。

 変わろうとするな!!

 晴可はビクッと立ち止まった。

「やっていきますか? 占い」

 もうはっきりと顔が見える距離に、占い師の老婆がいた。「占い 本日無料」という張り紙を台につけて、こちらを窺っている。

 晴可は何だか笑ってしまった。うさんくさ。

絶対に罠だ。

さっきから晴可の内側が騒々しい。これまでにないほど、怖いほどに。

お前は騙されている。私たちは騙されている。

それでもいい。

だって何であれ、金髪は晴可をここに誘ったのだ。誘いに乗っている間は、独りぼっちではないから。

 晴可はなかなか進まない足を懸命に動かして、老婆の向かいの椅子に座った。

「そのわた、わたし、占い初めて、で」

 声が尋常でなく震える。まるで声帯ごと抑えつけられているみたいだ。それはもうたくさんの、指先で。

「ええ、ええ、大丈夫ですよ。手を出してくださる?」

 老婆は台の上に両手を差し出した。その右手首には、小ぶりな数珠がある。そういえば金髪も、似たようなものをしていた。

 晴可はのろのろと右手を差し出した。一向に前に出ないその手を、老婆は鋭い目つきで迎えにきて、掴んだ。

 反対の方の手で、晴可は耐えられず耳を塞いだ。何かものすごい叫喚がつんざいた感覚。

 老婆も顔を歪めていた。

「ああ。ひどい傷だらけやねえ。でも他人が邪魔しすぎて、よう見えん」

 小さな声だったが、そんな風に聞こえた。

 落ち着き払いつつ力を込めた語調で、晴可に言い聞かせてくる。

「今からいくつかの質問をします。頑張って答えられますか」

 頷くと、老婆は頷き返してくれた。よし、よし、と確かめ称えるように。

「最近、困っていることは?」

「わか、分かりません、もう」

「いいですよ。分からないから困っとるんやね」

「そうです」

「今、怖いですか?」

「はい!」

「どうしてやと思う?」

「おこ、怒られてまうから」

「誰に?」

「誰、……皆に」

「皆はどこにいる?」

「わた、私の中」

 言ってから、ゾッとした。

 私の中にいる、皆?

 もう何年もの間、知らずぴったりとついて対話し続けてしまっていたことに気づく。晴可を「お前」と呼び、強い言葉で諭してくる、皆。踏切の中でカンカンと鳴って慌てて渡ったら「えっ生きたいんだ」と嘲ってくる、皆と。

「このひとら誰なんですかっ?」

 晴可は叫んでいた。

 何か音が鳴っている。鉄を打つような音。ドア? そうだ。ドアを叩いている。何か得体の知れないものたち。

「出て行ってもらいましょう」

 老婆の髪が揺れている。風が吹いているんだろうか。浴衣のように垂れている袖もだ。狩衣というんだろうか。

「あなたの魂は、あなただけのものです」

 老婆の発言に激昂するように、晴可の中から何かが勢いよく沸きたった。その総毛立つような不快感に、晴可は悲鳴を上げた。

「顕世の地盤、不安定です。こんままやともろとも、落ちます!」

 すぐ右後ろから、弦を弾くような男の声がする。金髪男ではないか? 老婆が強靭に応えた。

「かまん(※構わん)。このまま攻め入る」

「うおー、わっかりました……」

 どこまでも何だか軽薄な男にも、なぜかこんな時なのに可笑しさが込み上げてくる。

 この人たちを、信じていいのだろうか。

 風だか衝撃だか正体の分からない波はどんどん強くなる。体はどんどん重くなり、下へ下へ、体が引っ張られている。それでも離されない右手。

 信じてもいいのなら、私はようやく、言ってもいいはずだ。

 こんな、みっともないこと。

「たすけて」

 ほとんど声になっていない。だめだ。こんなのでは届かない。

 がんばれ。

「たすけて、くださいっ」

 聞くに耐えない発声で、それでもはっきりと鳴った。

「よく言えた」

 知らない声だ。愛想がないけれど深く落ち着いた、不器用に包むような声。

「必ず助ける」

 泣きそうになるほど頼もしい言葉とともに、左の肩が暖かくなる。

 ああ、でも、もう落ちる。どこへかは分からない。きっと奈落の底ほど深い下層。

 細く目を開くと、左の肩に逞しい誰かの手が載っていた。その手首、視界の本当端っこに、青い石の数珠が見えた気がした。

 がくんと自身の頭を支えきれず、顔が上向く。

 臓腑が浮き上がるような、凄まじい重力を感じた。落下していく。落下していく——

 ——一緒に来てくれるだろうか。


 *


 瞼を開けた。はずだった。

 何も見えない。

 本当の漆黒だ。

 手を動かす。足を動かす。ざりっとした感触が触れて悲鳴をあげた。自分の声に驚き、晴可はふと冷静になった。

 今、自分の声が響いた。まるで狭い部屋に反響するような聞こえ方だった。

 足には感触があった。そろそろとまた動かしてみる。これは……畳?

 ということは、ここは空間であり、自分には体があるのか?

 それは言うなれば当たり前なのだが、だとすればこの漆黒が妙だ。まるで何も、見えていないような——。

 晴可は自身の目元を触った。まつ毛と、目の粘膜のきわ。その感触からして、明らかにこの目は開いている。

 でもこんな暗闇は、目を閉じているのでないと有り得ない。そう思う。

 なぜだか分からないが、今、目が見えない。

「お、お婆さん! 金髪のかた! あとえっと……大きいかた!」

 その声の気丈さに、我ながら驚いた。先程自身の中を取り巻いていた凄絶な嫌悪感は、今は止んでいた。就職してからすぐに、折に触れて晴可を否定し続けた群衆の声も今はない。だからだろうか。3人のうち1人の名前もわからないことをどこか可笑しむ気持ちすらあった。

 答えはない。

 気の遠くなる静寂が、続いた気がした。

 だんだん、さっきのことは全て夢だったのではないかと思い始めた。老婆が手を握り、金髪も、危ないのにすぐそばにいて、恐らく大男が、肩に手を置いてくれた。化け物のように取り乱していた、晴可に。

 これまでの人生からみても、有り得ないと思った。

 本当はずっと独りで、この漆黒に取り残されていただけなんじゃないか。

 晴可は徐々に上体を倒し、もはや黒々とした人ならぬ山のような面持ちで、へたり込んだ。

 その背中にふと、手が置かれたような気配がして、顔を上げる。

「えっ」

 晴可はあっけに取られ、目を瞬いた。束の間視界が遮られ、またひらける。薄暗い和室だ。これはアパートか団地の一室?

 急な変化だった。

 目が見える。

 しかし、奇妙な感覚だった。まるで自分の目ではないようなのだ。晴可の意思とは関係ない動きをしている。目の動きに誘導されるように、晴可は丹念に部屋の中を探っていった。目についていかないと目がまわってしまうから。おかしな話だ。

 しかし、なぜだか嫌な風には感じられないので、晴可は落ち着いていた。

 と、奇妙な音が立て続いているのに気がついた。耳鳴りのようだったそれが、やがて何やら人の声のような輪郭を帯びる。

「おーい、おーーい」

 振り向く。どこからということもない。強いて言うならこの頭の奥から?

 不意に、はっきりと聞こえた。

「誰ともチャネルが合えへん! 日下さーん……や言うて……ハハハ返事できるわけないやんね冗談……」

 その困り果てた声に、

「金髪のかたですか?」

 と素っ頓狂に聞き返してしまった。

 一瞬の沈黙。

「えっ!?」

 驚きと喜びと驚き。

 激しい音量に晴可は耳を塞いだ。がしかし、これはあまり意味のない仕草だろうなと感じた。

「君、ほんまに日下さん?」

 やはり声だけが聞こえる。まさに電話みたいだった。

「はい、日下です」

「わ、わからん。なんでこんなことなっとるんや……ここ君の隠世やんな……君ってなんでそんな普通に会話ができるの……」

「かくりよ?」

「ああごめんね。なんとなくもう分かるかも知れへんねんけど、ここって僕らがいつも過ごしとる世界、言うんかな、そういう場所とそっくりやけど違う場所なんよ。君にとっての内面の世界。この中で本来、僕らの仕事は君の中の悪いもんと君とを引き剥がす冒険をせなあかんのやけど……、いかんせん僕、団地から締め出されてしもて」

「締め出された?」

「もとより現実——顕世て呼んでるんやけど、そっちで、団地の周りに柵立てて人寄せ付けらんようにしとったんよね。その事実の解釈を悪用されてる。「陰陽関係者意外立ち入り禁止」のまじないを「陰陽関係者は立ち入り不可」の呪いに変えられてもうた。だから僕らは今、この規制柵を越えてそっちへ行かれへんねん。ぶっちゃけとても困ってます」

「おんみょ……?」

「ごめんなあ。そうやんなあ。いきなり語られて、ついてこれるわけないやんなああ」

 金髪の声はうーんうーんと唸りながら、なんども同じ説明を、言葉や例え話を少しずつ増やしたり変えたりして繰り返した。晴可は壊れたロボットのようにウニャウニャ反芻しながら、

「つまり、金髪のか……じゃなくて因幡さんたちは、昔でいう陰陽師みたいな仕事をしてて、私の中に住んでいたたくさんの人の魂ズを祓うために、私の内面の世界に今こうしているけど、」

「そう、そう」

「たくさんの人の魂ズは抵抗していて、因幡さんたちはバラバラにされて互いの消息不明なうえ、問題の団地内に入ることすら不可能ってことなんですね?」

「すごおい! さすが20代!」

 おとは聞こえないが、金髪が拍手しているらしい気配がした。

「因幡さんおいくつなんですか」

「20代ではないです」

「30代なんですね」

「うん……」

 寂しげな声のあと、ふと金髪は声色を変えた。

「日下さんから渡貫の気配がするんよなあ。あいつこっちやと話されへんから、ひょっとして憑いとんか?」

「憑いて?」

「ああ、まあ今僕やと日下さんに念話しとる上体なんやけど、これは「聴覚に憑いてる」と言えるわけなんよね。あいつの場合、ちょっと厄介な呪いの後遺症で喋れらんから、例えば——」

 あっと晴可は声を上げた。

「目、おかしいんです! 見えんくなった思ったら急に見え出して! しかも勝手に動くんです。じゃあ、目に憑いてはると思います!」

 晴可は興奮気味に自身の目を指さした。金髪には見えないだろうとは思いつつ、思わず。

 金髪は暫し黙り込み、

「……そんなことできんの!」

 と仰天した。

 状況を整理し、束の間二人は黙り込んだ。

「現状、君しか団地の中で動ける人間がおらんみたいなんよ。興津さん……お婆さんは凄腕やから今頃どないか動いてはるとは思うけど、なにぶん連絡つかへんし」

 ふと、晴可は尋ねてみた。

「つまり、私がその、大冒険するしかないってことですかね、この、内面世界を?」

 金髪はまるで携帯のバイブレーションのような音を立てて、

「ごめんなあ。こんなん前代未聞なんやけど……まずもって依代にされとる君が元気なんも不思議やし」

「多分、そうあれかし、なんやと思います」

「ソウアレカシ?」

「何にもわからないんですけど、なるべくしてこうなった、ってことです」

 晴可はつとめて明るく優しい声を出した。

「私の心は、私が一番分かっていたいですから。冒険、してみます。因幡さんも、多分渡貫さん? も、いてくださることやし」

 金髪は雄弁な沈黙ののち、感嘆したように笑った。

「よし、そしたら、頑張ってみよかあ。幸い僕ら、誰も独りぼっちやない」

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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