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「好き」「特別」がわからない

そういえば私は人のことが好きな状態ってわからないなあ、と思った。
何でも好きな人といると世界が輝いて見えるとか、どうしようもなくドキドキするとか。
私が今まで生きてきた中で、誰かを"好き""特別"と思ったことはあっただろうか?
恐らく、ない。

小学生の頃「好きな人いないの?」と聞かれ、苦し紛れに答えた男の子。
確かに好いていたけど、その子が私にたくさん話しかけてくれていたから嬉しくなっていただけだと思う。
または大学の同期生。話がうまくて積極性もある上、勉強熱心。学生の時点で大きなことをやっていた。私にないものをすべて持っていた。途中から完全に憧れだと気付いた。

人として普通に好き、はあるけれど

最近思い至ったのだが、どうやら私は人に「人として好きだな」とは感じるらしい。
それもある程度時間はかかるものの、割とお手軽に。ちょろいのかな。
下記のアルコールを摂取しながら書いたnoteに綴ってある。
ただその普通に好きな人が顔を歪めているのを見ると、私は少しがっかりしてしまうのだけど。

私にとって日々関わってお世話になっている友達や家族、同僚は皆その分類だ。
(あとは好きな声優、歌手等芸能人の方々も)
グラデーションはあれど、人として好き。
一緒の空間に居て、同じものを食べて何気ない会話をするだけで楽しい。
好きだからその人たちには幸せに生きてほしいと願っている。

私も人間なので"人として普通に好き"な人達とは人としてもっと仲良くなりたい(恋愛的な意味はなく)。
けれども相手に踏み込む勇気が出ないのか怖いのか、いつも踏みとどまってしまう。
心を開き、自分をさらけ出すことができない。

「人として好きで信頼もしている人達なのに、なぜ踏み出せないのだろう。頭でも心でも何も怖くないとわかっているはずなのに」
悩んで、自分に欠陥があるんじゃないかと悲しくなる夜もあった。
そんなとき本か記事で読んだ、下記の卵が先か鶏が先か理論の話。(ちゃんと出典調べておきます…)

逆説的だけど、一歩踏み出してみて、その一歩が受け入れられる場所(相手)が信頼や安心ができる居場所だ。

なるほどなと思ったし、このときパッと把握した。
もう相手を怖くない、信じていいと理解していたら何をどうしようと踏み出すしかないのだ、と。
半ば開き直りで、でも勇気と志を持つ革命軍のような心持ち。大げさすぎるか。

「その人のために何かしてあげたい」

「その人の幸せのためできることをしたい」
私はそうした感情を抱くことが"特別"に"好き"である最低条件だと考える。
(それに加えて冒頭に書いたドキドキやその人のお陰で生活に彩りが添えられる、が存在して"特別""好き"が完成するのかなと予想している)

私がいま"人として好き"な人達に対して、何かしてあげたい、
あるいは(自分のエゴで)何かしたいと思ったことはない。あまり。
もちろん人が困っていたら助けたいけど、できる部分はここまでだよね、と勝手に考えている節がある。気がする。
その後に他の人が困っている人の相談に乗っているのを見ると、「ああ私もそれくらい深く立ち入った方がよかったのか……」と呆気に取られる。

私にできることは微々たるものと思っているから?やっぱり一定以上踏み込むのが怖いから?結局は自分のことしか考えてないから?
どれも間違ってはいない。
けど問題は、今後も私はこのままなのかということ。
単純にいま"人として好き"な人にそこまで何かをしたい感情を持ち合わせていないのだったら、感情を育てるか、そう思える人に出会ってゆけばいい。

けれど本当は私が"人として好き"な人へもっと踏み込んで何かしてあげたいのだとしたら。
その感情を抑えて、「どうせ私より優秀な他の人が助けてくれるから」と目をそらしていたら。
"優秀な人が助けてくれた方がいい"は紛れもない正論で、それでも手を差し伸べるのは私のエゴだと思っていた。
だけど私が目をそらし、ここまで助けたからねとお別れした相手はどう感じただろう。
また自分はそれで納得していていいのかな。

誰かのために潔く動ける人間になりたい。
例えその根本がエゴだとしても。
誰かのためを思ってどこまでも行動できる人は、愛を持ってると思うから。

どうしたら、ちゃんと人と関わっていけるのだろう。
誰かを好きだと、特別だと思える人になりたい。
そちら側に行きたい。

***

「心臓が選んでくれたらいいのに」

どうして年の瀬にこんなつらつらと書いたかというと、コミックス「やがて君になる」を読み始めたからです。

(あらすじ)
人に恋する気持ちがわからず悩みを抱える小糸侑は、中学卒業の時に仲の良い男子に告白された返事をできずにいた。そんな折に出会った生徒会役員の七海燈子は、誰に告白されても相手のことを好きになれないという。燈子に共感を覚えた侑は自分の悩みを打ち明けるが、逆に燈子から思わぬ言葉を告げられる──
「私、君のこと好きになりそう」

やがて君になる | 特設ページ | 月刊コミック電撃大王公式サイト  より

私はアニメ視聴済みなのだが、登場人物の揺れ動く感情にこちらまで心を揺さぶられている。
繊細な言葉選び、ニュアンスを含んだ表情、情景の美しさも噛みしめて5巻まで読了。
誰も好きにならない、そんな自分を変えたいと願っていた小糸侑。
誰も特別に思わない侑が好きで、侑を好きな自分は紛れもない自分だから安心、と言う七海燈子。
この時点ですでに残酷さを感じるが、ここから二人のやり取り、心の動きを経て関係性は変化していく。
全8巻を読み終えたとき、彼女たちの関係性は何らかの結末を迎えている。
その前に、いまの自分の人に対する"好き"の状態を記録したかった。

ちなみに見出しの「心臓が選んでくれたらいいのに」は小糸侑の台詞(2巻第9話)。
誰も選ばない。ただ燈子が選んだから一緒にいる侑。燈子の侑に対する挙動の変化に驚きながらも、自分が変われない不安を抱いている。
心臓がこの人だ、いまだ、と選んでくれたらただ従うのにね。あまりにもぴたっとはまっていてアニメ視聴時にうなだれた。

なんとなくだけど、物語開始時の小糸侑のように、誰も好きにならない(嫌いにもならない)人は多いんじゃなかろうか。
無意識か、考えたうえで敢えてか、過程は様々あるだろうけど。
世の中目まぐるしくて、好きとか嫌いとか尖った感情に構っていられない人もいるだろう。
それにSNSや一人でも楽しめる趣味が広がって、最低限の寂しさは解消されるから。

***

もう12月31日で、2019年も終わり。
今年一年の振り返りを書こうかとも思ったけど、勝手にやって文章にできたらどこかにアップしようか、否か……と言っている間に年を越しそうです。

来年もいろいろ地道に挑戦しつつ、人と深くかかわっていけるようになりたいな。
空回りもすると思うけどどうか引かずに、いや内心引いててもいいのでお手柔らかに。注意や意見はどんどん受けるので。
よろしくお願いします。


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