スリーピー・ジョン・エスティスの真実
※2023年7月にOFUSEにて配信されたコラムを編集し再掲したものです。
親愛なる友だちへ、ひねもです。
“鶏が先か卵が先か”
ではないけれど
名盤と呼ばれる音源には名ジャケが付き物。
名ジャケだから中身も素晴らしいのか。
中身が素晴らしいから名ジャケに感じるのか。
今回紹介したいのは
“スリーピー・ジョン・エスティス”
プロフィール
1899年生まれ(もしくは1904年)
この時代は大らかなので出生とか細々したことは不明なことが多い。
とにかく今から100年以上前だ。
日本だと大正時代くらい。鬼滅の刃のあの頃ですね。
そんな大昔にスリーピー・ジョンはブルースをやり始める。
ストリートや酒場やパーティーで歌って小遣い稼ぎをしていたジョンは地元で人気になる。
1929年にはメンフィスでレコーディングのチャンスも回ってくる。
その後シカゴに移住。
ニューヨークでもレコーディングしたりと精力的に活動するが、ブルースやカントリー自体の人気が下火になったこともあり音楽を辞めてしまう。
それが大体1940年ごろの話しらしい。
そこから世界は第二次世界大戦などで激動を迎える。
そうした時代の渦の中でジョンは世間から忘れさられてしまう。
長らく消息不明になっていたスリーピージョン。
戦後、かなり時間が経って1960年代になってからブルース研究者たちによって探された。
しかし
親交があった
ビッグ・ビル・ブルーンジー
による
”もしもジョンが生きていたら87歳くらいだろう“
という発言により死亡説が有力だった。
実際にはこのときのジョンの年齢は50代半ば。
何をどう勘違いしたのだろうか。
ビッグビルには当時30代くらいのスリーピージョンが還暦すぎに見えていたってことだよね。
老け顔だったのだろうか、、。
いくらなんでもそんなことあるのかなあ。。
…ともかく、その情報からジョンは死んだと思われていた。
しかし諦めずに捜索していくうちに
ビッグ・ジョー・ウィリアムズ
が
“あの辺に住んでるはずだ”
と有力な情報をくれてついに探し出す事ができたのです。
まるでRPGゲームみたいだ。
年齢不詳、住んでる場所もわからない。そもそも生きてるかもわからない。
そんな伝説のブルースマンを微かな手掛かりを元に探す研究者たち。
で、遂に”再発見”されたスリーピージョンは
貧しさから盲目になりギターもとっくに売り払っていて電気や水道さえ通っていない小屋に住んでいた。
…らしい。
ちなみに戦前ブルースマンの再発見自体は珍しいことではない。
あのサンハウスやミシシッピ・ジョン・ハートやブッカ・ホワイトも再発見アーティストだ。
彼らは戦前から活動していた。
しかし知名度が上がったのは戦後だいぶ経って若い世代によって再評価されてから。
スリーピージョンに話しを戻す。
極貧生活からミュージシャンにカムバック。
そしてレコーディングしてできたアルバムが
1962年録音
“The Legend of Sleepy John Estes”
邦題はそのまま
“スリーピー・ジョン・エスティスの伝説”
このアルバムがアメリカから遠く離れた日本でも発売(日本では1973年に発売)
当時かなりヒットし、なんとオリコンチャート入りを果たしたという。
“貧しさ”や”不幸“や”かわいそう”は日本人が大好きな要素。
わかりやすい貧乏エピソードのあるスリーピージョンは日本でも大ウケしたらしい。
“哀愁を誘う”
とか
“涙なくして聞けない悲痛なブルース”
とか
“不屈の魂”
などの謳い文句で売り出されたらしい。
ちなみに再発見&再ブレイク後に日本でライブもしている。
2度来日している。
その際には日本屈指のブルースバンド憂歌団がバックを務めた。
ここまでがジョンの簡単なプロフィール。
今回の本題のジャケなのだが注目ポイントはなんといっても
“カポタストが鉛筆でそれを紐で縛っている”
ところだ。
楽器に詳しくない方に説明をすると”カポタスト”というギターのキーを変える道具があるのですがそれを鉛筆で代用しているという。
このインパクト大なジャケがあったからこそ貧乏イメージにかなりの拍車がかかったはず。
カポすら買えないくらいの貧乏!!!!
…なのかどうかは知らないが、そうなってくるとスーツもサイズが合ってないようにも見えるし、ハットも借り物だろうな…
と貧乏イメージを膨らませてしまう。
このジャケを見ながらジョンのブルースを聞くと線の細いギターと絞り出すようなハイトーンボイスがより哀愁を誘うわけです。
…と、ここまでが紹介したい話しだった。
しかし、このコラムを書くにあたって再度ジョンについて調べたらどうも真実は随分と違うようなのだ。
貧乏だったのは事実。
だけれど若い奥さんがいて、5人の子供がいて、生活保護を受けて暮らしていたらしい。
奥さんの写真もある。
何歳差かまではわからないが還暦過ぎのスリーピージョンからしたらかなり若く、しかも芯の強そうな美人だ。
再発見時の
“盲目になり貧乏で電気も水道も無い小屋に暮らしていた”
というエピソードから
独りで寂しく暮らしていたのだろうな…
と勝手なイメージをしていた僕からすると
むむっ!
なんだかずいぶんイメージと違うぞ!
若い嫁さんをもらって子どもが5人って!!
ずいぶん元気じゃんか!!
と思ってしまうのです。
アルバム1曲目が”Rats In My Kitchen”という歌なのだけど、輸入盤しか持っていない僕は歌詞の内容までは知らずに聴いていた。
雑誌などで音源が紹介されるときは大概この1曲目について触れられていて
“ネズミにさえキッチンの食べ物を奪われる悲惨な暮らし、、、”
といった書き方をされていたので、そういう歌なのだと思っていた。
しかし、これもどうやら違うようだ。
当時のブルースマンは同じ曲でも時代によって歌詞が全く違うのですが、『スリーピー・ジョン・エステスの伝説』収録ヴァージョンだと
という内容らしい。
こうして和訳を読めばわかるが本当のネズミのことを歌ってるわけではない。
若い嫁さんとこさえた育ち盛りの子ども達をネズミになぞらえて歌ってるわけですね。
ブルースにはこういった比喩や暗喩が多い。
なので言葉通りに直接的に受け取ってしまうと全く違う内容になってしまう。
例えばハウリン・ウルフのスプーンフルブルースも、意味やスラングを知らずに和訳だけを見ると違った意味の歌になってしまう。
オリジナルのチャーリー・パットンのバージョンだとまた意味合いが違ったり。
たったスプーン一杯 という歌詞。
では何がそのスプーンの中に入っているのか?
スリーピージョンは貧乏な自分の暮らしをブルースにしてユニークにやってたわけで
あぁあぁオイラ
ネズミに食べ物を持ってかれちまった
あぁあぁオイラ
明日からどうすりゃいいんだ
みたいな捻りのないストレートな歌をやっていたわけではないようだ。
この重要なとこが日本にはうまく伝わってなかったと思う。
当時のキャッチフレーズは
“涙なくして聞けない”
だったわけだけど自虐&愚痴のブルースなので、むしろ笑って聴いてる方が自然な気がするのだ。
かわいい若い嫁さんとの間にできたかわいい子ども達が育ち盛りで困っちまうよ
というメロメロ親父の戯言なのである。
2番の歌詞では子どもから ジョン と呼び捨てにされてて甘やかして育ててますなぁ〜という雰囲気だし。
なので、これは僕の推測に過ぎないがジョンは何もかもわかった上で過剰に演出してたのではないだろうか。
そう思って改めてジャケを見る。
再発見されたときはお金が無かったのだから楽器や衣装は全てレコード会社なり事務所なりから支給されたはず。
年季の入ったギターや、サイズの合ってなさそうなスーツも演出なのかなと。
“鉛筆カポタスト”も怪しい。
スーツにハットにギターまで用意されて、カポだけ無くて代用品なんて事がありえるのだろうか。
カポが1960年代当時いくらだったかはわからないけど、そんなにめちゃくちゃ高い器具だったはずはない。
なので“演出”としてやっていたと考えた方が自然なのかなと思う。
スリーピージョンはこの貧乏路線の売り出し方に”乗っかって”たんじゃないかなあと思うのだ。
ライブでは長年の相棒ハーモニカ吹きハミー・ニクソンと2人で仲良くジャンジャカやってて楽しそう。
ハミーによると戦前のジョンは”ロバのように屈強な男だった“なんて話しもある。
元々はニューヨークまで進出しレコードデビューした人気ミュージシャンだったわけだしね。
日本での売り出され方は演歌に通じる悲惨押しでそれが大ウケした。
僕もそういったレビューとジャケのインパクトで音源を探して買ったし。
だけれども実態はずいぶんと違ったのではないか?
というお話しでした。
ブラザー、シスター、ライブでは盲目だからかハーモニカホルダーにマイクを挿して歌っててめちゃかっこいいです。ぜひ見てほしい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?