亡きしを偲ぶ

ふと、曲を聞いて思い出す事がある。

私には小さい頃、とても自分に良くしてくれる伯母がいた。それは母よりもたしか5つかそれくらい上で、まれに自分へと厳しくしつけをする父との間に立って、私が折れないようにしてくれていた。

”小さい頃”というのは、今はもう亡くなってしまっているからである。それもここ数年の事柄ではなく、もう20年は前になろうかというほど昔の話で。

当時の伯母の顔は覚えているが、声はもう過去の擦り切れた映像を見ることでしか思い出せない。その映像も、私が実家を離れてしまいそうやすやすと見れない状況ではあるので、私に向けられた優しい声色はもう記憶の底の底へと沈んでいる。

声を忘れていようが、その向けたれた声色の温かさも、尽くしてくれた様々なことも、心の奥には残っている。父とのこともそうだが、いじめられ泣きながら帰ってくるような時、落ち込んでいるときなどはよく励ましてくれたものだ。泣きわめくほど嫌いだった注射の針も、伯母の痛いもんは痛い!のひとことで何故か我慢できるようになった。それほどまでに私の中で伯母の存在は大きくて、偉大な人だったのだ。

そんな小さいこどもから見た偉大な大人も病魔には勝てなかったらしい。いつ頃からかは定かではないが、伯母はたいへんなびょうきなのだと母から聞かされた。元々別の家に住んでいた伯母は、いつの間にか病院で過ごす時間が増え、ついには病院から自宅や私の住んでいた家に足を運ぶことがどんどん少なくなっていった。

大好きだった伯母に会えないということは、小さく心も弱かった私からするとそれはとてもさみしいものだったように思える。”思える”というのは、何年も前のことで記憶が定かではないのが原因の1つとしてある、のだろう。

どんどん会える時間が少なくなっていく中、ある日、1日ずっと私の住んでいた家にいることができる日がやってきた。あとから聞いた話だが、そのときにはもう病気・癌は末期の段階で、伯母当人の願いで自分の妹夫婦と甥っ子の元へ来たという話だった。

元気だった頃とは違い頬も痩せこけていて、お世辞にも”元気”という言葉は浮かんで来ないような風貌だったが、自分の最初の手術痕を喜々として私にみせ「見て!へそ増えたわ!」なんて朗らかにわらうものだから、自分はああ、これから戻ってきてくれるんだな、なんてことを嬉しく思ったようにおぼろげながら記憶している。

当時の私の嬉しさとは裏腹に、癌というものは影響が強いらしく、それからしばらくして伯母は息を引き取った。

”亡くなった”という報告を親が受け、私も同伴してその死に顔を拝ませていただいたのだが、”見た”という記憶だけが残り、その実”顔”はまったく覚えていない。未だにその時の幼少の私には受け入れられなくて、その一部分だけけがおぼろげになっているのだろうな、と今では思っている。

あまりの衝撃に涙さえも出ず、母にすがりながらこんな時に泣けないのは自分はひどい人間なのかもしれないと訴えたことのほうが記憶に強く残っている。今なら、人は悲壮にくれると涙も出てこないということを理解しているので、自分なりに泣いていたんだなと思うものである。

結局、叔母と過ごしたのは両手で足りるほどの時間で、いつか行きたいねと言っていた沖縄にはついぞ行けずじまいで、それが1番の名残でもある。

今では母との会話で「こんなこと言ってたら伯母さんに笑われんな」などと話題にするほどにはいい思い出となっている。伯母は豪快な人でよく笑っていたような気がする。実際、私もなにかおかしいことがあれば伯母があの世で笑ってるだろうなとか、こんなこと言っていたら枕元に立たれるな、などと思ったりするほどには愉快なことが好きだった。

そんなことを曲を聞いて思い出し、ふと「今の私を見たら伯母は笑うのだろうか」と考えてしまった。

順風満帆な人生ではなかったし、人並みに挫折も経験し、諦めたことも多々あった。そんな私を伯母は満足して、あの世から見守れているだろうか、と。

旅立ってしまったあの人が今なにを思っているのか、笑っているのかは私にはわからないが、それでもあの人が笑えるように、改めて私は私らしく生きようと、そう、1つの曲を聞きつつ思ったのだった。





あとがき


あとがきです。急にとある曲を聞いていたら亡くなった伯母のことをどっと思い出したので、筆を執りました。小説のようなものです。どこまでがノンフィクションなのかはご想像におまかせします。



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