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波間に漂う

 人は、自分とは異なる比較対象を作らなければ、自分の姿が見えないのだろうか。
 人込みに紛れて感じる孤独よりも、たった独りの孤独の方が、いくらか安寧を感ぜられるのだろうか。私はよく夢をみる、波間に漂いなにも感じないうちに、水底に静かに沈んでゆく。その夢のなんとも心地よい感覚をいつまでも忘れることができない。


 電気を消して寝入ろうとしていた暗闇の部屋で、端末のディスプレイがポッと光を放つ。どこかの男が誘いのメッセージでも送ってきたのだろう、私は確認もしない。
 見なくてもわかる、こんな時間にどうせろくな誘いじゃないんだ。別に、男が全員淫猥だと言うつもりはない、私にも多少の責任はあるから。
 私はどこか少し人とちがうのか、節操がないと言われればそれまでだけれど、男女の関係をもつことを不潔だとは思わない。ただ、その行為に特別な思いを抱いた事はない。

 ではなぜ関係を持つのか?そう聞かれると困ってしまう。特別な思いを寄せず、その後の感傷に浸ることもない。コミュニケーションの一環としての行為。ただそれだけ。そこに、不潔だとか、不埒だとか、そんなネガティブな感情は一切ないのだから。きっと、分からない人には分からないんだと思う。
 しかし同時に、相手にはいつも不潔な何かを感じる。男性が、女性に性的な魅力を感じることは生き物として仕方がない事だと思う。でもなんだか、そのニヤけた薄ら笑いの裏側から、透けた下心が見えた瞬間に、どんなに魅力的な男であろうとも、一変して軽薄な、なんとも滑稽な存在に思えてしまう。そうすると、私の悪い癖なのか、そんな男性の心の底を覗いてみたい衝動に駆られる。そんな私の変わった性癖が、結果安易な関係を持つことになっているのかもしれない。
それとも……。
 
 そんな自己分析をしていると私の眠気はどこかへ消えてしまった。困った私はしかたなく、さっきのメッセージを確認する。同じような誘い文句の未読メッセージの中に、見つけてしまう。しまった、やっぱり見るんじゃなかった。そのメッセージの相手を確認してから私は後悔した。
『今から会おう』簡素な内容のメッセージに私は迷う。いや、迷っているわけじゃない。いつかは会わないようにしないといけないと思っている男。でもなぜか、この人の誘いを断ることができない。自分の意思がまるでなくなってしまったかのように、自己判断も、自己決定もできなくなる。原因はわかっている、きっと私はこの簡素な誘いの相手に心が揺れ動かされているんだ。


「こんな時間にありがとう」
アナタはいつも会った矢先に悪びれもせずそう言い放つ
「別に、とくに用事もなかったし」
そして私はいつも同じセリフでアナタに返す。この簡単なやり取りの後に向かうところはいつも一緒だ。
逢引の常なのか、それともただの肉欲を発散するためなのか、アナタは優しく私の手を握る。私はちょっとだけ手を引っ込めるのだけれど、結局は繋いでしまう。

 決していい男ではない。容姿が素晴らしいわけでもない。上面だけの優しさで、飄々とした風貌で掴みどころがない。『ごめんね』が口癖でそう言ったあとに子供みたいに照れ笑う。その笑顔が憎くて仕方がない。
 
「今日は他の女のところには行かなくていいの?」
「他に女なんていないって」

いつもの会話、手を引かれて部屋に連れ込まれるまでの一連の儀式。意味なんてないことはわかっている。アナタが嘘をついていることも分かっている。でも聞かなければ私の気が済まない。アナタに会うと、私の思考が停止してしまう。まるで初めから決められているみたいに、私の意思とは無関係にすべてがアナタの思うがままに操作され始める。
 別に、私は何を期待しているわけじゃない。アナタのような男に期待する事なんて何一つありえない。この先に起こることなんていつもと同じ、なんの代り映えしないただのコミュニケーションだから。



 私はベッドに横たわり、少し汗ばんだ身体と、弾む呼吸を整えながら、重い瞼を閉じている。そして、隣で私の頭を撫でているアナタを思い出す。アナタの息遣い、私の身体を愛撫する手の感触。そのどれもが優しくて、丁寧で、まるで熱量を感じない。瞼を開けば笑顔のアナタが隣に居る。実感を感じないアナタの行為と、瞳の前に実在するアナタ。私はいつもその不安定な、不確実な感覚に眩暈を覚える。
 
「アナタはズルい。そうやって楽しんでるのはいつもアナタだけ」
「ごめんね」

そう言ってアナタは困ったように、照れた子供のように無邪気な笑顔を向ける。その笑顔を私は直視することができず、枕に顔をうずめる。
 ベッドからアナタの重みがなくなって、私を顔を上げる。アナタはタバコに火をつけて紫煙をくゆらせる。私はこの光景が大嫌いだ。アナタの私に対する優しさが嫌い。私を惑わす笑顔が嫌い。でも、私に隠そうとしているアナタの吐く嘘は好き。存在を、実感を感ぜられないアナタの本音を見ているような気がするから。
 アナタも他の男もみんな一緒、違いなんて無くて軽薄で滑稽。でも、アナタとの無感覚なやり取りだけが、唯一私の心の形を顕にしてくれる。その矛盾がどうしても私にアナタを忘れさせてくれない。

 彼方に居るアナタを眺める視界には、真っ白なシーツの皺が連なっている。まるで時が止まった波間を見ているようだ。私はその波間に漂いながら、深く、水底に沈んでいく感覚を覚えた。

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