撰んだ水槽

 同棲している恋人とマリーンワールドに来ていた。福岡の東区海の中道にある水族館だ。二人とも多忙な中仕事の休みが被ったので、湊人は思い切ってデートに誘ってみた。恋人は平素インドアな方なので渋るかと思ったが、快く承諾してくれた。付き合って三年の記念日は一ヶ月前に過ぎていたが、時間が合わずに記念日を祝う事が出来ていなかった。
 マリーンワールドに恋人を連れてきたのは初めてである。恋人が小さい水槽を隅々まで観て回っているのを着いて回る。水槽には魚の生態などが詳しく書かれたプレートが近くにあり、恋人は興味深そうに読んで回っていた。
 一呼吸休憩しようと、外に出て二人でアイスクリームを買う。恋人は溶けて溢してしまうからソフトクリームが嫌いだったので、カップのものを二人で買った。湊人はバニラ味を、恋人はチョコミント味を買っていた。自動販売機でジュースを買うのは恋人の主義ではない。出掛ける時は水筒を湊人の分まで用意して持ち歩くことになっている。
 水族館の中に戻り、外洋大水槽の前まで来ると、二人でベンチに坐った。外洋大水槽は広々と視界全体を埋め尽くし、青々とした空間は清潔な空気が流れていた。二人で会話もなくアイスクリームを食べ乍ら外洋大水槽を眺める。スマと呼ばれる魚の群生が煌びやかな鱗に光を帯びて、渦を巻くかの如く泳いでいる。エイがその巨躯を優雅に魅せつけ、鮫たちが餌を探すような眼付きで泳ぐ。
 確かこの外洋大水槽ではダイバーが魚たちに餌を与えるショーも行われている。
「ダイバーのショー観て行く?」
 湊人が尋ねると、恋人は首を振りパンフレットのイルカのショーを指差す。湊人は確か昔に友人と来た時にイルカのショーの時間を間違え、早く着き過ぎてしまってそのままベンチで待っていた時の事を思い出した。イルカは飼育員も居ないのにショーの自主練を行なっていた事を思い出す。その事を恋人に話すと、
「私もイルカの自主練観てみたい」
 恋人の言葉を元にショーの時間を調べてみると、今日はイルカの体調不良でショーが行われないとのことであった。恋人は少し残念そうにはにかんだ。カップのゴミを捨てに行き、もう大概の時間を水族館で過ごしたのか、水族館の玄関先から見える空は夕焼けでオレンジ色に染まっていた。
 お土産コーナーに二人で行くと、何か欲しいものはないか尋ねた。恋人は今日観れなかったイルカのキーホルダーを渡してきた。購入して手渡すと、
「今度は一緒に観ようね」
 恋人はキーホルダーを徐に自宅の合鍵に付けた。湊人は恋人の笑顔を見て嬉しくなり、頭を撫でた。水族館を後にし、車に乗り込むと世界は燃える水槽の中のように思えた。恋人にも黙って買ったイルカのキーホルダーを湊人も車のキーにつけてみた。プラプラと泳ぐイルカは二人を繋いでいてくれる。
 そう思った矢先に恋人が湊人の左手を握り、何かを手渡してくる。それは先程のイルカが付いた合鍵であった。
「今度観に来るときは……友達で」
 恋人は今日は実家に送ってくれと頼んできた。理由を問い質そうとして、口を噤む。そうか、思い出作りに付き合ってくれただけなのだなと気持を諭す。恋人は湊人ではない別の水槽を撰ぶのだ。共に歩んで来た三年間、恋人にとってはどんな泳ぎ心地だったのだろう。湊人の思案は暗礁に乗り上げ、恋人を実家へと送り届けた。
「荷物はまた後日」
 車を出ようとする恋人の腕を引っ張って引き戻す。口付けをすると仄かにチョコミントの味がする。恋人は湊人の腕を振り解き、車を出て行く。恋人が浮気をしていたことは識っていた。しかし、最後には自分のところに戻ってくるであろうという過信があったのだ。
 一人取り残された車を発進させる。相変わらずイルカはプラプラと泳いでいる。湊人は一人になった家に戻ると、キーホルダーを二つ並べてみた。
 泣きたい気持を堪えた。一人きりの部屋は酸素のない水槽のようであった。

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