処女の頃

 この電車が明日に通じているかはわからない。只々、嫌気が差していた。恋人に別れ話を切り出してから、三ヶ月も経過している。女に縋り付き、捨てられまいとする男は只管に憐れであった。
 女は南福岡から博多に向けた電車に揺られていた。少し街に出て、お買い物などしようという試みであった。車掌のアナウンスが博多駅に到着したことを報せる。しかし、女は席を立たなかった。電車は博多を過ぎ、ゆらゆらと揺れ乍ら、夕焼けが街を焼き尽くす様を窓に映している。
 興が冷めたのだ。買いたいものなどそんなになかった。電車が日頃女が住んでいる土地を離れていく事に意味を見出していた。あの窮屈な日常を置き去りにして、女は何処で降りるとも決めずに流れる景色を愉しむことにしたのである。
 夜は更けていた。最終停車駅に着くと、女は漸っと席を立ち、駅へと足を踏み出した。レトロな趣きを漾わせるその駅は門司港であった。門司港は福岡でも観光客が賑わう観光名所である。しかし、平日の夜にもなると人の気配が乏しく、商店の並ぶ場所へ移動しても閑散としていた。
 女は観光を得意としていなかった。人混みが苦手である。門司港と云えば名物は焼きカレーだろう。が、そんなものは女の心を唆ることはなかった。
 女はファミリーマートで、缶の甘めのカフェオレと、煙草を一箱とライターを購入した。煙草の銘柄はマルボロのアイスブラストだった。初めて交際した恋人がこの銘柄を吸っていたのである。女は嫌煙家であり、煙草など購入したこともなかった。煙草を指差したのはほんの気紛れであった。この銘柄しか知らなかったので、必然的にアイスブラストになってしまった。
 八ミリというタールが重いのか軽いのかさえ識らなかった。
 女は袋をぷらぷらと提げ、港のコンクリートの縁を歩いた。月明かりが海面を照らし、街灯が少ないのに、街は煌びやかであった。海側に脚を放り出す形で、女はコンクリートに坐った。お尻がヒヤリと冷たかった。
 煙草と共に買った缶を空けて一口嚥下する。ほろ苦いような少し甘いような、そんな味わいを噛み締め、箱から煙草を一本取り出し火をつける。アイスブラストはフィルターの部分にカプセルがあり、それを噛むとメンソールの味がするという代物であった。女はカプセルを噛むとカチッと心地よい音を聞いた。
 初めての煙草である。確か火をつける時は、フィルターから空気を吸い込み乍らつけるのだということを何故か識っていた。一呼吸、煙草の煙を吸い込むと、存外咽せることもなく女の体は煙草の煙を受け入れた。
 女は初めて吸うのだというのにこの味を識っていた。過去を振り返るのは何だか術無い気持を女に齎した。元彼のキスの味だ。その事実は、女を過去の処女だった頃の気持に引き摺り込むのに充分な働きをした。あの頃に戻りたいとも思わないが、進みたいとも思わない。

 恋人は家で待っているのだろうか。そんな事を考え乍ら、女は煙草の煙をゆっくりと空に向けて吐き、コンクリートで火を揉み消すと、吸い殻を無造作にポケットに突っ込んだ。

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