イマココ

  毎年豪雨に遭うこの地域では、土砂崩れなどの災害を他人事には出来ない。佐嘉神社前から佐賀駅に掛けての周辺の街中でも、道が水没してしまって雨が膝程まで溜まる。異常気象と云われて長い年月が経ったが、この地球は人の棲み難い状態に陥っているのか、反面技術が進みSFの世界だと思っていた近未来も、もうそこまで近付いている。
  幼い時分、バック・トゥ・ザ・フューチャーという映画を観たことを記憶している。あの映画のように車はまだ空を飛ばず、沈没した道を車で走らせているとエンジンから異常な音がした。自力走行は出来るが、兎に角その故障音は耳障りであった。
  佐嘉神社前では今年も道路を鯉が游ぐのだろうか。自宅の台所は今年も雨漏りをするのだろうか。
  靁が明滅し、轟音が雨の音に割り込んでくる。車を駐車場に停め、修理に出さなければならないな、と考え乍ら陰鬱に強打してくる雨の中を自宅まで走り急いだ。玄関を開けると誰も居ないいつもの自宅に脚を踏み入れる。豪雨に晒された所為だろう。ずぶ濡れの身体は夏だというのに冷えてゆく。指先が小刻みに振戦しており、その場で蹲った。額から流れる雨水が眼の中に入る。荒くなった呼吸を調える為に深呼吸を試みる。
  外の様子とは打って変わった闃とした室内は、カーテンも開けて居らず光を遮断した空間と成り果てていた。胸の奥の煩擾をそっと噛み締め、イマココに居るという感覚から遠ざかってゆく。
  蹲っている人が玄関先に居る。それが自分自身であると俯瞰して視ている。こういう現象を離人症と呼ぶらしい。そこに居る人物は自分であって、自分ではないような。そう、それこそ他人事のような……。
  車が壊れた事が特別厭だった訳ではない。雨に打たれた事が特別厭だった訳でもない。イマココに居る人物が何を考えているかも判然としない。呼吸が愈々苦しくなってくると、その人物は床に仆れ込んだ。震える手で胸を抑え乍ら、呼吸が浅く荒くなってゆくのが判る。
  この人物は相当な無理を自身に強いてきたのだなと勘考する。床で輾転としている様を眺めて居ると、玄関が開いた。立っていたのは長身で茶髪の男であった。
「荒木、大丈夫か?アイス買ってきたぞ。奮発してハーゲンダッツにしたんだから感謝しろよな」
  この男は人の家に入るというのに、毎回チャイムを鳴らさない。荒木と呼ばれた人物、つまり自分は恨めしそうに男の顔を見た。男は荒木を跨いで冷蔵庫に向かうと、冷凍室にアイスを幾つか無造作に突っ込む。男は荒木の元に戻ると、ゆっくりと背中を摩った。言葉は無かった。男の手の体温が背中から伝わり、荒木は背中に集中した。
  気が付けば意識は荒木の中に戻っていた。手先が冷たい事がよく判る。背中が温かい事がよく判る。嗚呼そうか、と独り言ちる。これがイマココなのか、と。

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