誰が為の--

 水槽を漂っていると、ガラス越しに一人の人間と目が合った。他の個体は僕から離れて泳いでいる。僕は自慢の尾鰭をヒラヒラと見せ付け、この中で自分が一番美しいのだとアピールをした。人間は僕にはわからない言葉を使ってコミュニケーションを取っている。その人間は僕を指差して他の人間と会話をしているようだ。
 暫くして、僕は日頃僕と他の個体をお世話していた人間に掬われ、小さな水槽に入れられた。真っ暗な水槽だったが不思議と怖くはなかった。長い時を暗闇で過ごし、漸く光が射した。僕は広々とした水槽に移され、今までと違う水の心地を体感しつつ散策した。
 水草を掻き分け、砂利擦れ擦れを泳いでみたり、水面まで泳いで口をパクパクさせてみたりした。すると、人間は僕の思った通り、食事を上からパラパラと落としてきた。うーん、この味は今までより少し上等だぞ。と、思い乍ら深く味わっていく。どうやらこの水槽には僕以外の個体は居ないようだ。
 僕は人間に「美味しい」と伝える為に、水槽の隅から隅までを泳いで回った。人間は何やら水温を調整しているようで、僕の喜びの舞は見ていたのかよくわからなかった。
 これが僕と人間との出会いなのであるが、僕は退屈な日々を過ごす事となる。日中人間は家の中には居ない上に、この水槽には他の個体も居ない。毎日同じくらいの時間に食事が降り注ぎ、不定期に水が変えられる。それだけの日々である。
 程なくして僕は自慢の尾鰭が少し欠けている事に気付いた。人間に異変を伝える為に、人間がくる時間に尾鰭を誇張してヒラヒラと動かした。しかし、人間はいつもの様に食事を水槽に入れると、暫く眺めて去って行ってしまった。僕には人間の表情を読み取る力はない。ましてや言葉を交わすことも出来ない。
 僕は日毎に食事を受け付けなくなってしまった。尾鰭はガタガタに形が変わっていった。そんなある日人間が見慣れない青い液体を水槽に入れてきた。薬品のようである。流石にこんなに尾鰭の形が変わってしまって異変に気付いたのだろう。僕は昔居た水槽で、他の個体が尾腐れ病に罹っているのを見た事がある。その個体はすぐに姿を消してしまったから、どうなったかはわからない。
 薬の効果からか、僕の尾鰭は少しずつ回復していったが、何だか体調は良くならなかった。少しして水面に僕の身体から剥がれたであろう鱗を見付けた。患っていた病はどうやら一つではなかったようだ。人間は僕のことをどう思って居たのだろうと、つと考えを巡らせる。
 思い出した。僕たちは人間の観賞用に生まれたに過ぎない。代わりの個体は幾らでも居るのである。だから僕は美しく在らねばならなかった。が、鱗は剥がれ視界の端には身体が変形しているのが見える。視界が狭窄し、鰭に力が入らないことがわかる。愈々呼吸が出来なくなってくると、そのまま水面に身体が浮かんでいく。今際の際に、人間が此方を観ていることがわかったが、やはり僕には人間の表情を読む力がなかった。

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