ルール

 会社の昼休憩。美嘉は決まった喫茶店でランチを頼む。特に食べ物に関する好き嫌いもないので日替わり定食とする事にしている。ランチの後は決まってアイスティを注文することとなっている。冬でもホットにはしない。一時間しかない休憩の三十分を食事に費やし、十五分くらいをアイスティを飲み乍ら読書することとなっている。読む本は日に依って違うが、鞄に文庫本を忍ばせておく事を忘れてはならないこととしている。
 そして、会社に戻れば決まった業務を熟す。営業事務課所属の美嘉は主に営業担当者と組み、資料作成を行うことが仕事とされている。時にはイレギュラーな事の対応もしなければならないが、概ね淡々と熟す仕事に不満はない。
 昨今流行しているというアニメに「スパイファミリー」というものがあるそうだ。なんでもスパイと殺し屋と超能力者が互いの素性を隠して似非家族を作るというあらすじだそうだ。その二話での女たちの会話がツイッターで話題になったことも記憶に新しい。なんでも廿七歳くらいで結婚していないと世間的におかしい。という内容のものであったから、晩婚化が進む日本ではセンシティブな話題となったのであろう。
 確かに美嘉は今年で三十だが、結婚どころか恋人も居ないという状況である。廿伍になった時に、恋人は作らないこととしたのである。当時交際していた恋人と結婚の話題も上がっていたが、その恋人は覚醒剤の所持で捕まったのである。美嘉は当時の恋人が法に抵触する様なことをしていたとはつゆにも識れず、浮かれてウェディングドレスを自身でデザインし、ミシンで作っていたところであった。ツギハギでまだ洋服としての程を満たしていなかった純白の布切れは、警察から電話があったその日に燃えるゴミへと処分してしまった。
 エリクソンは人間の発達課題に於いて、初期成人期の課題を親密性対孤独と定義した。凡そ現在の美嘉くらいの年齢がその時期に含まれる。愛を獲得することが課題なのである。しかし、美嘉は愛の獲得を得られなかった。そこに待ち受けるのが孤独という訳である。
 いつから人間は孤独を悪としたのだろうか。美嘉はエリクソンの著書「主体性―青年と危機」の中頃に栞を挟んで本を綴じる。銀色の腕時計を確認すると、後十分で昼休みが終わろうとしていた。会計を済ませなければならない。
 美嘉が「こうすることとなっている」としていることは、美嘉自身が決めたルールである。このルールの上に乗っていないと、足元から地面が崩れてしまうかの如く不安に駆られるのだ。
 喫茶店を出ると、容赦ない日差しが美嘉の頭上から降り注いでくる。オフィス街の熱気はビルが押し込めるようにして、厭な空気を閉じ込めている。申し訳程度の街路樹は青々とした葉を揺らした。カラフルな車たちが青信号に向かって通り過ぎてゆく。
 つと、ビルとビルの隙間に露草がこっそりと隠れているのが視える。「此処に居るよ」と主張することのないその花を観て、美嘉はホッと溜息を吐いた。
 変わらない日常。変わらない孤独。変わらない自分。胸に手を当て、鼓動を確認する。正確なリズムを刻む心臓は、まだ明日を約束してはいないのだと美嘉に話しかけているようであった。

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