向日葵に凝視められて

 深緑の中、心を何処かに置き去りにし、林道の底へと進んでゆく。苔むした地面を両脇に見据え、遊歩道が畝り乍ら男の歩む道を示している。誰が為この地に来たのか。直射日光を遮る木々が仄かな風に揺られ、さわさわとひそひそ話をするかのように囁いている。
 途中に細い小川が道を横切り、その上に石で造られた小さな橋が架かっている。湿っていた地面と比べて、その石橋は陽が当たるためか熱を帯びているように見える。蝉時雨は鳴り止まず、小川のせせらぎを聴くには耳を澄まさなければならなかった。
「久しぶり」
 目的地に到着すると、男は片手に持っていた花束を地面に置き、墓石の前に置かれた花瓶に挿された枯れた花であったものを取り除いて新しい花を花瓶に挿す。花瓶には近くにあった水道の水を入れた。以前入っていたであろう水は干上がっていた。
 公共用に置いてある水桶と柄杓を借り、墓全体に水を流してゆく。雑巾などはなかったので、汚れを一通り流してそのままにした。リュックサックから線香とライターを取り出すと、火をつけて線香立てに突っ込んだ。男はそっと手を合わせた。
 どれくらいの時をそうしていただろうか。男の額からは汗が滲み、次第に滴となって首筋を流れていった。
「菊の花は嫌いだって云っていたから、君の好きな向日葵を持ってきたよ」
男は合わせていた手を下ろし、その場で屈むと墓石に向かって話しかけた。
 田舎に帰ってくるのも一年振りであろう。都会では忙しなく働く日々が続いていた。妻が亡くなってから、働く意義など男にはなかった。それでも只管に働いた。意味などない。もうこのまま死んでしまってもよいのだと何度もそう思った。しかし、男は臆病であった。死ぬ勇気など持ち合わせていないのである。妻が居なくなってからも、「おかえり」と云ってくれる人が居なくなってからも、職場と家の往復を繰り返した。
「結局、俺は無力だったんだね」
 墓石は返事を返すことはない。男はリュックサックを背負い直すと、墓石に背を向け元来た道を戻る。背中に汗でシャツが引っ付く不快さと、妻が此方を観ているような視線を感じる。
 振り返ると、向日葵が燦々と降り注ぐ太陽光を浴びて、黄色い花弁が透き通っていた。男は風で髪が乱れるのをそのままにし、また帰路へと歩を進めた。
 また平凡な日常に戻るだけである。男の後ろには眩しい向日葵が咲くが、歩む先の道には小さな花一つ見つけることも叶わなかった。

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