ライラック

 ブランキージェットシティは、ライラックの花を全く識らない状態で、「ライラック」という楽曲を書いた。彼らが云うには多分赤くて五センチくらいの冬に咲く花、ということだが、実際は五月頃に咲く花木で紫色、藤色、紅色、白色の花である。和名はムラサキハシドイ。切花としても優秀な花である。
 だが、彼らは冬の情景を見事に演奏し乍ら、ライラックを取り巻く出来事を演出している。実際がどうであろうと、真冬にコートを着込んでライラックを凝視める。情景が浮かぶようだと初めて聴いた当時は思ったものだ。
 僕はライラックの咲く木がある公園に来て、目の前のベンチに坐ってライラックを見据える。今日は少し天気は曇っている。昔好きだった子に僕はブランキージェットシティのライラックの楽曲を教えた事がある。その女の子は甚くその楽曲を気に入って、僕をカラオケに連れて行ってはライラックを一緒に唄ったものである。
 その子は梨花という名で、僕とは違うゼミに所属していた。梨花は僕が公園でスケッチブックを拡げ、写生している時、その周りをウロウロとして一眼レフで写真を撮って回っていた。梨花は写真科、僕は油絵科であったから二人で出掛ける時はこうした場面が屡々あった。
「何描いてるの?」
 丁度五月のこの季節に、梨花ともこの公園に来た事がある。僕はライラックだと説明すると、梨花は「ライラックはこの花なの?」と不思議そうにしていた。アクリル絵の具でワトソン紙に紫色の色合いを置いてゆく。近頃の五月は非常に暑く、太陽光が燦々と降り注ぎ、ライラックの花弁が透けている。眩しさに眼を細めていると、隣でシャッター音が鳴る。梨花は写生をしている僕を写したようだった。
「写真写り悪いからやめてよ」
 僕が嫌がるのは梨花も承知だ。しかし、悪戯気に微笑うだけである。梨花が僕に謝ったことは一度もない。向上心のある性格と云えば聞こえはよいが、俗に云う意識高い系であり、高慢なところが梨花にはある。授業などでも梨花の絵を見た事があるが、お世辞にも上手くはない。が、梨花は得意気に自分の作品を見せびらかすところがあった。
 梨花に振り回され続けて学校生活を送るうちに、僕は自分の成すべき事を見失いつつあったのではないかと今なら思う。雷が怖いという梨花の家に行って側に居てやったりした。不機嫌になるとブーケを買って届けに行ったり、アイスを買って持って行ったりした。梨花はそんな健気な僕を玄関先で放置したり、罵声を浴びせて追い返したりした。
「ヒナー?ライラック描けた?」
 梨花の声に僕は首肯する。女の子とは不思議な生き物だ。僕も肉体が女の子で無ければ気持ちを素直に云えただろうかと思案した。
 あれから梨花が上京したのだけ憶えている。僕は卒業後に福岡で、個展「平松比奈展」を行ったが、僕が在廊していない時に梨花は来ていたようだった。芳名録に梨花の名前が書いてあったので識ることが出来た。卒業間際に、梨花が僕の家を訪ねて来たことがあり、僕はもう来ないでくれと追い返した憶えがある。梨花は留守電に「一番好きだったのにな……」と残していた。僕は遣る瀬無い思いで返事をしなかった。
 あれから何年も経ったのに、この公園のライラックは色褪せない。曇っていた雲の隙間から日射しが射してきて、ライラックの木をライトアップする。紫色のライラックは恋の芽生えを彩っては、思い出を鮮やかなものとした。僕は少しだけライラックを口遊んだ。

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