とある問答

 人は十代の内に自己の内面と対話すべきである。己とは何者か、己は何の為に生を受けたのか。自己の存在意義または存在価値、自己が存在することで何が起こるのかを想起しておく必要があるのだ。自己対話とは即ちコミュニケーションの始まりであり、他者との対話で己を見つめ直す機会を作るのもよいだろう。
 真琴は鏡を観ながら「お前は誰だ」と問答していた。これは、気が狂うから辞めた方がよいとされる事だそうだが、真琴には関係なかった。自分とは何者であるか、それが昨今の最大の関心事であった。鏡からの情報は自分の容姿だけである。自分の顔を繁々と視詰め乍ら、問答をする日々を繰り返す。
 何者か。それは誰にもわからない。何故ならヒトは誰も何者でもないからだ。肩書きという物がある。学生、男、長男、そう云ったもの。真琴の親に当て嵌めれば、父は社長、母は専業主婦、と云う肩書きがある。それは、社会の通俗的な概念で形成された何者かである。生物として視ればヒト。パスカルは人は考える葦であると述べた。考える事が他の生物と違い与えられた特権だろうか。
 二重瞼が眼鏡の向こうでパチリと瞬きする。これは生物的な反応。真琴を真琴足らしめる要素にはなり得ない。内面に深く潜り込もう。真琴は目を閉じる。心臓の鼓動に耳を澄ます。生きているという感覚を掴もうと努力する。生を受けたこの身は何処に向かおうというのか。真琴の脳裡に浮かぶのは、まず死である。死に向かって今も心臓は鼓動を刻み続ける。死は万物の終着点である。生に執着するのはこの上なく虚しい。
 かと云って、今すぐ死んでしまうのは何かが違う。その何かを希求する事こそが、自己が何者であるかの探求である。何故今すぐ死んでは不可ないのか。その理由は恐らくない。自分が自分らしく生きたという痕跡を求めているのだ。
 肩書きでは語れない何かを求めているのだろうか。それとも、肩書きで収束する問題なのであろうか。後者なら努力次第で実現可能であろう。喩えば、真琴が小説家に成りたいと願う。そして、小説を書き上げ発表し続ける。他者の評価を基準とするならば、肩書きとしての小説家は本で収入を得る職業としての肩書きになるだろう。自己の評価を基準とするならば、本を発表し続けることで小説家と名乗ることが出来るだろう。
 後者の何者かは、夢や目標とするものを成し遂げた時、肩書きを得る事に因って何者かに成るということが出来るのである。
 さて、前者の肩書きでは語れない何かとは一体何か。真琴の思案は暗礁に乗り上げた。人間の何者かは人が物差しで測るが如く設計された何者かであり。唯一無二の何者かには成れないと壁にぶつかる。
 恐らくは、この人に愛されたい。などの、愛の対象になる。人々に尊敬されたい。などの、信仰の対象になる。これらは確かに唯一無二である。小説家という肩書きは沢山居るが、個人の感情の対象はまたそれぞれである。
 真琴は唯一無二であることを目指していたのだろうか、と思考をリセットさせる。何者かでありたいという人間の願望とは即ち、他者に依存するものである可能性が高い。が、自分がとある者であると語る時、自己の納得が必要でもあると直感する。
 真琴は再び目を開ける。視界には自身の顔が映る。そして、呟く。
「お前は誰だ」

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