ルームメイトがやってきた時のはなし
ある時、一人暮らしの家に生き物を迎え入れることにした。
うちにやってきたその子は思ったより体温が高くはっきりした心音がして、まだ線は細かったが初日にして与えたケージを冒険し尽くす肝の据わった生き物だった。
決断するまでにものすごく悩んだ。その生物についてたくさん勉強もした。
どんなに悩み勉強しても、迎え入れた後自分はその生き物に苦痛を与えないだろうか、と不安で仕方なかった。
生き物を迎え入れるなんて、エゴでしかないのだ。
ぼくは虐待のサバイバーである。
与えられてきた選択肢は基本的に何を選んでも絶望的だ。生き延びるには死なないための「正解」を常に選びつつ、その時々で、自分で選んだなんて思わないように強く強く戒める忍耐力と、自分で選んだのだと諦めて自分を無力に服従させる勇気とを上手く切り替えながらやりくりするしかない。
そうやって選択と決断の数多をやりすごしてきて、ぼくは毎回の選択で自分にとっての「しあわせ」や「最適解」を決めたり選んだりできる訳ではないということを知っている。
ぼくは、「しあわせ」や「最適解」を選択するための検討や選択そのものをいつも先送りにしながら、大抵実際にどう行動するかは自分に起こることを追うままにしている。
選択に能動的な意味がいつもあるとは限らない。
自分に起こることを追っていたら、たまたまそのときそうだった、そんな惰性と共に、進む時間をやりすごす。
でも、ぼくはその時自分で選んで生き物を家に迎え入れた。
ぼくは誰かと暮らしたかった。
ぼくは、自分で「しあわせ」を期待して選択した時、自分が何を選択しても、それが「しあわせ」であることを知っている。
これはまちがっても、苦しいと思ったことも見方を変えれば幸せだと感じることもできる、みたいな暴力的なことが言いたいのではない。たまにしあわせだろうの期待が外れる時だってあるが、それは単に後からその選択の内容の解像度が上がっただけのことである。その時は上がった解像度のもとに、また選択を検討すればいい。
今その子は、ぼくの家で暮らしている。なんならその子の方が家主でぼくは住み込みのお手伝いさんだ、と言わんばかりのお顔で「おまえ、遊んでやろう、ん?」と微笑んでくる。
きっとその子にとってうちでの暮らしに文句はあるだろうが、ぼくだってかじり木を齧った残骸をケージの外に撒き散らされると「遊びに集中するのは大変よろしいですが、これはちょっと改めていただきたい」と話しかけながら掃除するし、お互い様だ。
時間をやりすごすばかりで生活なんてものがなかったぼくの部屋の中で、すっかりご自分流にDIYしたケージで眠っている姿を見て、「生活してんなー」と思う。
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