阿多棒庵

阿多棒庵は、安土桃山時代に生きてた兵法家のおじいちゃんで、わたしの推しです。柳生石舟斎と交流があったみたいです。噂によると奈良の大峰山あたりに隠居してたみたい。 あと、白土三平さん、小島剛夕さん、小池一夫さん、相原コージさんが好きです。

阿多棒庵

阿多棒庵は、安土桃山時代に生きてた兵法家のおじいちゃんで、わたしの推しです。柳生石舟斎と交流があったみたいです。噂によると奈良の大峰山あたりに隠居してたみたい。 あと、白土三平さん、小島剛夕さん、小池一夫さん、相原コージさんが好きです。

マガジン

  • 伊能忠敬の測量日記 一巻

    伊能忠敬の測量日記を現代語訳しました。 当時の風景は Chta GPT 4o が作っています。

  • 盛岡藩雑書 四巻

    延宝5年1677年〜盛岡藩の藩政日誌を現代語訳。 当時の風景はChat GPT 4oが作っています。

  • 日記

最近の記事

伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月8日】〜測量49日目〜

寛政12年6月8日。 この日も朝から晴天でした。 夜も同様に晴れていました。 朝6時頃に、出発。 海沿いを約4里(約16km) 進んだところで昼食をとりました。 さらに約8里半(約34km)進み、 午後19時半頃に オシャマンベ(北海道長万部町)に到着しました。 会所(役所や宿泊施設)に宿泊しました。 この夜、測量を行いました。 それまでの約9日間、朝夕ともに、単衣(裏地のない軽い着物)を着て過ごしましたが、それでも、非常に暑い日もありました。

    • 盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月15日】

      南部重信に会いに来た人たち延宝5年8月15日。朝は晴天からの曇り (墨で消された部分) 卯の半刻(午前6時頃)に、 殿様が御出発されました。 辰の上刻(午前8時頃)に、 御城に帰還されました。 この日は、右両社(神社)へ参拝されました。 殿様は御居間で、 高知出身の者たちにお目通りされました。 また、毛馬内(秋田県 鹿角市)の「文右衛門」と「三右衛門」という父子もお目通りが許されました。 この父子は、去る8日の総礼の時に、病気で参上できなかったため、今日改め

      • 伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月7日】〜測量48日目〜

        寛政12年6月7日。 朝のうちは雨が降りました。 午前8時頃から晴れました。 夜は曇りでした。 6日の夜(昨夜)進む予定だった川が、 雨のため増水して歩くのが難しくなりました。 そのため逗留しました。

        • 盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月14日】

          延宝5年8月14日 晴天 今日は、「大智院」様(現藩主・南部重信の亡き正妻)の命日であるため、代参(多忙な南部重信の代わり)として「野田金太夫」が、聖寿寺に派遣されました。 (欠) ※以下文は、状態が悪くて解読不可。

        マガジン

        • 伊能忠敬の測量日記 一巻
          47本
        • 盛岡藩雑書 四巻
          49本
        • 日記
          10本

        記事

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月6日】〜測量47日目〜

          寛政12年6月6日。 朝は曇りでした。 午前10時頃から晴れたので、 正午に、太陽の位置を測りました。 その後、午後16時頃から再び曇り始め、 夜には雨が降りました。 この日は滞在したまま過ごしました。

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月6日】〜測量47日目〜

          盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月13日】

          お魚と神社延宝5年8月13日。 朝から小雨が降りました。辰刻(午前7時頃)からは薄曇りの天気となりました。 ◎海栗(ウニ)の貝焼きが2つ ◎小鯛の焼き物が3枚 「兵助」が献上しました。 (献上とは 目上の人 多分大殿様にあげること) 八戸(青森)から「中里弥次右衛門」が 飛脚を通じて、鰹2尾を、献上しました。 御日待(祭礼)の祈祷のための御守札が、 「亀之助」様、「鶴之助」様、そして母上様のために、「永福寺」にて揚げられました。 (祈祷でもらったお守りの札を永福寺

          盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月13日】

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月5日】〜測量46日目〜

          寛政12年6月5日。 朝から午前8時頃までは晴れ間があったけど、 その後は薄曇りとなりました。 夜の午20時以降には再び晴れ間が戻りました。 この朝の午前8時に、 「鷲木村」を出発しました。 道中、「オトシベ村」で昼食を食べました。 オトシベ村は鷲木村から、 3里(約12km)離れています。 さらに海辺を5里8町(約20km)進んだ後、 午後16時に「山越内」(北海道 二海郡八雲町)に到着しました。 ここで、「湯氏三右衛門」殿や、 御徒目付(御用のための巡視を行う

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月5日】〜測量46日目〜

          盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月12日】

          令和でいうと、激辛の紅鮭 寛政12年8月12日。 薄曇りで、昼ごろに雨が降りました。 しばらくして晴れた。 夜中にまた雨が降りました。 毎年恒例の仕事です。 鮭の塩引き(塩の中に保存した超辛い鮭)を引き上げるため、奉行から命を受けました。 小本(岩手県下閉伊郡岩泉町)には「摂待太右衛門」、市川(場所不明)には「小向次郎左衛門」 が今日の担当者になれ!と命令を受けました。 御扶持方(食糧や物資を配給 管理する役職)や、御伝馬(物資や人の移動手段となる馬や船を管理する

          盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月12日】

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月4日】〜測量45日目〜

          延宝5年6月4日。 朝の6時ごろまで大雨が降りました。 それから何度も 中くらいの雨が降りましたが、 夜の19時半までには時折晴れ間が見えました。 雲の隙間を利用して、測量を行いました。 ↓伊能忠敬が滞在している「鷲ノ木村」は、紀元前2,000年頃の遺跡もありました。

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月4日】〜測量45日目〜

          盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月11日】

          盛岡藩主・南部重信の厄払い延宝5年8月11日 昨夜から大雨が降り続いています。 「櫛引八幡宮」の祭礼が、15日に行われます。 神酒(おみき)2樽を、 八幡三位(僧侶の地位)の僧に託して、 送り届けてもらいました。 取次役(神事の手配・担当者)は、 「高橋惣左衛門」が務めました。 大殿様(南部重信1616〜1702)の、厄払いと立願(神仏に願いを立てること)について、永福寺の先達(導師)に申し上げました。 13名が早池嶺山(はやちねさん)に参拝します。

          盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月11日】

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月3日】〜測量44日目〜

          今日も風が強いので留まります寛政12年6月3日。 朝は曇り空。 南西の風が吹き、たびたび雨が降りました。 夜も同様の天気でした。 この日も、一昨日から滞在している 「鷲ノ木村」に滞在しました。 紛失した測量器具が見つかったこの日、三既村の庄屋である 「忠兵衛」の家から書状が送られてきました。 さらに箱館(函館)からの伝達により、 大きな方位盤と銅製の器具が届けられました。 測量器具と一緒に届いた手紙測量器具紛失事件の担当者 三既村の庄屋「工藤忠兵衛」 からの手

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月3日】〜測量44日目〜

          盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月10日】

          蔵の管理について御土蔵(蔵の管理や財産)に関して、 今日、「野辺地井右衛門」を通じて 殿様に報告します。 しかし、殿が御下向(お出かけ中)の場合は、 老中(高位の役人)に伝えてください。 老中が殿に話しておきます。 ちなみに、殿は12日に江戸に行く予定があります。 雲雀は鷹の餌昨日、武士や高位の役人たちに、 雲雀を送りました。 贈り物を届ける担当者「米内孫兵衛」が 無事に、直接彼らに届けました。 自宅の庭で採れた梨「桜庭兵助」の代理人「井右衛門」は、 自分の庭で

          盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月10日】

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月2日】〜測量43日目〜

          寛政12年6月2日。 朝から雨天で、夜も雨天でした。 これにより逗留した。 (昨日と同じ場所「鷲ノ木村」に留まった) ↓「鷲ノ木村」があったであろう場所付近。

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月2日】〜測量43日目〜

          盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月9日】

          鉛を発掘したので税金を払う延宝5年8月9日 曇 和賀郡 沢内山(現在の和賀郡西和賀町沢内新町)に住む「仁左衛門」は、鉛を運び出す「鉛御運上申請」をしました。 ◎これは、鉛を採掘し、その一部を税として納める手続きを申請したことを指しています。江戸時代、鉱物資源は藩にとって重要な収入源であり、特に鉛のような金属は価値が高いため、藩への貢納(運上)という形で税金が徴収されました。 鉛200貫目(750kgほど)が、 和賀郡沢内の志戸前山(現在の岩手県雫石付近)で、採掘され

          盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月9日】

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月1日】〜測量42日目〜

          ◎間違っているところがあったら教えてください🥲💖 北海道の測量1800年6月1日。 午前6時に出発。 朝から午後16時頃まで晴れていたけど、 午後22時頃から雨が降り始め、 真夜中からは大雨になりました。 移動距離は4里4町(17.7km)。 「内浦岳」(駒ヶ岳)という山と、 「スクノッペ」という山の間には、 休憩所として使われている1軒の家がありました。 その手前には、 「大沼」と「小沼」という池がありました。 (1640年の地震によってできた池) さらに4里

          伊能忠敬の測量日記・現代語訳【1800年6月1日】〜測量42日目〜

          江戸時代の育児日記。初代の松前藩主「慶広朝臣」の子供たち。

          側室の子・利広の人生男の利広(としひろ)、初めの名前は行広(ゆきひろ)、幼名は龍丸(たつまる)で、松前長門守(まつまえ ながとのかみ)と称しました。 彼は妾腹(しょうふく)として生まれました。性格は豪放磊落(ごうほうらいらく)で、武芸に優れ、さらに書道や医術も得意でした。 最初、南部信濃守利直(なんぶ しなののかみ としなお)の養子となりましたが、後にその関係がうまくいかず、帰郷しました。 そして藩の政務を担当するようになります。しかし、元和4年(1618年)7月2

          江戸時代の育児日記。初代の松前藩主「慶広朝臣」の子供たち。